15 blurry


 通学中にひとつ、学校で2つ、きれいに包装された包みを手渡された。朝、机の中にひとつ。そして、いつの間に入れたのか、放課後の今、さらにひとつ。

「柴、何個目?」

 友人が覗き込むように背後から声をかけてきた。

「5」

「お、すっげ」

 そういう友人も戦利品らしい小箱を持っていた。かなりモテるこの友人が、いくつチョコをもらったのかは知らない。多分、俺よりは多いのだろう。

「甘いものは好きじゃないけど、バレンタインチョコは、テンション上がるな」

 友人の言葉を聞きながら、俺はもらったチョコレートを鞄にしまいこんで、椅子から立ち上がった。

「帰んの?」

「帰る」

 友人はにっと笑って、

「今日も例の幼馴染み?」

「ああ」

「ほんっと、仲いいな。──つーか、彼、今日は大変なんじゃないの? お前と会ってる暇、あんの?」

 俺はふっと笑ってやる。友人は呆れたように溜め息をついて、肩をすくめる。

「はいはい。お前の大事な幼馴染みくんは、いつでもお前が一番、ね」

「そういうことだ」

 俺は友人にじゃあな、と声をかけると、足早に教室を出て昇降口に向かった。下駄箱にも、チョコがひと箱。靴と一緒に食べ物を突っ込むなんて、どうかしている。俺は仕方なくそれも鞄に詰め込んだ。

 友人とは打ち解けている方だとは思う。一緒にいれば楽しいし、俺のことも理解してくれているので、付き合いやすい。

 しかし、普段の俺は愛想もないし、口調もそっけなく、どちらかというと感じの悪い人間だと思う。それでも、こうしていくばくかのチョコレートを渡してくれる女がいることが不思議でならない。

 今日も陽佳(あきよし)と駅で待ち合わせていた。電車を降りて改札を抜けたところで、俺が2年前まで通っていた中学の制服を着た女子生徒に、なっちゃん先輩、と声をかけられた。立ち止まると、小さな手提げの袋を渡された。どうも、と言うと、一礼して慌てて去っていった。

 陽佳のおかげで、俺は2年後輩にやたらウケがいい。入学してから陽佳が暇さえあれば俺の元にやってきて、なっちゃんなっちゃんとじゃれついてくる。そのせいか、陽佳の周りの生徒──友人や、クラスメイトや、部活の仲間が、みな声を揃えて俺を「なっちゃん先輩」などと呼ぶ。俺の知らぬところで勝手に一人歩きしたその愛称は、今も効力があるらしい。

 俺は駅を出て、いつものベンチに目をやった。葉牡丹の前で、陽佳が学ランの上に羽織ったコートのポケットに手を入れて座っているのが見えた。珍しくこっちを見ていないと思ったら、隣に女の子が座っていた。

 俺は足を止め、しばらくその様子を窺っていた。陽佳は何度かこくりこくりとうなずき、隣の女の子が包みを渡している。それを受け取る陽佳の足元には大きな紙袋があって、その中身が全部チョコレートなのだろうということは簡単に想像できた。

 女の子が何が話しかけ、陽佳がまたうなずく。やがて、席を立ったその子に、陽佳がぺこりと頭を下げた。去っていった後ろ姿は、見送らなかった。陽佳の視線はすぐに俺の方に向けられた。そして、俺の姿を見つけ、にっこりと笑った。

 俺は足早にベンチへ向かう。陽佳が立ち上がり、両手を広げて、なっちゃーん、と呼んだ。

「待たせたか?」

「ううん、大丈夫」

「すごいな、それ」

 俺の目線をたどって、陽佳が大きな紙袋を見た。おしゃれ雑貨の店の、かなり大きなサイズの紙袋だ。陽佳がこんなものを用意しているはずがないから、気の利いた誰かがくれたのだろう。思ったとおり、中にはかなりの数のチョコレートが入っている。

「何かね、みんなくれる。俺って、そんなにチョコ好きに見える?」

「それだけじゃないだろ」

「──うん、そうだね」

 陽佳はなぜかしゅんとしたようにうなずいた。

「どうした?」

「俺ね、大人っぽいでしょ? だから、みんな勘違いするんだって」

「──誰に言われたんだ、そんなこと」

「隣のクラスのやつ」

「それは多分、ひがんでるだけだから、気にするな」

「そうなの?」

「お前はかっこいい。だから、勘違いじゃない」

「────」

 陽佳が途端に赤面した。

「か、かっこいい?」

「ああ、かっこいい」

「うわあ……なっちゃん」

 片手で口元を押さえて、陽佳が珍しく視線を外した。よほど照れくさいのか、俺が顔を覗き込もうとしたら、慌てて違う方向に視線を向ける。俺はおかしくなって笑ってしまう。

 並んで歩き出してから、陽佳は俺がいくつチョコをもらったのかを聞きたがった。たいしてもらってない、と答えると、クラスの女子に「なっちゃん先輩に渡して」と頼まれたチョコがある、とすねたように言った。

