10 Lyric~different~


 3年生になってから、俺は誰にも言えない秘密を2つ、抱えている。

 ひとつは夏基(なつき)とのこと。

 これは物心ついたときから夏基を好きだった俺にとっては、まるで夢のようなことだった。夏基の指先についた血。捲り上げた袖、腕の内側に、隠すようにつけられた小さな傷。それを見つけた俺が考えたことはただひとつ。

 夏基のために、できることならなんでもしたい。

 それだけだった。

 夏基の望む痛みを与えてあげられるのは、俺だけなのだ。そう思ったら泣きたくなるくらい嬉しかった。

 夏基に求められているのなら、どんな理由でも構わなかった。夏基を傷つけたくはない。優しく抱き締めて、思う存分甘やかして、好きだとささやきたい。けれど夏基が満足するには、それじゃ駄目なのだ。だから俺は、夏基に傷を作り、痛みを与える。

 この行為が俺にとってどんなに辛いことなのか、夏基は多分、知らないのだろう。けれど俺はそれでも、夏基のためにそれに耐える。

 夏基が喜んでくれるなら、俺の苦しみなんかどうでもよかった。

 夏基が好きだ。大好きだ。

 夏基以外、誰もいらないと思うくらいに。

 もうひとつは、俺だけの秘密だ。

 夏基にすら言えない秘密。

 俺は今日も、そのもうひとつの秘密を胸の中にしまいこむ。


 昼休み、担任に呼び出された俺は、進路指導室というプレートのかかった小さな部屋の扉をノックした。校内放送で呼び出されたのでは逃げようがなかった。中庭で友人たちとゴムボールで三角ベースをしていた俺は、その声にぞっとした。

『3年4組、沢村陽佳(さわむら あきよし)くん、進路指導室まで来てください、繰り返します──』

 鼻にかかった声が、校内に響いて、はしゃいでいた友人たちが急にトーンを落として、言った。

「呼ばれてるぞ、陽佳」

 俺はうなずく。

「何かやったのかー?」

「それなら生徒指導室だろ、ばーか」

「進学のことか?」

 友人たちが口々に言って、早く行けば、と背中を押す。俺は渋々中庭を抜け、階段を上がった。進路指導室は3階。なるべくゆっくりと階段を上がった。

 ノックが終わる前に、仲から声がした。目の前の扉が開き、担任が顔を出した。俺は部屋に引っ張り込まれる。後ろでがちゃんと鍵がかけられた音がした。

「沢村くんは──」

 20代後半から30代前半と思しきこの女教師は、口元を持ち上げてつぶやいた。

「放送かけても、すぐには来ないのね」

「──すみません」

 おとなしく謝っておいた。けれど、悪いとは思っていなかった。

「まあ、いいわ。座って」

 机がひとつ。それを挟むように椅子が2つ。俺は、手前の椅子に腰掛けた。

 きれいに纏め上げた髪から一筋、わざと垂らした後れ毛。近付かないと分からないくらいわずかにまとう甘い香り。その香りが、俺の鼻に届いた。目の前に、腰を屈めるようにして俺の顔を覗きこむ担任の顔があった。

「少しは言うこと聞いてくれなきゃ」

「──進路指導じゃないんですか」

 担任はくすりと笑った。椅子に座った俺の背後に回りこみ、細い腕を俺の身体に回して背中から抱きついた。

「先生──」

「中学生に見えない。全然」

 この台詞を、何度聞いただろう。休み時間や放課後、二人きりになると、この担任はいつも、そう口にする。まるで、見えないのだから仕方がない、といういいわけのように聞こえた。

 中学に入って、まず、背が伸びた。それでも、2年に上がるくらいまではまだ、俺の顔も、身体も、幼さを残していた。けれど3年になった途端、急激に俺の身体は子供らしさを失い、部活でつけた筋肉はどんどん硬くなり、その身体の線を変えていった。

 丸みのあった顔もいつの間にか削ぐように無駄なものを落としていく。

 周りの同級生と比べても、その違いは歴然だった。俺は見た目だけなら高校生か、それ以上、すっかり大人になっていた。

 女子生徒の中には、びっくりするほど大人びてきれいな子もいたが、男子生徒となれば別だ。大抵はまだ子供の面影を残しつつ、少しずつ成長していく。俺はどうやら、それを簡単に飛び越えてしまったらしい。

