13 冬を歩く


「なっちゃん、みかん、食べる?」

 俺はうなずく。陽佳(あきよし)がテーブルの上のカゴからオレンジ色のそれを取って、大きな手で皮をむいた。ひと房、外して、俺の口元に差し出した。

「甘い?」

「酸っぱい」

「えー」

「酸っぱくて、うまい」

 甘いだけのみかんはあまり好きではない。ちゃんと酸味があってこそうまいと常々思っている俺は、振り返って陽佳を見ながら、口を開けた。

「もう1個」

 まるで二人羽織みたいに俺に背中から抱きつくようにして一緒にこたつに入っている陽佳が、再びみかんを割った。俺はそれを食べ、そのまま陽佳に背中を預ける。

「別に、みかんくらいむけるぞ」

 俺が言うと、陽佳はみかんの香りのする手で俺をぎゅうっと抱き締めた。

「駄目だよ、なっちゃん」

 こたつの天板の上、俺は右手を出していた。足元はこたつの中でぽかぽか。背中は陽佳の体温でぽかぽか。おまけに陽佳の顎が乗った肩と、髪が触れる首筋も、熱を持っていた。

 利き手でもある右手だけが、ひんやりと冷たい。腫れが引くまでは冷やしていること、と母親から言い渡された俺の手には、包帯がぐるぐると巻かれていた。

「腫れてる間は、俺がなっちゃんの手になるんだから」

 それは別に、こうやって後ろから抱きつかなくてもできるのでは?

 そう思ったけれど、陽佳は俺を離さない。なっちゃーん、と、俺のうなじに鼻先を擦り付けてくるので、くすぐったくて笑ってしまった。

 正月2日。俺たちは、2人きりで俺の家の和室にあるこたつで、さっきからずっと、何をするでもなくだらだらと過ごしていた。陽佳は一応、勉強道具を持参しているが、たまに単語帳をぱらぱらとめくるくらいしかしていない。

「おじさんとおばさんは、何時頃帰ってくるの?」

「さあ、夜までには帰ってくるんじゃないか。お前の方は?」

 両親は、実家や親戚の家にお年始めぐりだ。陽佳の家も同様らしく、母親の実家に行っているらしい。

「うちも、夜ご飯までには帰ってくるって言ってた」

「そうか」

 俺はまた口を開けた。陽佳がみかんを運ぶ。

 こたつとみかん。

 正月早々、まったりとした時間を過ごしているのには理由があった。

 合格祈願を兼ねた初詣に行く、という公明正大を引っさげて、陽佳が俺を訪ねてきたのは、12月31日の夜。普段は日付が変わるまで外出することは許してもらえない陽佳が、玄関前で俺を呼ぶ。

 ──なーっちゃん、初詣、行こうー。

 リビングで家族3人、見るともなくテレビのチャンネルをザッピングしていた。父親が、ああ、陽佳だな、とつぶやく。母親が、あきちゃんねぇ、とつぶやく。2人ともお茶をすすりながら、慣れたようにうなずいている。俺は用意していたダウンジャケットを身につけ、マフラーを巻き、両親に行ってくる、と告げた。二人ともひらひらと手を振って俺を見送る。

 玄関を出ると、陽佳が立っていた。モッズコートにニット帽、おまけにマフラーをぐるぐる巻きにして、ポケットに手を突っ込んでいた。俺の顔を見て、嬉しそうに笑う。

 近所の神社ではなく、少し距離はあるが、歩いて30分ほどの場所にある大きな神社に行く予定だった。途中で、冷えないように缶コーヒーを買った。それを少しずつ飲みながら、冷たい空気の中を2人で歩く。

 日付が変わるまで2人で外で過ごすのは、もしかしたら初めてかもしれない。そのせいか、陽佳はやたらと浮かれていた。いつもより沢山、なっちゃんなっちゃん、と繰り返す。俺はその度に返事をしてやり、陽佳をさらに笑顔にさせた。

 神社は混んでいた。長い石段を登っている途中で、列が止まった。出店の屋台に挟まれた石段を、俺たちはのんびりと進むに任せる。時々、屋台からいいにおいがして、陽佳が目を奪われる。

