18 tender
3月の丁度真ん中、2週目の土曜日、陽佳(あきよし)の卒業式。
式の終了時刻は前もって陽佳の母親に聞いていた。
朝、式に出かけるおばさんと顔を合わせた。オフホワイトのふんわりとしたイメージのスーツなのに、おばさんが着ると何だか妙にキャリアウーマンみたいに見えた。どう? と訊ねられ、とても似合ってます、と答えると、意気揚々と出かけて行った。
卒業証書の授与式が終わり、教室でのホームルーム、それに別れを惜しみつつの解散──と頭の中で時間を計算しながら、何時頃家を出ようか考えた。
きっと、卒業式名物の告白ラッシュが巻き起こるに違いないから、あまり急ぐこともないだろう。
陽佳は、昨日、突然髪を切りに行った。
卒業式くらいこざっぱりとしてきなさい、と母親にでも言われたのか、それとも自分の意志なのか。床屋、ではなく美容院。帰って来た陽佳は、わざわざその姿を俺の部屋まで見せに来た。
部屋に入ってきた陽佳を見た瞬間、俺は顔が赤くなっていくのに気付いた。
元々、整った顔だということは知っている。それは、多少身なりに構わなくたって、マイナス要素にすらならない。しかし、それをさらに輝かせる細工は、心臓に悪い。
陽佳の、少しクセのある髪が、やんちゃに跳ね、それがやたらとさまになったその髪型は、いつもばっさりと短く切るだけの陽佳にしては珍しく、長さを残していた。理由を聞いたら、なっちゃんが長いのを気に入ってるみたいだったから、なんてさらりと言ってのける。いつの間にそんなことを言えるようになったんだ。
確かに俺は、陽佳の長い髪が好きだ。それをかき上げたり括ったときに露わになる整った顔が、協調されるような気がする。
陽佳は切ったばかりの髪を指先ですっと適当にすきながら持ち上げて、てっぺんでつまみあげてみせた。ほら、ちゃんと結べるよ。そんな風に言われて、俺がその髪型に密かにときめいていたのを、ちゃんと分かっていたのだと知った。
陽佳のくせに、いつの間にそんな技を覚えたんだよ。
俺はあまりに輝きを放つその顔を直視できなくて、困ってしまう。
──明日でようやく終わりだからね。
陽佳はなぜか少し辛そうな顔をして、それでも笑顔を作ってそう言った。俺はその表情を少し怪訝に思ったが、気付かないフリをして、小さくつぶやいた。
──その顔じゃ、明日が心配だ。
これは、予想以上に女子生徒に取り囲まれるに違いない。
俺は諦めにも似た思いで、言った。
──明日、か。
陽佳がにこりと笑って、うん、そうだね、とうなずいた。
俺は式が終わるまでの時間をふらふらと駅前の本屋やカフェで過ごし、ゆっくりと散歩するかのように中学に向かって歩いた。
式が終わったばかりなのか、校庭には父兄の姿がちらほらと見えるだけだった。その中に、俺は今朝も見かけたオフホワイトのスーツを見つけた。
「おばさん」
声をかけると、陽佳によく似たきりりと整ったきれいな顔が振り向いた。
「ナツくん、来てくれたの?」
「式、終わりましたか」
「今ね。もうすぐ出てくると思うけど」
おばさんは陽佳のクラスメイトの親らしい数人と話していたらしく、周りにいた父兄に短く言葉をかけ、その場を離れた。
「最近は、土日にやることが多いんだって」
「ああ、ご両親で出席できるように、ですか」
「そうみたいね」
「おじさんは?」
「仕事」
うちの父親も休日出勤だ。年度末は色々と忙しいらしい。
「ところで、見た、あの子の頭」
「はい」
「何の気紛れかしら。散々あの鬱陶しい髪してたのに、急にばっさり切っちゃって」
「でも、似合ってましたよ」
「そうね、少しは見られるわね」
少しは、なんてものではない。そうでなくても整ったあの顔を人前にさらすだけじゃなく、さらにその魅力に磨きをかけてしまっている。
惚れた欲目を抜きにしたって、ちょっとしたモデルや、十把一絡げに「イケメン俳優」なんて呼ばれている連中だって、裸足で逃げ出すほどだと思う。
「あ、そうだ。今日、あの子の卒業祝いをする予定なの。うちで準備してる間、ナツくんあの子を引き留めておいてくれる?」
「卒業祝い、ですか」
「ナツくんのお母さんと2人で、料理作ってる間、お願い」
「はい」
「夜、19時頃の予定だから、それまで秘密にしてて」
「分かりました」
俺はとりあえずうなずいておく。互いの家での合同の食事や飲み会は、いつものことだ。何かにかこつけて親たちは飲み食いを楽しんでいる。俺たちはいつも、最終的には2人で放っておかれるだけである。
「まあ、引き留めなくたって、アキはナツくんのとこに入り浸ってそうだけど」
おばさんが呆れたような顔をしたので、思わず笑ってしまった。
「そうですね」
「ごめんね、ナツくん。4月からも迷惑かけると思うけど」
「慣れてます」
このやり取りも、いつものことだった。おばさんが苦笑した。俺たちが笑い合っていると、昇降口から生徒たちがぱらぱらと姿を現した。
「あ、出てきた」