「なっちゃん、一緒に食べようね」

「ん」

 俺たちは家の前で一旦別れた。部屋で着替えてから、俺は陽佳の部屋に行くことにした。リビングで母親が、チョコレートケーキを作ったからあとであきちゃんと食べてね、と声をかけてきた。俺はうなずいて、とりあえず家を出る。

 陽佳の部屋は相変わらず散らかっていた。けれど今までは、散らばっていたのは漫画本やゲームばかりだったが、今は参考書や単語帳が仲間入りだ。真面目に勉強をしているらしい。

 陽佳が紙袋を逆さにして中のチョコレートを床に広げた。ざっと見ただけでも30個は超えている。大抵は聞いたことのあるメーカーの箱だが、中には手作りらしいものもあった。そして、その中にひとつ、場違いなくらいの高級ブランドの箱があった。このサイズなら、軽く5000円以上。俺ですらその値段を知っている。

 最近の中学生は、こんな高いものをよこすのか?

 俺がその箱に手を伸ばそうとすると、陽佳がそれより早くそれをつかんだ。

「──陽佳?」

「あ、ごめんね、なっちゃん。これは、駄目」

「ああ、高級品だもんな」

「──違うよ」

 陽佳は力なく笑って、それを、ゴミ箱に入れた。

「おい」

「いいんだ」

 押し留めるような力を持った声だった。それきり陽佳はそのチョコをちらりとも見なかった。俺は陽佳がなぜそんなことをしたのか分からず、少し、混乱した。

 陽佳は、基本的に、すごく優しい。人の嫌がることも、迷惑になることもしない。ちゃんと他人を思いやれるし、気を使うこともできる。今までだって、今年ほどじゃないけれど、沢山もらったチョコレートもきちんと受け取り、返事をする。ホワイトデーだって、名前が書かれていたらその分はちゃんとお返しを渡す。

 その陽佳が、もらったチョコレートを、何の迷いもなくゴミ箱に投げ捨てた。

「ごめんね、なっちゃん。食べたかったかもしれないけど、これだけは、駄目」

「──いや、別に、食べたかったわけじゃない」

「そっか」

 陽佳は笑う。けれど、その笑顔はまだ、少し強ばっている。

「大丈夫。聞かない」

 そう言ってやると、陽佳はそうやくほっとしたような顔をした。

「ごめんね、なっちゃん」

「謝らなくていい」

「うん」

 陽佳にだって、俺には言いたくないことの一つや二つ、あるのだろう。俺はそれを知りたいと思うけど、俺の言うことなら何でも聞いて、俺を大好きで、俺に秘密なんてめったに作らない陽佳なのに、それを口にしない。そのくらいの覚悟なら、きっと俺は聞かない方がいいのだろう。

「しかし、すごい量だな」

「──うん」

「本当、時々、心配になる」

 俺が溜め息混じりにつぶやくと、陽佳はぴょこんと顔を上げた。

「心配?」

「ああ」

「俺、なっちゃん以外の人なんて、好きにならないよ」

「──うん、そうだな」

「だから、心配なんてしなくていいよ」

「分かってるんだけど──さすがにこれは」

 思いのこもったチョコレート。ざっと見ただけでは数え切れない、大量のそれを、俺は見下ろす。このチョコレートひとつひとつに、陽佳への思いが詰まっているのだと思ったら、とても複雑な気分だ。

 陽佳が俺以外を好きにならないと分かっていても。

「なっちゃん」

 視線を上げると、目の前に陽佳が迫っていた。

「俺は、なっちゃんだけが好きだよ」

「──陽佳」

 陽佳は俺の左手をつかみ、自分に引き寄せた。俺は体制を崩し、俺たちの間に広がるチョコレートの上に右手と膝をついた。ぱきっと音がして、いくつかの箱がつぶれた。

「チョコは嬉しいよ。みんな、俺のこと好きって言ってくれた」

 駅前のベンチで、チョコを受け取る陽佳の姿を思い出す。隣に座った女の子が、真っ赤になってそれを差し出す。

「このチョコ1個1個に思いがこめられていたとしても──」

 陽佳が俺の指先に唇を触れさせる。ちらりと覗いた舌が、指先をかすめる。それだけで、背中がぞくりとした。

 中指と薬指、開いた前歯の間に導かれるように入り込む。その指先を、甘噛みする。

「俺にとっては何の意味もないんだよ」

 陽佳の声が低く、俺の耳に届く。

「なっちゃん、痛くしてほしい?」

 目だけで俺を見つめた陽佳は、まるで挑むような目をしている、と思った。

 受験の邪魔をしないよう、最近はずっと、そのお願いをしないでいた。陽佳のしたいように、好きなだけ抱き締めさせてやり、散々甘えさせた。だから、時々、どうしようもなく身体がうずく。