 早く高校生になりたかった。夏基と同じ制服を着て、同じ学校に通いたかった。自分には似合わない中学の制服も嫌いだ。夏基の着ているブレザーなら、きっと俺も違和感なく着こなせるはずだった。この大人びた見た目も、きっと、目立たない。

「沢村くん」

 また、甘い香り。俺の背後から、ずっとそれが漂ってくる。

 短く切られた爪にほとんど色味のないマニキュアが塗られていた。つやつやのその爪を持つ指先が、俺の学ランの中に滑り込む。

 夏の初め、最初の進路調査用紙を提出した俺は、担任に呼び出された。今の成績だと、この高校は無理かもしれない、と言われた。俺はどうしても夏基と同じ高校に行きたかったので、必死で訴えた。勉強を頑張るから、このまま進路は変えたくない、と。

 担任は少し考え、大変よ、と言った。俺は死ぬ気で頑張ります、と応えた。

 担任がしょうがないわね、とつぶやいて、俺のそばで、まるで内緒話をするように付け加えた。

 ──じゃあ、これからいっぱい話し合わないとね。

 その言葉を、俺は素直に受け取った。勉強のことや、進路のことで相談に乗ってくれるという意味だと思いこんだ。

 けれど──

 初めて担任の意図に気付いたのは、放課後、この小さな部屋で3度目の進路相談をしているときのことだった。理系が弱い俺の苦手なところを指摘していた担任が、気付くとすぐ近くで俺を見つめていた。

 中学生には見えない。全然。

 そう言って、俺の頬に触れた。ぞくりとした。指先が俺の輪郭をなぞる。夏基に触れられるのとは全く違う、その指の動きに不快感さえ感じた。

 子供に見えないわ。

 そう言って、笑みを浮かべたその口元が、吐き気をもよおすくらい媚びていた。

 10歳以上も年上の、しかも教師が、俺に向かってそんな態度を取るなんて、信じられなかった。俺は急いで席を立ち、部屋を出ようとした。けれど、その手をつかまれて、まるでにらむように俺を見ていた担任が、言った。

 その大きな身体じゃ、私が抵抗できないの、分かる?

 挑戦するような笑みだと思った。俺は、その瞬間、なぜか、理解してしまった。

 つまり、ここで俺が逃げ出せば、この担任は被害者が自分だと思わせることができる、と言っているのだ。

 何もない。まだ。

 けれど、担任は女で、俺は男である。しかも、身体だけなら大人と変わらない。

 何かあったと思わせることなんて、きっと、簡単なことなのだろう。

 それから俺は、月に数度、この小さな部屋に呼び出され、2人きりになることを強要されている。

「沢村くん」

 黙ったままの俺の耳にキスして、担任がささやく。

 何もない。あってはいけない。

 けれど、俺の意思はきれいに無視された。担任が俺に触れる。

 甘い香り。この甘ったるい香りが、俺は大嫌いだ。

 頬に当てた手で俺の顔を自分の方に向けて、担任が唇を重ねた。

 ──夏基。

 俺は噛み締めた奥歯に力を入れて、ただ重なるだけのその唇をけして受け入れなかった。担任はそれでも満足したようにそれを続ける。

 チャイムが鳴る。

 俺を解放した担任が、妖しげな笑みを浮かべていた。

 俺は鍵を開け、その小さな部屋を飛び出した。教室には戻らなかった。

 俺は人気のない最上階の男子トイレに駆け込み、その個室で、さっき食べたばかりの給食をすべて吐き出した。授業の始まった校内は静まり返り、校庭から時々ホイッスルの音が聞こえた。

 俺は流しで何度も何度も顔を洗い、担任が触れた場所をすべて洗い流した。体に残る甘い香水のにおいも、必死で消した。

 俺はそのまま教室に戻ることなく、最上階の階段の踊り場で身体を縮めるようにして声にならない叫びを上げた。

 わー! と、何度も、何度も。

 夏基。

 俺はポケットのスマホを取り出し、電源を入れた。

 駅前で、待ってるね。

 そう打ち込んで、再び電源を切った。校内でのスマホや携帯電話の使用は禁じられている。だから、みつからないようにいつも、電源は切ってある。

 俺は両手で頭を抱え込んで、何度も頭の中で夏基の名前を呼んだ。

 なっちゃん、会いたい。今すぐ。

 泣きたくなるくらい辛かった。けれど、俺は、それを胸にしまいこむ。

 これが、俺のもうひとつの秘密だ。


 ホームルーム終了後、逃げるように教室から出た俺は、友人たちの呼びかけにも答えずに校内を出た。教室を出るとき、担任が俺を例の妖しげな目でみていたが、気付かないフリをした。一刻も早くその視線から逃れたかった。

