16 ray of light~defferent~


 夏基(なつき)が帰った部屋は、とてもがらんとしているように感じた。

 俺は部屋の真ん中に座ったまま、しばらく散らばったままのチョコレートを見ていた。俺と夏基がつぶした箱があちこりに散らばり、原型を留めていないそれを、ひとつずつ拾い集める。

 俺はつぶれた箱を撫でながら、ごめんね、とつぶやく。

 ちゃんと、全部、食べるからね。

 俺は箱を重ねて窓際の涼しい場所に置いた。それから、ベッドに腰掛けて、視線をゴミ箱に向けた。俺が投げ捨てたチョコレートの箱が、斜めになっていた。

 ──沢村くん。

 いつもよりさらに甘ったるくささやきながら、担任が俺の背中に身を寄せる。

 ──いっぱいもらってたわね、チョコレート。

 俺は答えない。

 いつものように呼び出された進路指導室。鍵のかかったその小さな部屋で、俺は心を閉ざす。

 何も考えない。何も感じない。何も聞こえない。

 ただ黙って、その時間が過ぎるのを待つ。

 机の上にはチョコレート。俺ですら名前を知っている、超高級ブランド。このサイズだと、一体いくらになるんだろう。

 ──甘いものは、好き?

 そう訊ねる担任の口調も、香水も、甘すぎて吐きそうだった。

 俺の名を呼び、俺の肌を撫でる。

 あとひと月。

 担任の唇が俺に触れる。

 目を閉じろ。何も聞くな。

 俺はただひたすら、その時間を耐える。

 ──沢村、くん。

 熱い吐息と、絡みつくような声。嫌悪で身体がぞくりと震えた。

 あと、ひと月。

 それですべてが、終わる。

 担任の指先が俺の肌の上を滑る。

 どんなに高級なチョコレートも、不快なだけだった。そんなもので俺の心が変わるなんてことはあり得ない。

 俺は細く目を開き、机の上のその箱を見つめた。

 校内放送が流れてきて、担任が手を止めた瞬間を逃さず、俺は身を引いた。はだけた制服を手早く戻す。担任は少し不満そうに俺を見ていたが、諦めたように肩をすくめた。

 そのまま部屋を出ようとしたら、呼び止められ、チョコレートを突きつけられた。俺は奪い取るようにそれを受け取り、制服の内側に隠して教室に戻った。急いで他のチョコレートが詰まった紙袋の奥に押し込んだ。そしてコートを引っ掛け、鞄と紙袋を持ち上げ、学校を出た。

 あとひと月。

 あとひと月で、終わる。

 そればかりを考えて、俺は駅に急いだ。

 帰り道、香水のにおいを落とすことを忘れていたが、コートを着ていたからか、夏基は気付いていないようだった。そのまま俺の部屋にやってこようとしたので、慌てて着替えてからにしようよ、と言った。夏基は素直にそうだなとうなずき、自分の家に帰っていく。俺は猛スピードで洗面所に駆け込み、担任が触れた場所を濡らしたタオルで擦った。制服を抱えて部屋に走り、ハンガーにかけて死ぬほど消臭スプレーを振った。