「俺だけが、してあげられるんだよ?」

「あきよし──」

 ああ、もう、駄目だ。

 陽佳の視線と、その声だけで、俺の身体は小さく震えた。

 陽佳の舌が俺の指の付け根から指先に向かって舐め上げる。時々軽く立てられる歯が、もどかしい。

 もっと、強く。

 そう思わずにいられない。

「どこがいい?」

 ぺろりと指先を舐め、陽佳が問う。

「足? わき腹? 胸? 肩?」

  一箇所ずつ順番に挙げていくそのたびに陽佳の手が触れる。

「首? ──ああ、でも、首に傷なんて作ったら、着る服に注意しなくちゃいけないね」

 俺の首を指先でなぞり、陽佳が口元に笑みを浮かべる。

「なっちゃん、脱ぎたい?」

 俺はこくりとうなずく。陽佳が、俺の着ていた薄手のハイネックのニットをインナーごと脱がせた。再び首筋に指を当て、ゆっくりと下に動かしていく。

「陽佳──」

 その指が鎖骨で止まり、くぼみを撫でる。

「なっちゃん、好き」

 耳元でささやく。その声は、いつも、肌が粟立つほどの快感を生む。

 俺は陽佳に抱きつく。陽佳が俺の身体を抱き締め、さらりと髪をすいた。その感触にすら、反応した。

 少しだけ離された身体に寂しさを感じた次の瞬間、陽佳が俺の肩口に顔を埋め、鎖骨を舐めた。舌がゆっくりとその骨をたどるように動き、ぞくぞくと身体が震えた。

「俺が好きなのは、なっちゃんだけだよ」

「ん──あ!」

 がぶりと、噛み付かれた。いつものように何度か確認するように、優しく繰り返すことなく、突然に。きりきりと痛みが全身を駆け抜ける。無意識のうちに首筋がぐんと反れた。

 そのまま力をこめられ、俺は息ができなくなるほどの快感を感じた。膝が震えて、身体が支えられない。けれど陽佳は俺の腰と背中をしっかりと抱き締め、俺の身体を倒れないように押さえている。

 ──痛い。

 陽佳の背中に回した手も小刻みに震えていた。

 陽佳。

 陽佳。

 俺は陽佳の背中に爪を立て、何度も頭の中で名前を呼んだ。

「なっちゃん、大好き」

 踏み潰したチョコレート。俺の膝の下で、それがますます踏みにじられていく。

 陽佳の舌が俺の舌に絡む。血の味がした。次々にあふれる唾液とともに何度も飲み干した。

 鎖骨が熱を持つように熱く、痛い。

「あ──」

 油断していたら、俺の背中を支えていた陽佳の手が後頭部に回され、そのまま押し倒された。頭を打たないようにかばったのだと分かった。背中にはチョコレートの箱が当たって痛かった。けれど陽佳は黙って俺を見下ろしている。

 自分では見えない鎖骨の傷が、どうなっているのか気になった。

「──なっちゃん」

 伸びた髪が重力に従う。俺はゆっくりと手を伸ばし、その髪をかき上げるようにして陽佳の表情を露にした。

「陽佳──」

 俺は微笑んだ。

「お前、やっぱり、かっこいいな」

 その整った顔が、俺を見下ろす。少し辛そうに。

 そんな顔をしなきゃいけないほどひどい傷を作ったのか、と俺は苦笑する。

 俺はそのままその手を陽佳の頬に当てる。陽佳が右手を俺の左手の上から当て、そのまま口元に運び、手のひらにキスをする。時々触れる舌の先がくすぐったく、俺は笑った。

「なあ──もっと、痛くして」

 陽佳の目が細められ、俺の手を離した。そして上体を下ろし、さっき噛んだ鎖骨に再び歯を当てた。俺は陽佳の頭を抱え込むように両腕を回した。

 立てられた歯が、傷に食い込む。俺は奥歯を噛み締め、その痛みを受け入れる。快感と、痛みに浮かんだ涙で滲んだ視界の隅に、ゴミ箱から姿を覗かせている高級チョコレートの箱が見えた。

 あのチョコレートを陽佳に渡したのは一体誰なのだろう。

 買うのをためらうくらいの高級ブランド。それを渡したのは、きっと、俺の知らない誰か。

 何の迷いもなく、その箱をゴミ箱に投げ入れた陽佳の姿を思い出す。

「──ん、」

 きりっと強く走った痛みに短く声を漏らしたら、陽佳も反応しているのが分かった。

 俺の視界は涙で完全にぼやけ、ゴミ箱の中のチョコレートの箱も見えなくなった。

 俺は陽佳の頭をぎゅっと強く抱き締める。

「なっちゃん、大好きだよ」

 そのささやきを、俺は身体中を走りぬける快感の中で、聞いた。


 了



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