 俺は走る。駅までは歩いて10分弱。きっと夏基はまだ学校を出てもいないだろう。けれど、俺はスピードを緩めず走り続けた。いつも夏基を待つベンチ。季節ごとに小さな花が植え替えられる花壇の前、俺はそこで夏基を待つ。

 息を切らせてたどり着くと、駅前はたった今到着したばかりの電車から降りた人たちが思い思いの方向に歩いていた。

 俺は息を整え、一度深く深呼吸してからベンチに座った。

 スマホの電源を入てメールを確認したら、夏基からの返信があった。

 今、行く。

 送信時間はほんの1分前。夏基の返事はいつも簡潔だ。俺はそのたった5文字を見て、笑う。

 夏基、早く、会いたい。

 高校を出て、駅まで5分。電車の待ち時間を入れて、この駅に到着するまで約30~40分。混み合う電車を降りて改札を抜け、あの駅の出口からその姿が見えるまで、3分。

 早く。

 俺がベンチに座ったまま、じっと駅の出口を見つめていた。

 改札の前で待っていた俺を、邪魔になるからと外で待たせるようにしたのは夏基だった。一刻も早くその顔が見たいのに、と俺は少し不満だった。けれど、駅から出てきた夏基が、俺と同じようにその姿を見つけて微笑むのを見たとき、外で待つのも悪くないなと思った。

 こんなに沢山の人がいても、夏基の姿だけが目に入った。

 夏基もそうだといい。人混みに紛れていても、俺を真っ先に見つけて欲しい。

 こうしてじっと夏基が出てくるのを待っていたら、前に、夏基がおかしそうに笑いながら、

「忠犬ハチ公みたいだな」

 と言った。

 俺はうん、とうなずいた。時々夏基は俺を犬みたいだと言うが、自分でもそう思った。

 夏基が来てくれるなら、俺は、きっといつまでだって待つ。ハチと同じように、いつまでだって。

 バスターミナルに次々やってきては新しい乗客を乗せて発車していくバス。ぐるぐるとロータリーを回るタクシー。花壇の花はセントポーリア。冬が来たら別の花に植え替えられるまで、けなげに咲き続ける。

 夏基、早く会いたい。

 俺は何度も何度も時計を確認し、さっき想定した所要時間をカウントダウンするように頭の中でマイナスしていく。

 次々に到着する電車から吐き出される人の波。俺はそのたびに唯一無二のその存在を探す。

 カウントダウンした時間は、もう残り少なかった。

 何度目かの人の波。俺は、そこに、愛しい人の姿を見つけた。探すまでもなく、俺の視線はその姿にまっすぐにたどり着いた。思わずベンチから立ち上がり、顔がほころぶ。夏基も同じように俺を見つけた。わずかにその表情に笑みが浮かんだ、そのときだった。夏基の袖を、同じ高校の制服を着た女の子が、引いた。夏基が驚いたように振り返る。俺を見ていたはずのその視線が、移動した。

 急に、冷たい空気に包まれたような気分になった。俺はその場で立ち尽くす。

 夏基は俺を気にしつつも、結局その子と何か話を続けていた。その子は伸ばした手で夏基の袖をつかんだままだ。

 夏基に、触れるな。

 俺はそう言いたくなるのをぐっと堪えた。

 髪の長い、小柄な女の子だった。少しうつむきがちに、けれど時々気合を入れるかのように力強く顔を上げ、夏基に何か話しかけている。夏基はいつも変わらない冷めた表情で応えているが、その内容は俺にもなんとなく分かった。

 ──きっと、あの子は夏基が好きなんだ。

 とてもきれいな子だった。スカートから伸びた脚は細く、さらりと長い髪はつやつやで、頬を赤く染めて話す姿がとてもかわいかった。

 その子が夏基の隣に並んでいるのを見たら、急に俺は自分が場違いな気分になった。

 夏基の袖をつかむその手がぱっと離された。そのとき、夏基の立つ角度が変わり、こちらに背を向けるような格好になった。意図したものというより、袖を離してもらうためにその身体を引いたからだろう。

