11 stay with you


 時々、陽佳(あきよし)がものすごく遠くを見つめている。

 見た目は高校生を通り越して大学生くらいに見える陽佳だが、普段のにこにこと人懐っこい笑みを浮かべ、口を開けば、途端に年相応になる。

 なっちゃんなっちゃん、とまるでまとわりつくように俺を呼びながらあとを追う。

 俺が振り返ると、嬉しそうに笑う。

 その顔があまりにも幸せそうで、かわいくて、思わず頭を撫でてやりたくなる。けれど俺と陽佳の身長差は約15センチ。馬鹿でかく成長したこの幼馴染みに頭を気軽に撫でることはできなくなった。それでも寂しそうにきゅうんきゅうんと捨て犬みたいな顔で俺を見る陽佳が、ぐいっと俺に向かって頭を下げてくる。撫でて、と言われているようで、俺は苦笑する。その頭に手を伸ばし、優しく撫でる。

 少しクセのある長めの髪は、真っ黒で少し野暮ったい。こまめに切るのが面倒で伸ばしているだけなのだが、時々ばっさりと髪を切った陽佳は、その整った顔をさらし、人目をひきつける。すれ違う女性の目を釘付けにし、溜め息をつかせる。そのたびにはらはらしている俺の心配もよそに、陽佳はいつもにっこり笑う。

 ──俺は、なっちゃんが大好きだからね。

 俺以外にそんな風に笑いかけるな。

 俺以外を好きなるな。

 いつもそう考える。

 陽佳が、髪を短く切らなくなったのは夏が過ぎた頃だった。いつもならそろそろ切ってくる、と言って驚くほどすっきりとして帰ってくるのに、最近はずっと、ある程度の長さを残している。

 勉強するときに俺の前で髪を括る。持ち上げられた前髪で、隠れていた精悍な顔が現れる。

 ──せっかくいい男なのに、もったいないな。

 俺がそう言うと、陽佳は少しだけ、寂しそうに、笑った。

 ──いいんだ。

 陽佳は俺を見つめる。

 ──なっちゃんだけが知っててくれればいいんだよ。

 力強く線を描く眉。その下でくっきりとした二重の、焦げ茶色の瞳が俺の姿を映す。

 ──だってお前は、モテるだろう? あんなに沢山の人を引きつけてさ。

 俺が陽佳の頬に触れると、陽佳はその指先に自分の手を重ねた。

 ──なっちゃんだけが俺を見てくれればいい。他の誰も、引きつけなくていいんだ。

 どうしてそんなに寂しそうに笑うのか、俺には分からない。

 陽佳はいつも、無邪気な顔をして笑う。純粋なその笑顔に、俺はいつも心を奪われる。

 それなのに。

 陽佳が、遠くを見つめる。その目にも、表情にも、いつもの笑顔はなくて、どこか冷めたように、何の感情も浮かんでいない。

 陽佳。

 その顔を、俺は知らない。

 いつからこんな顔をするようになったのだろう。

 ──陽佳。

 声をかけたら、その表情が消え去った。俺を見て、いつもの幸せそうな笑顔を見せた。


 本格的な冬を目の前にして、俺は相変わらず陽佳の勉強を見ていた。

 そろそろ進路の最終決定のための進路相談と面談があるはずだ。志望校は変わらず俺の通う高校。去年までの成績なら考えるまでもなく却下だが、この1年でぐんぐんと成績を伸ばした今なら、まず反対されることはないだろう。

 苦手だった数学も、ケアレスミスさえしなければ合格ラインの点数を確保している。

「なっちゃん、ご褒美ー」

 応用問題を5問出してやったら、うんうんうなっていたわりに、きっちり全問正解。俺が赤いペンで最後の丸をつけた途端、陽佳に横からぎゅうと抱き締められた。

 陽佳のねだるご褒美は、いつも同じ。

 なっちゃんをぎゅうって、する。

 だ、そうだ。

 そういうわけで、俺が出してやった問題が80%以上の正解をたたき出すたび、こうやってでかい身体に包み込まれるように抱き締められている。なっちゃーん、と言いながら俺にマーキングするように身体を擦り付ける。

