12 here by me~different~


 二者面談で、担任が成績表を指差しながら、俺の隣に座る母親に説明をしていた。

「秋頃からぐっと成績が上がったんですよ。これなら充分に合格圏内です。安心してください」

 そんな風に言いながら笑顔を向ける。俺はなるべく目を合わせない。母親が、うんうんとうなずいている。

「やっぱり、勉強頑張ったからですね。やる気になってくれて私も嬉しいです。沢村くんも、よく質問に来てくれて──」

 担任が言い終わる前に、母親がくすくすと笑った。そして俺の背中をばんばん叩いて、

「やればできるじゃない、アキ。ナツくんに感謝ね」

 などと、空気を読まない発言をした。

 多分、ここは、担任に感謝するべき場面だろう。だって、今、この担任は、いかにも私が力になってあげてます、といわんばかりの台詞を吐いた。俺が自主的に質問に行ったことなど一度もないが。

 俺は驚いて隣に座る母親を見た。向かいに座る担任も、呆気に取られたような顔をしている。

「じゃ、先生。志望校はこのまま変えないということでいいんですよね」

「え、ええ、はい──」

「それではそういうことで」

 母親が椅子を立ち、にこりと頭を下げた。俺も慌てて立ち上がる。

「お、お母さん?」

 さっさと教室を出て行く母親を追いかけて、俺は声をかけた。母親は振り返って俺を見上げる。

「いいの? 先生、まだ何か話あったみたいだけど」

「え、そう? 別にいいんじゃない。だってあんた、合格する確率が限りなくゼロだったとしても、志望校変えるつもりないんでしょ?」

 わが親ながら、呆れるくらいに達観している。

「ああ、本当にナツくんに感謝だわー。ナツくんがいてくれたおかげで、私が何もしなくても、馬鹿息子が真っ当に育ってくれるわー」

 親らしからぬ発言をして、母親がにっこりと笑う。

「と、いうことで、お母さんはブルーベリーを買って帰ります」

「あ、うん」

「どうせあんたはナツくんが待ってるんでしょ?」

「う、うん」

「今日のおやつは、ブルーベリーホイップのパンケーキだから、ナツくんに楽しみにしててって言っておいてちょうだい」

 母親はそういい残して颯爽と帰っていく。うちの母親が作ったブルーベリージャムは、夏基(なつき)の大好きなもののひとつ。甘みが少なくて、レモン汁がいっぱい入ってすっぱいのがいい、といつも言う。だから定期的に母親はそれをくつくつと煮る。家中にジャムの香りが漂っているのを嗅ぐと、夏基が喜ぶだろうなあ、と思う。

 来客用の出入り口で、俺はそんな母親の後ろ姿を見送って、やれやれと溜め息をついた。

 俺がどうしても夏基と同じ高校に行きたいと思っていることも、今日も駅で夏基と待ち合わせしていることも、全部お見通しということらしい。

 教室に戻ると、担任が待っていた。教室には人気がない。今日の面談は全部で5人。俺が最後の5人目だったのは、間違いなくこの担任の策略。

「沢村くん」

 俺が鞄を持ち上げて教室を出ようとすると、鋭い声で呼び止められた。

「もうちょっと、話があるんだけど」

「……面談は終わりですよね」

「そうね──ナツくんって、お友達?」

 首筋の毛がざわりと逆立つような感覚を覚えた。担任の声には棘がある。

「──幼馴染み、です」

「そう。ステキね」

 ちっともそう思っていないくせに、白々しく言って口元に笑みを作る。

「M高、って、進学校よね。こんなに急に成績が上がるくらい必死で勉強してでも、入りたい理由でもあるのかしら」

「別に」

「まあ、成績が上がってくれるのは嬉しいのよ。私の担当してる数学が一番、伸びてるみたいだし」

 お前の手柄なんかじゃない。

 担任が椅子から立ち上がり、俺の正面に立った。俺の手を取り、指先で手の甲を撫で、ゆっくりと滑らせるように袖口から指先を差し入れた。器用にシャツの袖のボタンを外し、腕の筋をたどる。肘の近くまでそれが届いたとき、俺は思わず腕を振り払った。