その長身は、ひときわ目立った。もちろん、それは身長のせいだけではないが。
陽佳は、友人らしい男子生徒と話しながら校庭に出てきたが、彼らと別れた途端、わっと女子生徒たちに囲まれた。想像はしていたが、おびただしい。
「あらら」
おばさんが、驚いたように声をあげた。
「しばらくは、解放してもらえそうにないですね」
「モテるのね、アキ」
「モテますよ」
少しの間、待ってみた。けれど、10分ほどで、おばさんがうんざりしたように溜め息をついた。
「ナツくん、まだいる?」
「はい。陽佳と一緒に帰ります」
「じゃ、私は先に帰るわ」
「分かりました」
おばさんが陽佳の元へ向かい、何か一言かけて校門を出て行った。俺はおばさんに手を振って、それからまだしばらくは途切れなさそうな女子生徒の列を見つめ、仕方なく校庭の隅に移動した。陽佳の姿はよく見えた。
いつの間にか陽佳の着ていた学ランはべらっと前が開いたままになっていて、ついていたボタンはみんな奪われたのだな、と分かった。それでも列は続く。俺は黙ってそれを見ていた。
なっちゃんが好きだよ。
陽佳はいつも、そう言って笑う。
なっちゃんだけが、大好きだよ。
だから、信じて待つ。
30分以上、俺は遠目にその姿を見ていた。ようやく最後の一人が離れ、俺も少しうんざりした思いで陽佳の方へ歩き出した。けれど、そのとき、背後から陽佳に声をかける人がいた。
多分、教師なのだろう。目を凝らしたら、見覚えがあった。ひとつにまとめた髪、派手さはないがわりと整ったきれいな顔。記憶の中よりも幾分濃くはなっているものの、相変わらずのナチュラルメイク。陽佳の担任だ、と気づいた。
陽佳が振り返り、2人は校庭の隅に移動した。
刹那、俺の胸がざわざわと騒いだ。
2人が何か話している。担任らしき女教師が、どこか晴れやかに、甘えるような笑顔をしていた。陽佳に話しかけるその仕草に、なぜか不快なものを感じる。
──近い。
そう思った。女教師が間合いを詰めるように、陽佳に近づく。その距離が、教師と生徒にしては、不自然さを感じさせる。
それともこれは、俺の気のせいなのか?
笑顔で話す女教師の姿を見ていたら、なぜか口中に甘ったるいものを噛んだような気分になった。そしてそれが、時々、陽佳の身体からかすかに香る香水だと俺は気付いた。どうして突然、その香りを思い出したのだろう。
香るといっても、注意しなければ分からないくらい、ほんの少し。俺を抱き締める陽佳の身体のどこかから、掠めるように、その名残を感じることがあった。けれど俺はそれを気にしてはいなかった。中学生にもなれば、色気づいて香水を使うクラスメイトの1人や2人いるだろう。たまたま近くの席のその生徒から移ったとしても不思議はない。
第一、陽佳がこんな香りを移されるようなことをするはずがない、と思っていた。
だって、陽佳はいつも、俺を好きだと言う。
俺以外は好きにならないと。
俺は陽佳にそれ以上近付けなくなった。その場で足を止め、2人を見つめた。話し声は聞こえない、微妙な距離。だから、何を話しているのかは分からなかった。
陽佳。
その背中に、心の中で呼びかけてみた。
陽佳は振り返らない。まだ、女教師と向き合っている。
強い風が吹き、視界が滲んだ。飛ばされた砂が、目に入ったようだった。俺は目を押さえる。
陽佳がわずかに身を屈め、女教師に顔を近づけた。その瞬間、俺の胸がずきんと痛む。
バレンタインの高級ブランドのチョコレート。
何の前触れもなく、俺はそれを思い出した。
あれは、もしかして──
陽佳が身を起こす。ようやく目に入った砂が涙で流れ落ち、俺は滲んだ視界をクリアにした。目に入ったのは、蒼白したような女教師の顔だった。
冗談みたいに高いチョコレートの箱の末路を、俺は思い出す。
何の迷いもなく、陽佳はそれを、ごみ箱に捨てた。それきり一切、その箱を視界に入れることはなかった。
びゅ、と短く風が吹いた。砂が舞い上がり、陽佳が右手でそれをガードした。顔を背けるようにしたそのとき、その視線が俺を捉えたのが分かった。
険しかったその表情が、一瞬でほころぶ。
俺を、見た、その瞬間に。
陽佳はいったん女教師を振り返り、何事か短く告げ、すぐに早足でこちらに向かってきた。女教師が着ているスーツのスカートを握りしめ、陽佳の背中に何か、言った。けれどその声はここまでは届かない。
「なっちゃん」
陽佳はまるで飛びつくようにして俺を抱き締めた。
「来てくれたの?」
「ああ。──卒業おめでとう、陽佳」
手を伸ばして、抱き締められているおかげで近づいた頭を撫でてやる。
短い会話をしていると、ひやりとするくらい冷たい視線を感じた。見ると、女教師が俺をにらんでいた。
「お前の担任、だよな」
陽佳は振り返りもしなかった。まるで何の興味もないように、そうだよ、とだけ答えた。
「──にらまれてるぞ」
「そう? いいんだ。もう、終わったことだし」
──終わったこと?