 ──動物か。

「撫でて撫でて」

「はいはい」

 俺は陽佳の頭を撫でてやる。嬉しそうに尻尾を振る陽佳が、もっとぎゅうぎゅう抱きついてくる。

 部屋の扉がノックされ、陽佳がはーい、と返事をした。扉が開いて、顔を見せたのは陽佳の母親だった。

「そろそろ休憩にしたら」

 そう言って、持っていたトレイを散らかった床に置いた。広げた折りたたみ式のテーブルは参考書やノートでいっぱいだったから、仕方なく。おばさんが用意してくれたのはコーヒーカップが2つとサンドイッチ。それに手焼きらしいクッキー。

「ありがとうございます」

「アキが迷惑かけてごめんね」

 まだ俺をぎゅうぎゅう抱き締めている陽佳の頭をぺんと叩いて、おばさんが俺に向かってすまなそうに笑う。

「慣れてます」

「そうね」

 俺を離そうとしない陽佳を呆れたように見て、おばさんが深々と溜め息をつく。

「うちの馬鹿息子をお願い、ナツくん」

 俺の手を取って、真顔でお願いされた。陽佳の両親に、俺はとにかく頼りにされている。小さい頃からどこかぽわぽわとした、3歩歩けば色んなことを忘れていくひよこ頭の幼馴染みを、実質しっかりと面倒見てきたのは俺である。そこにきて、陽佳は、俺の言うことなら何でも聞く。だから、陽佳の両親は俺を全面信頼してしまっている。

「お母さんは、なっちゃんに触っちゃ駄目ー」

 俺の手を引っ張って、陽佳は唇を尖らせる。

「はいはい。アキのなっちゃんだもんね」

 呆れたように言って、おばさんが再び俺にお願いね、と言い残して、部屋を出て行った。

 陽佳の両親は、陽佳が俺にくっついている姿を見ても、何の反応も示さない。小さい頃から俺にべったりだったせいか、今のこの状況にも何の疑問もないらしい。

「休憩、するか」

「うん」

 陽佳はようやく俺を解放し、テーブルの上を片付けて、トレイを乗せた。2つのカップの片方は、ミルクでクリーム色に色づいていた。つまりこちらが陽佳用。俺のカップにはブラックコーヒーが入っていた。

「なっちゃんの好きなブルーベリーサンドあるよ」

 薄く切ったパンにバターとブルーベリージャム。おばさんが焼いたふわふわのパンでできたそれは、小さい頃からの俺の好物だ。時々、ピーナツバターも塗られていたりする。

 俺はそれを食べる。甘すぎないジャムは、おばさんが冷凍ブルーベリーを煮て作る。うちにもおすそ分けの小瓶がいつも常備されている。朝食のトーストやヨーグルトのトッピングに俺が欠かさないからだ。

「進路面談はいつだ」

 きゅうりとチーズの挟まったサンドイッチを食べようと口を開けた陽佳が、その瞬間、少しだけ表情を曇らせた。けれどすぐに何事もなかったかのように笑顔になり、ぱくりと噛み付いた。

「来週だよ」

「最終決定だな」

「うん。最初から、決定してる」

 たった1年だけしか一緒に通えないのに、陽佳の決定はもう揺るがない。それは俺だって嬉しい。たった1年だって、陽佳と一緒に登下校し、同じ学校で過ごせる。

「再来月には私立入試だけど──滑り止めは?」

「受けなくてもいいけど、一応、受ける」

「そうだな。当然だな」

「……落ちないよ?」

 コーヒーカップを両手で持ち上げて、陽佳が窺うように言った。

「落ちたら困る」

「──俺が?」

「俺が」

 そう答えると、陽佳がにっこりと笑った。幸せそうに。

 こんな顔を無防備に見せる陽佳から、これ以上目を離しておくわけにはいかない。きっと陽佳のことだから、学校でもモテているに違いない。そいつらをけん制するには、その距離が命取りである。