 急いで着替え、香水のにおいが残っていないかどうか確認していると、夏基がやってきた。

 俺は内心はらはらしながら、夏基を部屋に入れた。

 担任からのチョコレートをゴミ箱に捨てたとき、夏基はとても驚いた顔をしていた。けれど、その理由を聞かなかった。

 少し寂しそうな顔をしていた。そんな顔をさせたいわけじゃない。

 だから、どうしても夏基を喜ばせてあげたかった。

 いつもより強く噛んだその傷は、見るも無残に皮膚を切り裂き、血を流していた。遠慮も、ためらいもしなかった。夏基が望むなら、喜ぶなら、そうしたいと思った。

 鎖骨の上の肌が赤く染まる。薄い皮膚の下、骨が透けるかとおもった。くっきりとついた歯型が痛々しい。

 俺に押し倒された夏基が、俺の顔を撫でる。

 ──お前、やっぱり、かっこいいな。

 そう言った夏基がすごく愛しいと思った。

 夏基が好きだ。大好きだ。

 だから、必死で耐える。

 香水の甘いにおいも、媚びるような鼻にかかるあの声も、身体中に触れるあの指先も。

 夏基が痛みを望む。だから、迷いなく、俺は再びその傷を深くした。あふれる血と、ぽろぽろこぼれる夏基の涙に、俺は舌を這わせる。一滴残らず、俺の中に溶け込めばいい。

 夏基が俺を呼ぶ。

 ふっと、意識が途切れ、夏基が果てる。

 俺はその身体を抱き締め、少しだけ、泣いた。


 私立の入試も、合格発表も終わり、あとは夏基と同じ県立高校の入試を待つばかり。

 期末テストの結果は、学年6位。今まで出最高順位だった。

 バレンタインの日につけた傷の手当を、毎日続けていた。夏基の部屋に通って、丁寧に消毒し、ガーゼを当てる。夏基は黙って身を任せていた。

「終わったよ、なっちゃん」

 夏基はうなずいて、開けていたシャツのボタンを留めた。鎖骨の傷は、見えなくなる。

 今日も、俺はもらったチョコレートを持参していた。シンプルなブロックタイプの生チョコだった。付属のスティックで、順番に食べる。賞味期限が過ぎるまで、俺たちのおやつはしばらくチョコレートである。

「もうすぐ卒業だな」

 俺が差し出すチョコレートを食べながら、夏基が言った。

「うん。ようやくね」

「春からは同じ高校──だといいけど」

「大丈夫。今なら絶対落ちる気がしないから」

「油断するなよ」

 呆れたように言われたので、俺は素直にうん、とうなずいた。

 チョコレートは、口の中でとろりと溶けた。箱の中に入った説明書によると、石畳チョコ、というらしい。なんで石畳チョコっていうの、と訊ねたら、夏基が説明してくれた。

「フランス語でパヴェ・ド・ショコラ。パヴェは石畳。つまり、石畳のようなチョコ、ってことだな」

「あー、なるほど」

 確かに、地面に敷き詰められた石畳のように見える。フランスって、そういえば、石畳なんだっけ。日本じゃイメージしづらい名前だなあ、と思った。日本の道路はアスファルトにきれいなブロック。フランスの、足元から底冷えするような石畳とは全く違う。

「おいしいね、これ」

「ああ」

 俺が持参したのと全く同じメーカーの生チョコが、もう1つ、あった。こちらは夏基がもらったもので、偶然の一致。ただし、その味に違いがあった。

「俺がミルクで、なっちゃんがビター?」

 俺は、夏基がもらった方のチョコを食べてみた。俺がもらったものよりもほろ苦く、味が濃い。

「なっちゃんは大人で、俺は子供?」

「別にそういうわけじゃないだろうけど……俺は、どうも甘いものが苦手なんじゃないかと思われてるみたいだな」

 夏基がもらったのは、どれもビタータイプのものばかりだった。俺がもらったのよりもずっと高そうな、いかにも本命然とした大人しいシックな色合いのラッピング。多分、夏基の見た目や、印象からそんなものを選んだんだろう。

 それに対して、俺がもらったものはほとんどがミルク。ラッピングも赤だとかピンクだとか、やたらかわいらしい。

「変なの。なッちゃんの方が、よっぽどかわいくて甘いのに」

「──陽佳(あきよし)」

 夏基が妙な表情をして俺を見ていた。

「え? 俺、変なこと言った?」

「かわいくて甘いっていうのは、お前のことだろう?」

「ええー?」

 俺は憤慨してブーイングしてやる。

「なっちゃん、俺のことかっこいいって言ってくれたのに」

「まあ、見た目はな。──けど、お前の場合、どうしたってやたらフレンドリーな大型犬……」

 夏基が含み笑いしならがらつぶやく。目の前の俺を、尻尾をぶんぶん振って飛びつくレトリーバーか何かと重ねているのだと気付いた。俺は唇を尖らせる。

「やだ。かっこいい方がいい」

「だから、かっこいいって」

 夏基が俺の顔に触れた。

「いつこんないい男になったんだよ、って思ってる」

 さらりと、当然みたいな顔をしてそう言った夏基に、俺は赤面した。かっこいいと言われたら嬉しい。けれど、どうも、手のひらの上で操られているような気がしないでもない。

 我慢できなくなって、夏基を後ろから抱き締めた。俺の腕の中にすっぽりと収まってしまうその身体からは、お風呂上りの石鹸の香りがした。夏基の家のボディソープは、いつもフルーツの香りがする。多分、おばさんの好みなんだろう。