その言葉に引っ掛かりを感じた。けれど陽佳は面倒くさそうに肩をすくめている。
「お礼参りとかじゃ、ないだろうな」
見当違いのことを聞いている自覚はあった。陽佳はあっさりと否定した。
俺は、視界の端に映るその女教師の姿に、ぞくりとした。俺をにらむその目は、間違いなく嫉妬をはらんでいた。
──嫉妬?
終わったこと、と陽佳は言った。それは一体、何のことなのだろう。
終わりがあるということは、始まりがあったということに他ならない。
じゃあ、始まりとは?
陽佳が、不安そうな顔をして俺を見ていた。目が合うと、その顔をゆっくりと笑顔に変えた。まるで、心配いらないよ、と言うように。
陽佳を信じるしかないのだということは、考えなくても分かっていた。
俺に言えないことがあっても、俺を裏切ったりはしない。俺はそう信じている。
だから。
陽佳は俺の手を引き、足早に校門を抜けた。俺は陽佳を見上げる。陽佳はまっすぐに前を向いて、どこか晴れ晴れとした、清々しい表情をしていた。
「なっちゃん、卒業したよ」
嬉しそうに、そう言った。
「そうだな」
「ようやくなっちゃんと同じ学校に行けるね」
「合格発表はまだだろう?」
気が早い、と思う。
「自己採点、9割正解だったもん」
そんなに好成績だったのか、と感心を通り越して呆れるくらいだった。
陽佳のその晴れやかな顔を見ていたら、俺は、突然、その姿に胸がきゅうんと痛むのを感じた。
どうしてだろう。何で、こんなに切ないんだろう。
時々吹く風が、陽佳の髪を揺らしていた。奔放に跳ねる毛先は、まるで陽佳そのもののように見えた。
どうして。
俺は、無性に、この幼馴染みが欲しい、と思った。
誰にも渡したくない、そう、思った。
「お祝い」
俺は思わず口にしていた。
「やらなきゃな」
陽佳がきょとんとして、聞き返す。
「お祝い?」
「ああ、欲しいものはあるか?」
言ってくれ、陽佳。
俺は必死でそれを願う。
俺を、欲しいと、言ってくれ。
「何でもいい?」
「ああ、何でも」
「──やっぱり駄目、って、聞いたあとに言わない?」
「よっぽど高いものなら、言うかもしれない」
陽佳。
俺はすがるように、その目を見つめる。
「値段じゃないよ」
そう言われた瞬間、俺はますます胸が痛くなった。
頼むから──
俺を望んで。
俺は、思いをこめて、その言葉を口にした。
「やるよ。──卒業祝いに、何でも好きなものをやる」
だから、陽佳、俺を望んで。
陽佳の瞳が揺らぐ。
頼むから、迷わないで、言ってくれ。
陽佳は俺の手を取り、ゆっくりと口を開いた。
「──なっちゃん、が」
身体が震えた。
「なっちゃんのすべてが、ほしい」
俺はその手を握り返し、言った。
「全部、やる」
陽佳の目が俺を捉える。窺うように、その言葉の真偽を探るように。
「だから陽佳──」
俺の声は、多分、最後まではっきりと伝える力を失っていた。ぞくりと身体が震えて、喘ぐように息を吸い込むと、陽佳が俺を見下ろすその眼の光が急激に強さを増した。
まるで競うように、俺たちは歩き出す。
1分1秒も惜しいと思った。
陽佳はいつしか俺の手をつかんで走り出し、俺はその手に引かれながら必死であとを追う。
家には誰もいなかった。俺は靴を脱ぐのももどかしく陽佳にすがりつき、そのまま抱き締められた。
「なっちゃん」
俺の顔を覗き込むようにして名前を呼ぶ。
部屋に飛び込み、乱暴にドアを閉めた。繰り返し、陽佳が俺にキスをする。
次第に深くなり、俺の意識がふわりと浮き上がる。
「あきよし」
くるりと俺の部屋の上下が回転したように感じたときにはもう、ベッドの上だった。
「好きだよなっちゃん」
「分かってる」
「大好きだよ」
分かっている。
陽佳の目を見つめたら、もう、何も、考えられなくなった。
俺は両腕を絡ませ、その身体を抱き締める。
陽佳の手が触れる。身体中、すべて。
──熱い。
その手のひらから伝わる熱が、俺を焼き尽くすかと思った。
陽佳は俺に何ひとつ苦痛を与えることなく、優しく大事に、俺を抱いた。
「愛してるよ、夏基」
俺の耳元で、陽佳の声が、甘く響いたのを、俺は聞いた。
了
卒業式って、色々ありますね。
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