 ──まあ、陽佳のことだから、俺以外に目を向けたりはしないだろうけれど。

 ぱくぱくとサンドイッチを食べる陽佳を見つめながらそう思った。

 大好きだと臆面もなく口にする。こいつの優先順位はいつも俺が一番。

「お前の担任、誰だっけ?」

 何の気なしにそう訊ねた。2年前までは俺も通っていた学校だ。知っている教師かもしれない、と思ったからだ。

 がちゃん、と音がして、陽佳の手からコーヒーカップが落ちた。空になった皿の上に落下し、さっきまでサンドイッチが乗っていたそれが真っ二つに割れていた。おばさんのお気に入りのノリタケのアルマンド。

「陽佳?」

 陽佳ははっとして落としたカップを見下ろした。わずかに残っていたらしいミルクの入ったコーヒーが割れた皿とトレイを汚していた。

「あ──割っちゃった」

「怪我は?」

 俺は陽佳の手を取った。長袖の袖口にコーヒーのしみがついていた。けれど破片が飛んだりしている様子はない。

 陽佳は表情をなくし、こぼれたコーヒーを見つめていた。俺が呼びかけると、ゆっくりと顔を上げ、にこりと笑った。けれどいつもの明るさはない。

「どうした?」

「どうもしないよ、なっちゃん」

「──本当に?」

「うん。──担任はね、数学の、**先生だよ。なっちゃん、知ってるかなあ」

 名前に覚えがあった。陽佳が入学したのと同じ年に転任してきた女教師だ。顔立ちは派手ではないが、結構きれいだとクラスメイトが話していたのを覚えている。教師らしくわきまえた、薄い化粧、きちんまとめた髪、きれいに手入れされた爪。

「あー、お母さんに怒られるかも。これっていくらするのかな、なっちゃん知ってる?」

 陽佳は割れてしまったボーンチャイナの心配をしているようだった。けれどその口調も、情けなくゆがんだ笑顔も、どこかぎこちない。

「高いのかな。お小遣い減らされたらどうしよう」

「陽佳」

「──何、なっちゃん」

 力なく陽佳が顔を上げた。

 何でそんなに、泣きそうな顔をしているんだ?

 頭のてっぺんで括られた髪の毛。いつもは顔にかかる髪がないせいで、その表情がよく見えた。丸みの削げた、男らしい輪郭だった。

「──クッキー、無事だった」

 何も言わずに自分を見ている俺に、陽佳がトレイの隅に置かれていた小皿を持ち上げた。多少コーヒーがかかってはいるが、被害は最小限。ティッシュで皿の裏を拭って、テーブルに直接置いた。コーヒーのこぼれたトレイを床に下ろして、テーブルにもこぼれていたコーヒーも拭いた。

「勉強の続き、するね」

 下ろしていたノートを広げ、参考書のページをめくる。

「次の問題、どこやればいいのかな。なっちゃん、またご褒美ちょうだいね」

 無理してはしゃぐように言う姿に違和感を感じた。

 原因は何だ?

 母親のお気に入りの皿を割ったことに対する反省?