 ──なっちゃん、あとで、たこ焼き食べたい。

 ──チョコバナナ、おいしそうだねえ。

 ──あ、カルメ焼き売ってるよ。すっごいね、何で膨らむんだろう。

 はしゃぐようにそれらの屋台を覗き込む陽佳に、俺たちの後ろに並んで石段を上っている女子高生らしい4人組が、くすくすと笑った。ひそひそと、何かこちらを窺うような視線を向け、内緒話でもするみたいに顔を寄せる。陽佳は気付かず、ねー、なっちゃん、と話しかけてくるが、俺はそれに答えながらも女子高生に冷ややかな視線を送る。

 陽佳に近付かせないよう、けん制するつもりだった。

 ──なっちゃん。

 突然、陽佳が俺の手を取る。

 ──階段上ったら、俺、暑くなってきちゃった。なっちゃんは手、冷たい?

 手袋越しでも、陽佳の手の暖かさが分かった。無邪気ににこにこと俺の手を温めようとする陽佳に、後ろの女子高生がきゃああ、と細く悲鳴を上げ、なぜかさっきよりも、盛り上がった。

 何でだ?

 俺は首をひねりながら、陽佳が俺のてを包み込むのを見ていた。しまいには手をつないだまま階段を上がっていく。

 日付が変わって、1時間ほどで、俺たちはようやく賽銭箱の前までたどり着いた。陽佳は財布から100円玉を、俺は少しだけ奮発して500円玉を、それぞれ投げ入れる。両手を合わせて、陽佳の合格を祈る。

 参拝の列から抜け、俺たちはおみくじを引いた。陽佳は大吉。なんだかとっても、陽佳らしい。俺は中吉。まあ、こんなものだろう、と思う。それを木にくくりつけ、一息ついた。甘酒を配っているらしいというので、それをもらい、二人でならなんで敷地の隅の石垣に寄りかかって飲んだ。

 神社は人の波が途切れず、俺たちがさっき上がってきた石段も、まだずっと下までその列が続いているようだった。

 小さな紙コップを口に運んでいると、隣で陽佳が、あっと声を上げた。どうしたのかと見上げると、俺に向かってにっこりと笑って、

 ──なっちゃん、あけましておめでとう。

 と、言った。

 俺もおめでとう、と答えた。毎年、一番最初にその言葉を贈りあうのは、陽佳とだ。日付が変わる前、こんこん、と窓を叩かれる。からりと開けたその窓の向こうで、陽佳がにっこり笑う。吐き出す息は白く、部屋の中にも冷たい空気が入り込む。けれど、毎年決まって、二人で新しい年になるのをカウントダウンする。

 そして、おめでとう、と言い合う。

 今年は、窓越しの挨拶ではなかった。

 今までは、昼頃、なんとなくふらりと2人で近所の神社に手を合わせに行く程度だ。俺の受験の年は、陽佳はまだ子供だから、という理由で深夜の外出は許してもらえなかった。

 ──来年も、一緒に来たいな。

 隣で笑う陽佳がかわいすぎて、俺は少し、赤くなる。甘酒のせいにしようと思ったが、麹で作ったそれにアルコールは入っていない。

 そろそろ帰ろう、と上ってきたのとは別の石段に向かった。深夜を回っているのに、ますます混雑してきた。俺たちはなるべく騒がしいその人混みに巻き込まれないように身をかわしながら歩いていた。石段を下りようとしたとき、若い男女の集団が、わっとはしゃぎながら押し合って、俺にぶつかった。

 陽佳が、俺の名を呼び、とっさに左腕をつかんだ。力強く引かれて、何とか急な石段を落ちることだけは免れた。けれど、体勢を崩した俺は、その場に崩れ落ち、尻餅をつくような格好になりながら陽佳に抱きとめられた。とっさについてしまった右手に体重がかかり、電気が走るようにぴりっと痛んだ。

 ──なっちゃん?

 陽佳が慌てて俺の肩をつかむ。全身を確認するように見下ろし、大きな怪我をしていないことにほっとしたような顔をした。

 俺にぶつかった連中は、もう姿を消していた。

 ──陽佳、お前は?