 夏の間は柑橘系だったそれが、今はピーチ。ほんのり香るそれはおいしそうで、思わずかじりつきたくなる。

「なっちゃんはきれいでかわいいよー」

「喜ぶところか?」

「うん」

「そうか」

 夏基はうなずき、俺の胸に背中を預ける。上を向いたその顔を見下ろしたら、唇に生チョコにまぶされていたココアパウダーがついていた。俺はぺろっとそれを舐めてから、短くキスをした。

 ココアパウダーの苦味のあとに、チョコレートの甘さが口に広がる。

 このまま離れたくないなあ、と思いながら、夏基が手を伸ばして再び生チョコを食べているのを見ていた。


 ホームルームのあと、担任に呼ばれた。渋々教卓まで向かうと、下校するクラスメイトたちを見送って、一拍置いてから言った。

「勉強の方はどう? つまずいているところはない?」

 わざとらしいその質問に、俺はしらけながらも別に、とそっけなく答えた。クラスメイトが横を通り抜ける。彼らに聞こえるように、そんな会話をしているのだと分かった。

 やがで、教室は空になり、俺と担任だけが残った。

 途端に、担任はさっきまでの教師面をどこかへやり、小声で甘えたような声を出す。

「チョコレート、食べてくれた?」

「──いいえ」

 担任は少しがっかりしたような顔をして、

「そうね、沢村くん、沢山もらってたものね。あとでゆっくり食べてくれたら嬉しいわ」

 そんなつもりはさらさらない。それどころか、あのチョコレートは今頃大きな焼却炉で跡形もなく燃え尽きているはずだった。

 俺は無表情のまま、視線を外すように窓の外へ向けていた。担任が俺の顔を、呆けたように見ているのは分かっていた。

「──本当に、中学生には、見えない」

 ああ、また、いつもの台詞だ。

 そんなものが免罪符にならないことなんて、知っているくせに。

 廊下には生徒たちの話し声がしていた。さすがにこんな場所では馬鹿をやらかしたりはしないだろう。

「沢村くんて、本当に、かっこいいわね」

 潜めるような声は、甘えを含み、俺を見るその視線にも、熱がこもっている。

「髪、短い方がステキなのに。せっかくそんなにかっこいいんだし」

 俺の頭に手を伸ばしてきた担任の手を、とっさに振り払った。

 俺の髪はいつも少し、野暮ったいくらいに伸びている。体育の授業や、食事中、家での勉強中は邪魔になるのでヘアゴムでまとめる。けれど、普段は基本的にあまり顔をさらさないようにしている。

 夏頃から、この担任がやたら俺に触れてきた。俺の顔が好きだといい、その輪郭をなぞるように指先を滑らせ、ぼうっと見つめてくる。あまりにもその視線が熱すぎて、鬱陶しかった。だから、なるべくこの担任の前では顔を見せないようにしている。

 一部の女の子は、その野暮ったさがかわいい、なんて言ってきたりして、人の美醜の基準って一体何だろう、と疑問に思うこともある。けれど、少なくとも、担任の視線から逃げられればそれでいい。

「髪、触られるの、嫌いなので」

「あ、そう、なの?」

「──帰っていいですか」

「また、用事?」

「はい」

 担任はふふ、と笑った。

「卒業まで、あと一ヶ月ないわね」

 早く帰りたいと示したつもりだが、担任は俺をすぐに解放するつもりはなさそうだった。

「沢村くんが私の生徒なのも、それまでね」

 ああ、それで、ようやく終わる。

「教師と生徒じゃなくなれば──」

 担任の口元が持ち上がる。

「────」

 背伸びした担任が、俺の耳元でささやいて、学ランの上から俺の腹部、足の付け根辺りに触れた。ぞっとした。その言葉を、俺は聞かなかった。聞きたくもなかった。

 だから、何と言われたのかは分からない──そう思い込もうとした。

「楽しみにしてるわ」

 担任が意味ありげに笑った。

「さようなら、沢村くん。また明日」

 担任が教室を出て行くのを、俺は見ない。ほっと息をついて、ふらりと自分の席に戻った。鞄とコートををつかみ、教室を出る。歩きながらコートに腕を通し、急いで駅ヘ向かった。