 担任は驚いたように俺を見た。いつもは抵抗せずに黙って耐えているだけの俺が、反抗したことが意外だったのだろう。

「どうしたの?」

「誰が来るか、分からない」

「大丈夫。誰もいないわ」

「──話、ないなら、俺、用事あるので、帰ります」

 俺は袖のボタンを留め直す。きびすを返して扉を開いた。教室を出ようとしたとき、後ろで担任が問う。

「用事の相手は、ナツくん?」

 ぎくりとした。俺は何も答えずに急いで教室を出た。

 あんなやつに、夏基の名前を呼んでほしくはなかった。俺の夏基が汚れるような気がした。


 いつものベンチで、今日は夏基が待っていた。面談のせいでかなり遅くなるよ、と連絡したら、適当に時間をつぶしてる、という返事が返って来た。

 花壇の花は葉牡丹に変わっていた。緑とか白とかピンク色のキャベツみたいな花だ。まあ、葉牡丹というくらいだから、花ではなく葉っぱだろうけど。

 夏基はその花壇の前のベンチに座って文庫本を読んでいた。どうやら、待ち合わせの時間まで駅ビルの本屋にいたらしい。書店のカバーがかけられたそれに目を落とす姿は、凛としていてきれいだな、と俺は思った。

「なっちゃん」

 声をかけると俺を見上げた。頬を赤くしている。

「ごめんね、寒かったでしょ」

「平気だ」

 夏基が本を閉じて立ち上がる。俺は夏基の赤くなった頬に手を当てて、でも冷たいよ、と言った。

「お前の手は、暖かいな」

「俺、体温高いから」

「ああ、子供か」

「子供じゃないよ」

「じゃあ、犬だ」

 夏基はおかしそうに笑う。

「犬でもないよ」

「じゃあ、何だよ」

「なっちゃんの、王子様かな」

「ははっ」

 今度は声に出して笑われた。

「ひどいよ、なっちゃん」

「悪い」

 そう言いながらもまだくくくと笑い続けている。

「帰ろう」

 手をつないだら、夏基が変な顔をした。さりげなくつないだつもりだったけど、夏基は流されてはくれないらしい。けれど手は振り払われなかった。

「なっちゃん、手も冷たい」

「お前の手が暖かすぎるんだ」

 そんなことを言いながらてくてくと歩いた。夏基のペースに合わせて、俺は気持ちのんびりと歩く。俺たちが手をつないでいても、誰もこちらを気にしない。

「冷たいねー」

「お前は湯たんぽみたいだな」

 そんな会話を聞いて、ただ冷えた手を温めるためにつないでいると思われているのかもしれない。そっか、と俺は思う。理由があれば、夏基とこうして手をつないで歩くことも、可能なのだ。

「ブルーベリーホイップのパンケーキ、だって。今日のおやつ」

「ああ、あれ、うまいよな」

 夏基の顔がほころぶ。

 俺の母親の作るそれは、パンケーキにもブルーベリーの粒が入っている。ホイップクリームは砂糖少なめで、手作りジャムを混ぜ込んだきれいなミルキーパープル。たっぷりとそのクリームが乗ったパンケーキを食べる夏基は、とてもかわいい。

「なっちゃんのおかげで成績は上がるし、馬鹿息子が真っ当になるんだって」

「何だ、それ」

「お母さんが、感謝してた」

「真っ当、ね」

 そう言って苦笑した夏基の顔は、少しだけ、申し訳なさそうだ。

「なっちゃんのせいじゃないんだから」

「──何?」

「俺がしてあげたいだけなんだからね。──だから、なっちゃんは悪くない」

 俺がつける傷。夏基が時々、俺にそれをさせることを後悔しているのを知っている。今はめったに口には出さないけれど、始めのうちはいつも言っていた。

 ごめんな、陽佳(あきよし)。

 俺が汚した。

 ごめん。

「それに、お母さんは、本当になっちゃんに感謝してるみたいだよ。だから、後悔しないで」

「──ん」

 夏基は短くうなずく。

 今も、俺は時々、夏基に傷を作る。受験が迫ってきた今は、その回数は減っている。けれど、部屋に戻った夏基がまた自分自身で傷を増やしていないかどうか、俺はいつも心配する。

 俺の部屋で向き合って勉強を教わる間も、俺は夏基のことばかり考える。

 もちろん、勉強を疎かにするつもりはない。けれど、参考書を指差すその長くきれいな指先や、下を向いて額に落ちるさらさらの髪や、額のぶつかりそうな距離で俺を上目に見つめる姿を見るたび、つぶやくように説明してくれるその声を聞くたび、俺のなけなしの理性が揺らぐ。

 我慢我慢。

 夏基だって、我慢している。俺に痛みをねだらない。

 ただし、時々俺を甘やかすように優しくしてくれる。ただ抱き締めさせてくれるし、キスさせてもくれる。俺が嬉しくなるくらい、素直にそれを受け入れる。

 それでも本当に耐え切れなくなったときにだけ、夏基がお願い、とささやく。

 俺は夏基に噛み付き、小さな傷を作る。そこから滲む血を舐める。

 俺にとって、夏基にとって、どちらが真っ当なのだろう、といつも思う。

 俺は夏基を傷つけたくない。けれど夏基は痛みを望む。

 夏基が俺を甘やかしてくれる。少しの痛みも生まない、俺だけが幸せになるようなその優しさを、夏基はどう思っているのだろう?