 俺は、陽佳がカップを落とした原因を思い出してみる。

 ──担任。

 俺が、何の意味もなく、雑談のように訊ねた一言。それが原因だとしか思えなかった。

「陽佳」

「ん?」

「何か、あったのか。学校で」

「──何かって?」

 陽佳は顔を上げた。その仕草もいつもと変わらない。けれど、どこか、違う。

「進路のことで担任ともめてるのか?」

 陽佳は少し驚いたように目を見開いて、それからふっと笑う。ほっとしたようにも見えた。

「違うよ。あ、でもね、夏頃は反対されてたかな。死ぬ気で頑張るっからって、説得したんだよ」

「そっか」

「俺、絶対なっちゃんと同じ高校行くんだ」

「ああ、待ってる」

「だからなっちゃん、ご褒美ー」

 テーブル越しに両手を俺に向かって伸ばしてくる。

「いくらでもやるよ」

「──え?」

「いくらでも。お前がほしいだけやる」

 陽佳がぽかんと口を開けた。

「なっちゃん」

「だから、頑張れ」

「う、うん、頑張る」

 急にプレッシャーがかかったのか、陽佳は口元を引き締めた。

「なあ、陽佳」

 俺は気合を入れて参考書に目を落とした陽佳に言った。

「悩みがあるなら何でも言えよ」

「──うん」

 陽佳はちらりと俺を見てうなずいた。

「担任と上手くいってないとか、進路のことで反発してるなら──」

「大丈夫」

 俺の言葉を遮るように、はっきりとそう返された。

「大丈夫だよ、なっちゃん」

 真剣な目をしておれを見返す陽佳のその目には、ほんの少しの嘘が見えた。けれど、それを問い詰めることはできなかった。

「俺は、平気。頑張るから。ちゃんと勉強して、合格するから。──そして、4月からはなっちゃんと同じ高校に通うんだ」

「陽佳……」

「大丈夫。──俺は、なっちゃんが好き。だから、大丈夫」

 俺をまっすぐに見つめているのに、自分に言い聞かせるような声だった。俺はその目を見返して、その嘘にだまされたフリをする。

 一人でいる陽佳が、時々、遠くを見つめる。

 何の表情も浮かばない、まるで空虚のような顔。すさんだような、何かを諦めたような、そんな顔をして、何もないどこかを見つめている。

 俺が見たことのない顔。

 本当に大人になってしまったかのような、知らない顔。

 そのときの陽佳が何を考えているのか、俺には分からない。

 そんな顔をする理由を、いつか陽佳は話してくれるだろうか?

「陽佳」

 俺は目の前で少し寂しげに、けれど俺には何も話さないと多分決めているであろう幼馴染みの顔を見つめる。

「俺にも、ご褒美」

 陽佳がきょとんと俺を見た。

 俺は両手を伸ばし、もう一度、

「勉強教えてやってる、ご褒美」

 と、言った。陽佳はおずおずと俺に近付き、俺のすぐ横までやってきた。俺はその顔を見上げる。

「どうすればいいの?」

「同じでいい」

「──俺のご褒美と?」

 俺はうなずく。陽佳が恐る恐る俺を抱き締める。自分のご褒美の時には勢いよく抱きついてくるくせに、なぜか遠慮がちだ。俺は陽佳の腕の中で目を閉じる。

「なっちゃん」

「何だ」

「これ、俺のご褒美だよね?」

「俺のだ」

 そう答えたら、少しだけ力がこもる。そのままもっと強く抱き締めろ、と思った。

「だって、これ、痛くないよ?」

 不安そうな陽佳の声に、俺は陽佳の目に顔を押し付けて苦笑した。

 ああ、そうだな。

 これは、ちっとも、痛くない。

「いいんだ」

 陽佳が、ぎゅっと俺を抱き締めた。さっきよりも強く。

 大丈夫、と陽佳が言うのなら、俺はそれを信じようと思った。

 俺の知らない、辛い何かを抱えているとしても、陽佳がそれを俺に知られたくないと願うなら、おとなしくだまされてやろう。

 けれど、あんな顔はもう、させたくなかった。

 少なくとも、俺が傍にいるときは。

「好きって言えよ」

 俺はさっき陽佳がしていたように、身体をこすり付けるようにすがる。

「いつもみたいに」

 陽佳が、小さく笑ったのが分かった。

 さっきまでの、寂しそうな笑顔じゃなければいい。

 陽佳の胸の中で、俺は思う。

 今度は、いつもどおりに嬉しそうに笑っていればいい。

「大好きだよ、なっちゃん」

 ようやく聞こえたその声は柔らかく、幸せそうで、多分陽佳はちゃんと笑えているのだろう、と俺には分かったのだった。


 了

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