 ベンチの前に着いたとき、丁度夏基が駅から出てきた。俺は笑顔でおかえり、と言う。夏基がただいま、と返してくれる。いつものように、2人で並んで歩き出す。

 夏基といる時間だけは、余計なことを考えなくて済んだ。

 帰り際の担任の、聞くことを拒否したあの言葉を、俺は必死で思い出さないようにした。

 家の前で一旦別れて、俺は制服を着替え、本日のおやつ用のチョコレートを用意して、折り畳みテーブルを広げた。夏基が来るまでにキッチンでコーヒーの準備をして待っていた。

 きっちり2時間、夏基と参考書に向き合った。ケアレスミスさえなくせば、あとは心配ない。夏基はいつも、油断はするな、と言い残して帰っていく。俺はよっぽど詰めの甘い人間だと思われているんだろうな、とおかしくなる。

 風呂上り、俺は部屋で濡れた髪を乾かしながら、見るともなしに散らかっていた雑誌を拾い上げて片手でぱらぱらとめくった。

 友人がよこしたその雑誌には、ホワイトデー特集の文字。女の子が喜びそうなデートスポットやプレゼントが並んでいる。お返しにはコレ、と銘打たれて有名店や有名ブランドのクッキーやチョコレートが、色とりどりに並んでいた。

 俺のお返しはいつも、母親に任せてある。どこかで小さくてかわいらしいキャンディやクッキーのセットを買ってきてくれるのだ。今年は去年までの何倍もの量だから、きっとお返しも大変だろうな、と俺は他人事のように思った。

 母親が買ってくるそのお返しの値段を、俺は一度も聞いたことがない。

 雑誌をめくっていると、高級志向の彼女に、というくくりで例のブランドの名前を見つけた。

 担任がよこした、「子供」の俺にはふさわしくない、馬鹿みたいに高級なチョコレート。

 ざわり、と首筋に嫌な感触が走る。

 耳元でささやくねっとりとした声。

 俺の素肌に触れるひんやりとした指先。

 何度も重ねられるぽってりと厚い唇。

 息苦しくなるほどの甘い香り。

 ぐらり、とめまいがした。吐きそうだ、と思った。

 心臓がばくばくと音を立て、頭のてっぺんからすうっと血の気が引いていくような気がする。

 俺は雑誌を閉じ、大きく息を吸い込んだ。

 あとひと月弱。それで、終わる。

 俺は立ち上がり、机に両手をついて、うなだれるような格好で何度も深く呼吸をした。

 もうすぐ、終わる。

 ゆっくりと息を吐き出し、窓の外を見た。夏基の部屋は真っ暗だった。まだ1階にいつのか、それとも入浴中なのかもしれない。

 夏基。

 俺はその名を呼び、何度も大きく呼吸する。

 ──教師と生徒じゃなくなれば──

 担任の持ち上がった唇の端。まるで舌なめずりでも聞こえてきそうなほど、その言葉は「女」のにおいをまとい、絡みつく。

 吐きそうだった。

 胸が痛い。その苦しさを埋める術を、俺はひとつだけ、知っていた。

 夏基をおもいきり抱き締めたい、と思った。

 抱き締めて、その体温を感じて、その瞳を覗き込んだら、安心してぐっすりと眠れるような気がした。

 俺は窓に手を当て、しばらくそのまま痛いくらいに騒ぐ心臓を落ち着かせようと努力した。

 夏基。

 俺を救って。

 額をつけたら、ひんやりと冷たい。そのおかげで、少しだけ、冷静さを取り戻した。

 夏基。

 もう一度その名をつぶやいたそのとき、窓の外、カーテンのしまった夏基の部屋に明かりが灯る。

 青いカーテンから透けるその明かりが、突如、俺に射す一筋の光明に見えた。

 夏基。

 俺は小さくつぶやき、いても立ってもいられず、窓を開け、身を乗り出す。その光明に向かって手を伸ばすように、夏基の部屋の窓に手をかけた。


 了

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