 ──俺は平気。

 陽佳は先に立ち上がり、俺に手を差し伸べる。左手をつかんで立たせてくれた。注意しながらゆっくりと石段を下り、賑やかだった神社を離れると、途端に静まり返った道を並んで歩く。

 右手がじんじんと痛んだ。しばらく黙って歩いていたが、我慢が出来なくなった。

 ──陽佳。

 足を止めて、右手を持ち上げた。

 ──怪我、したかも。

 そう言った俺を見た陽佳が、途端に顔色を変えた。

 右手はいつしかずきずきと耐えられないほどの痛みを発していた。陽佳が、まるで自分の痛みのように、泣きそうな顔をした。


 そんなわけで、新年早々俺はかなりひどく右手を捻挫した。幸い骨は折れていないようだったので母親が湿布を貼り、包帯を巻いてくれた。陽佳はそのまま俺の家に上がりこみ、ずっと顔を歪ませて俺を心配そうに見ていた。

 病院は年始休業だが、ただの捻挫ならば冷やしていれば治る。

 陽佳はかなり落ち込んでいた。俺が初詣に誘ったからだとまで言い出し、この手が治るまで俺の手になる、と言い出した。

 そういう理由もあって、昨日から陽佳は俺の傍を離れない。元旦から俺の家に入り浸り、俺が寝るのを確認して自分の家に帰っていく。

 そして今日、お互いの両親は実家に顔を出しに行き、俺は怪我のために留守番。陽佳は受験勉強を口実に親への同行を拒否し、俺の家に押しかけたのである。

 そして、今に至る。

 人間座椅子のように俺に寄りかかられた陽佳が、単語帳をめくりながら俺にくっつく。

 まあ、こんな正月も悪くはない。

 お互いの母親が用意したお節や、そのほかの料理を遅い朝、もしくは早めの昼に食べた。箱根駅伝の往路もしっかり見たし、俺としては特にやることもないので、こうなったら思う存分だらけてやろうか、と考えていた。

 それに、人目もないので、こうして陽佳がくっついていても、何の心配もない。

 ──と言っても、陽佳が俺にくっついているのなんて、いつものことだから、俺たちの両親は今さらどうということもないのだろうけれど。

 陽佳が単語を口にする。スペルを一字ずつ確認し、次の単語に移る。なかなか受験生らしいじゃないか、と俺は微笑む。まるで冗談みたいに夏を境にぐんと成績を上げた陽佳の合格率は、多分限りなく100%に近いだろう。うかうかしていると、俺の成績を上回れてしまうかもしれない。

 俺のためなら、何だってできるんだな。

 あんなに苦手だった勉強も、今じゃ秀才レベルだ。

「なっちゃん、何笑ってるの?」

 俺の腹の前で両手の指を組むように抱きついて、肩に顎を乗せ、俺の顔を覗きこむ。

「お前ってすごいな」

「何が?」

「俺のためなら、空も飛べそうだ」

「──飛ぼうか?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべた。ああ、本当に跳びそうだ。

「飛べるようになったら、なっちゃんを空中散歩に連れて行ってあげるね」

 どこまで冗談なのか分からないような口調で言って、陽佳はカゴのみかんを取った。皮をむいて、今度は自分の口に運ぶ。

「酸っぱい」

「それがうまいんだよ」

「ううー」

「食べないなら、よこせ」

 口を開けた俺に、また陽佳がみかんを入れる。

「ねえ、なっちゃん」

 一定のテンポでみかんをくれる陽佳が、窓の外を見た。

「散歩でも行こうよ」

「ん──」

 庭に面した和室の窓の外は、明るい日差しが射している。時々吹く風は枯れた庭木の枝に冷たく吹き付け、揺らしている。

「ごろごろしてたら、眠くなっちゃうから」

「勉強は」

「うん、だから、眠くなっちゃう」

 結局、一度も開かれないままの参考書は、こたつのテーブルの上だ。

「そうだな、行くか」

 こたつでぬくぬくと温まって陽佳とくっついているのもいいが、気晴らしと眠気覚ましのために外に出ることにした。コートを着込んだ俺の正面に立った陽佳が、俺の首元にマフラーを巻いた。俺がいつもやるように結び、形を整える。自分は適当にぐるぐると長いそれを巻きつけるだけだ。