 俺は優しく抱き締め、血の味のしないキスをする。

 それを受け入れる夏基は、満足しているんだろうか。

 夏基がおとなしくそれを受け入れてくれるたび、俺はいつも、それ以上を望みそうになる。

 ねえ、夏基。

 俺は隣を歩く夏基を見下ろす。つないだ手はそのまま、前を向いてのんびりと歩みを進める。

 望んでもいいのかな。

 俺は夏基を大事にして、いっぱい優しくして、いつか、自分のものにしたいんだよ。

 傷ひとつつけず、めいっぱい甘やかして、かわいがって、俺だけのものにしたいんだよ。

 俺はそれを、望んでもいいのかな。

「陽佳」

 ふと名前を呼ばれて、俺は返事をする。

「何、なっちゃん」

「やっぱり俺は、感謝してもらうわけにはいかない」

「……どうして」

「いつか、おばさんたちだって、俺を憎むよ。──俺を軽蔑して、嫌悪して、お前と一緒にいさせたことを死ぬほど恨むよ」

「──そんな、こと」

「うちの親だってきっと、俺を許さない。お前とお前の親に顔向けできないくらいの後悔をする。俺なんか生まなきゃ良かったと思うくらいに」

 つないだ手が、離れた。

「だから、感謝なんて、されちゃ駄目なんだ」

 夏基が寂しそうに言った。

 どうして手を離したのか、分からなかった。

 だって、俺が選んだのに。

 俺が、夏基と一緒にいたいと願ったのに。

「なっちゃん」

 俺は、離れた手を再びつかんで引き寄せた。

「そんなの、ずるい。なっちゃんのせいじゃないって言ったよね」

「俺のせいだ」

「違うよ。──俺の、じゃなくて、俺たちの、って言ってよ」

 夏基が目を見開く。

「自分だけ悪いみたいに言わないでよ。俺だって一緒なのに。俺が、なっちゃんを大好きなのに」

「陽佳」

「俺が望んだのに──」

 俺が夏基を好きだと思う気持ちまで否定された気がした。だからとにかく悔しかった。

 夏基がゆっくりと目を細める。

「ごめんな、陽佳」

「謝られるのは、嫌だ」

「そうだな。──でも、今のごめんは、お前の気持ちを分かってなくてごめん、ってことだから」

「なっちゃん」

「お前は、俺を好きだよな」

「大好きだよ、なっちゃん」

 夏基が微笑む。

 俺は握っていた手に力をこめる。

 もし、夏基の言うとおり、互いの親が俺たちを軽蔑し、嫌悪するようなことになっても、俺は夏基から離れるつもりなんかなかった。

「もし、何もかもばれてしまったら──」

 夏基が俺を見上げ、言った。

「2人でどこか遠くに逃げようか」

「──うん」

「簡単に返事するんだな」

 夏基が笑う。

「俺はなっちゃんがいればいいんだよ。──ずっと、そう言ってるよ」

「そうだな。──俺も、お前がいればいい」

 握り締めた手はいつの間にか痛いくらいに力がこもっていた。

 夏基がいればいい。

 そのためならなんだって犠牲にする。

 だから夏基、俺の傍にいて。

 俺も、ずっと傍にいるから。

 いつかこの手を離さなきゃいけないときがきたとしても、俺はそれに従うつもりなどない。

 俺はつないだ手を持ち上げて、夏基の指にキスをした。

 夏基は黙ってそれを見て、少し、笑った。

 さっきまであんなに冷たかった夏基の手は、いつの間にか俺の体温と溶け合って、暖かさを取り戻していた。

 冷えた指先でめくっていた文庫本のページ。

 冬用の花に植え替えられたベンチ裏の花壇。

 駅前のロータリー。

 誰よりもまず、一番最初にその目が見つけ出す、愛しい人。

 俺たちは手をつないだまま、歩き出す。

 とりあえず、ブルーベリーホイップのパンケーキだけは食べなきゃな、と夏基が笑った。


 了




 陽佳の喋り口調は少し子供っぽいです。周りの子よりも、ちょっとだけ、幼いです。

 多分夏基が小さい頃から甘やかしているせいでしょう。

 きちんと監督しているようで、結構野放しっていうか、とにかく甘そうなので。

 ただ、夏基の言うことだけはよく聞くので、陽佳の両親からの信頼は絶大です。

 だからこそ、裏切っている、と悩むのかもしれないですけど。

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