 一瞬だけうつむいたその子が、笑顔になった。何か小さな箱を差し出して、それから指先で自分の唇に触れた。その仕草がかわいくて、俺は胸が痛くなる。

 こちらに背を向けた夏基がどんな表情をしているのかは分からない。笑顔じゃなければいい。そう思った。

 夏基が、差し出されたその小さな箱を受け取った。その子が走り去った。

 俺は、ゆっくりと夏基に近付いた。

「なっちゃん」

 背中に声をかけると、夏基が振り返った。その表情は、特に普段と変わらない。俺は無理矢理笑顔を作って、おかえり、と言った。夏基がただいま、と答える。

 あんなに会いたかったはずの夏基が、なぜか遠く感じた。

 夏基が俺を見上げる。そして、俺の手を取る。

「なっちゃん?」

 人目を気にして、俺は少し慌てた。

「陽佳」

「うん、何、なっちゃん」

「お前がいい」

 突然、そんなことを言われて、俺は自分の耳を疑った。

 夏基は、今、何て言った。

 首を傾げるようにして夏基を見ると、夏基は続けた。

「お前じゃなきゃいけないんだ」

 俺は、突然、こみ上げて来る感情に、泣きたくなった。必死の思いでうなずいた。

「──うん」

「他の誰もいらない。お前以外、誰も」

「俺もだよ、なっちゃん」

 嬉しかった。どうして夏基は、俺が欲しい言葉を分かってくれたのだろう。あんなに苦しかったはずなのに、急に気持ちが楽になった。

 夏基の唇には、傷が出来ていた。昨日、俺が噛んだ傷だ。その傷に固まった血がかさぶたのように貼りついていた。

 ──進路指導室で重ねられた唇。何度も擦り、洗い流し、その痕跡を消す。その名残りを、すべて。

 なかったことにしたかった。

 あと数ヶ月。

 そうすれば、解放される。

 俺は夏基を見下ろし、微笑む。

 夏基のためなら、なんだって耐えられる。

 俺をじっと見つめていた夏基が、唇を噛み締めた。あ、と思ったときにはもう、固まっていた血がはがれ、鮮血が滲んだ。薄い唇にじわりと広がるそれを、夏基の舌が舐め取る。

 どうして、そんな風に、傷を広げるの?

 俺のせい?

 それとも、俺のため?

 ──俺には秘密がある。

 ひとつは夏基とのこと。

 俺は夏基の手を握り締め、黙って歩き出した。出来るだけ早くこの場所を去りたかった。人のいない場所ならどこでもいい。早く2人きりになりたかった。

 夏基が血の滲む唇を舐める。妖しいばかりに色気を増し、俺の感情に火をつける。

 足早に、路地を抜ける。

 早く。

 街路樹に囲まれたがら空きの駐車場。まだ人気のない飲食店の裏手、そこに俺は夏基を引っ張り込んだ。誰もいないことを確認して、物陰で夏基を自分の方に向かせた。少し驚いたように俺を見て、夏基が俺を呼んだ。けれど、最後まで聞く余裕がなかった。

 俺は夏基の唇を奪う。あふれる血を舐め、舌に絡むその味を確かめ、夏基の口内に侵入した。その血が俺と夏基の唾液と混ざり合う。

「そんな顔、外でしないで」

 煽るような、扇情的な顔。俺だけにしか見せないでほしい、と思った。

「その傷も──俺のものだから」

 あふれ出す赤。俺だけに許された特権。

 夏基のすべてを、俺のものにしたい。

 秘密を2つ。

 2つ目の秘密は、永遠に胸にしまいこむ。

 あと数ヶ月、我慢すればいい。ただひたすら、耐えればいい。俺の心は夏基のものだ。

 俺のすべては、夏基のものだ。

 夏基の両腕が、俺の首に絡みつく。

 ことりと音がして、夏基がさっき受け取った小さな箱が落ちたのが分かった。けれど俺はそれを見ようともしなかった。

 夏基が好きだ。大好きだ。

 夏基だけが、俺の心を奪う。

 夏基が空気を求めて喘ぐ。

 俺は、夏基を逃がさないように強く抱き締め、窒息するまで唇を離したくない、と思った。


 了


前出の夏基視点の「It's gotta be you」と、時を同じくしての陽佳視点でした。

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