 外の空気は冷たく一気に目が覚めた。日差しは明るく、正月だからか静まり返っている。

 行く当てもなくぶらぶらと近所を歩く。

 休日になるといつもは子供がうるさくはしゃぐ公園も、草野球やピクニックで賑わう河川敷も、人気がない。

 時折、強く吹く風に身を縮める。

 いつもより人の気配を感じない住宅街は、時々どこかの家から聞こえる笑い声やテレビの音で、その存在に気付く。

「なっちゃん、手、痛い?」

「痛い。もう嫌になる」

「痛いの、好きなのに」

 俺は陽佳を見上げ、にらみつけた。

「だから、言ってるだろ。俺は──」

「俺からの痛み以外は、嫌いなんだよね」

 俺を見下ろした陽佳の顔は、どこか余裕のある、大人びた表情だった。

「知ってるよ」

 そう言ってにこりと笑う。

 そうだよ。

 お前からの痛みなら、なんだって嬉しい。けれど、それ以外はすべて、お断りだ。

「大丈夫だよ。俺がついててあげるから」

 陽佳は俺の右手を優しく包み込む。指先で痛む手首をかすかに撫でて、そのまま持ち上げ、手の甲にキスをする。

 どこの王子様だ、お前。

 そう思って苦笑した。

 そういえば、少し前、陽佳は自分で言っていたっけ。

 ──なっちゃんの王子様かな。

 と。

「そうだな」

 俺はうなずく。

「お前がいてくれるなら、怪我もいいな」

「怪我なんかしなくても、いつだっているよ、なっちゃん」

「そうか」

 陽佳がその手を離し、俺は少し寂しくなる。けれど、すぐさま今度は左手をつかんで、ぎゅっと握った。

「誰もいないから、大丈夫」

 そう言って笑ったが、それこそ今さらだ。散々人前で手をつないでいるくせに、どうして急にそんなことを言い出すんだよ。

 俺はおかしくなる。

 俺たちは手をつないだまま歩き出す。近くにある神社を全部回って、5円だの1円だのをお賽銭に、全ての神社で合格祈願をした。意地になって、どんな小さな神社も、こっそりと建っている鳥居も、必死で探した。俺たちは3時間近く神社巡りをして、疲れ果てて帰って来た。

 家に入ると、朝貼った湿布を、取り替える、と陽佳が言った。外出したから手を洗うついでに、包帯を解いてしまうことにした。再びスイッチを入れたこたつに入り、俺は右手を差し出す。

 陽佳が新しい湿布を貼り、丁寧に包帯を巻いた。

 腫れはだいぶ引いていた。じわじわと痛む手首が、ひんやりと冷たくて気持ちがいい。

「なっちゃん」

 包帯を巻き終えた陽佳が、救急箱をテーブルの隅に押しやり、俺に向かって両手を伸ばした。

 また、俺を抱き抱えるつもりらしい。

 俺は大人しく、それに従った。陽佳の胸にぽすんと背中を預けたら、後ろからぎゅっと抱き締められた。

「なっちゃん、冷たいね」

「お前が暖かいんだろ」

 体温の低い俺と、代謝が良くて体温の高い陽佳。外はあんなに寒かったのに、びっくりするくらいぽかぽかと暖かい。

「静かだねえ」

「静かだな」

「みかん、食べる?」

「ん。──勉強いいのか?」

「もうちょっとこうしてるー」

 みかんをむきながら、陽佳が俺の首筋に顔を埋める。

 外出前と全く同じように、俺と陽佳はこたつに入ってまったり過ごす。

 陽佳の体温が、ゆっくりと俺に浸透する。俺は陽佳が口元に運ぶみかんを食べながら、たまにはこんな正月もいいな、と思っていた。

 テーブルの上に広がった単語帳には、陽佳の下手くそな文字が書かれている。歪んだアルファベット、その横に、みかんの汁が飛んでしみを作っていた。

 背中が温かくて、俺はうとうととまどろむ。俺の身体を抱き締める陽佳も、俺にくっついてゆらゆらと揺れていた。

 俺のために、空だって飛べる。

 陽佳が空を飛ぶ夢を、見られるような気がした。

 陽佳は、俺に手を伸ばして、俺の身体をふわりと持ち上げる。きっと、2人で空を散歩できるだろう。

 俺のために、空を飛ぶ、

 ──ああ、陽佳、お前って、本当にすごいな。

 俺たちはそのまま、ぺたんとくっついて、19時過ぎに帰って来た両親に揺り起こされるまで、ぐっすりと眠っていたのだった。


 了

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