09 It's gotta be you


 授業を終えて帰ろうとしたら、廊下で声をかけられた。髪の長い、女子生徒だった。友人が俺を追い越しながら、またなーと、声をかけてきた。俺はそれに応えながら、その女子生徒と向き合った。

「何か、用?」

 その女は一旦深く呼吸をして、それから、口を開いた。

「一緒に帰ってもらえませんか?」

 どうして俺が、そんなことをしなきゃいけない?

 まず、そう思った。目の前で必死な顔をしている女が、俺の少し迷惑そうな表情に気付いたのか、畳み掛けるように言った。

「私、柴崎くんの利用してる駅の、ひとつ先の駅から通ってるんです。朝、時々見かけます。だから、あの、電車だけでもいいので、お願いします」

 少し離れたところに、女子生徒が2人、俺たちの様子を窺うよう覗いていた。多分、この女の友人なのだろう。らんらんとした目をこちらに向けて、まるでがんばれー、がんばれーと念を飛ばしているかのように見えた。

「俺、多分、話したりしないけど」

「はい、それでもいいです」

 それならば、まあ、いいか。そう思った。俺はこれからまっすぐ駅に向かい、普段どおりに電車に乗る。そして、陽佳(あきよし)待ち合わせている地元の駅で電車を降りる。その後ろを、この女がついてくるだけだ。そう考えることにした。

 スマホに短いメッセージ。駅前で、待ってるね。陽佳のにこにことした顔が浮かんだ。

 俺はくるりときびすを返し、すたすたと昇降口に向かった。女が、慌ててついてくる。歩き出す前に、後ろで一部始終を覗き見していた2人に手を振ったのが分かった。

 俺がいつもの歩調で駅まで向かうのを、女が足早についてくる。定期を使って改札を通り、ホームに立ったら、女が息を乱しながら俺の隣に立った。

「歩くの、早い、ですね」

「普通」

 いつもは、185センチを超える幼馴染みと並んで歩く。170センチを少し超えたくらいの身長しかない俺よりもずっと長い足での一歩は、俺の一歩とは大違い。かなりの差がつく。けれど、陽佳はいつも、俺のペースに合わせて歩いてくれる。

「柴崎くんは、いつもすぐ帰っちゃうんですね」

「学校にいる理由がない」

「ああ、部活もしてませんもんね」

 そんなことを聞いてどうするんだ、と思う。これから5駅分、約30分弱を、こんなくだらない質問ばかりされるのかと思ったら、うんざりした。

「あの……趣味とか、何ですか?」

 俺は隣の女を見て、呆れたように、言った。

「そんなの聞いて、どうすんの?」

「え──」

 絶句したように固まって、女がゆっくりと赤面していく。

「すみません……」

 俺は、ホームに響くアナウンスに息をつく。電車が滑り込み、開いたドアから素早く車内に入った。もちろん、女もついてきた。そのまま反対側の扉の前まで行って足を止めた。この路線は片側の扉しか開かない。混雑する入り口を避けるようにして、俺はその開かない扉に寄りかかる。

 がたんごとんと揺れる電車の中で、しばらく黙って並んでいた。俺は流れる車窓を見つめていた。改札を出るまで25分。陽佳はそろそろ、駅についている頃かもしれない。

 待ち合わせをし始めた頃は、いつも改札の前で待っていた。ホームからやってくる俺を待って、改札を抜けた途端、嬉しそうに駆け寄ってくる。けれど、あのでかい図体がラッシュ時に改札の前にいるのは邪魔になる、ということで、最近では駅の外、バスターミナルとタクシー乗り場のあるロータリー、いくつか設置された花壇の前にあるベンチで、待ち合わせることになった。

 制服姿の陽佳がベンチに腰掛けて駅の入り口を見ている。俺が出てきた途端、満面の笑みを見せる。中学生には見えない大人びたその姿を見つけて、俺も笑う。

 おかえり、なっちゃん。

 いつもそう言って、にっこり笑う。だから俺も答える。ただいま、と。

「柴崎くんは──」

 隣で、再び女の声がした。

「付き合ってる人はいますか?」

「いるよ」

 そう答えたら、女の顔がすっと青ざめた。

「そう、ですか──」

「あんたには関係ないと思うけど」

「はい……」

 そのままうつむいて、しばらく顔を上げなかった。俺はまた、車窓に視線を戻した。

 一緒に帰ればいい、などと提案したのはきっと、後ろで覗いていた2人のどちらかだろう。深く考えるまでもなく、この女は、俺のことが好きなのだろうと分かる。きっと一緒に帰る道すがら、いくばくかの会話をし、打ち解けたところで告白でもしてくるつもりだったのだろう。

 柴崎くん、などと呼んでいるのだから、同じ学年か、3年生。少なくとも後輩ではない。敬語を使うから、同級生なのだとあたりをつけた。女に興味のない俺は、同じ学年どころか、同じクラスの女子生徒の把握すらできていない。

 基本的に、俺はあまり愛想のいい方ではない。友人はいるが、その友人たちにでさえ「冷めている」と言われるくらいだ。喋るのが面倒なので、なるべく短く答えることにしている。陽佳が前に「なっちゃんの喋り方って、ぞんざいだよねー」などとしみじみ言っていた。俺としては、陽佳がぞんざいなどという言葉を知っていたことに驚いたが。

 でも、そんななっちゃんも好きだけどね。

 結局、お前は俺のことなら何だって好きなんじゃないか。

 そう思ったけれど、俺はそれ以上に、陽佳のことなら何でも愛せる自信があった。そして実際、溺愛だ。

「──柴崎くん」

 俺は視線を向けた。女が、再び気合を入れ直すようにして口を開いた。

「どんな人ですか、付き合ってる人って」

「何で話さなきゃいけないの」

「知りたいから、です」

 握り締めた拳が小さく震えている。まあ、それだけ必死なんだろう。ご苦労なことだ。

「長身で、スタイル抜群。顔も整ってて、笑顔が最高にかわいい。人が良くて、優しくて、時々心配になるくらいだ。俺を好きすぎるくらい好きで、何よりも優先する。俺の言うことなら何だって聞いてくれる。──手放せないくらい愛しい」

 嘘は何一つついていない。俺は陽佳のことを思い浮かべながら、そう言った。

 女がまた、目に見えて落ち込んだように肩を落とした。そりゃそうだ。そんな完璧な恋人なら、入り込む隙はないと思ったのだろう。

「──手放すつもりもないけど」

 生まれたときからの執着を、簡単に捨てられるはずはない。俺はきっと、一生、死ぬまで、陽佳のことを手放さない。あいつが泣いて嫌だと訴えたとしても。

 もちろん、そうならないことは分かっていた。俺がそう思うように、きっと陽佳も同じように思っているはずだった。自惚れでもなんでもなく。

 ごとごとと揺れる電車の中で、俺たちはまた沈黙に包まれた。周りの乗客の何人かが、時々俺たちの様子を窺うような目を向けた。俺の態度があまりにもひどいと思っているのだろう。

 そんなことは、どうでもよかった。

 俺には、何の興味もない。

 俺には、陽佳以外、何もいらない。

 女はそれきり、口を開かなかった。ようやく黙ったか、と俺は思った。賢明な判断だ。このまま実のない話を続けたところで、俺の態度が軟化することはない。これ以上嫌な思いをしたくなければ、それが一番いい。

 車内にアナウンスが流れ、俺は寄りかかっていた身体を起こした。まもなく開く扉に向かって足を進めた。電車が止まり、扉が開いた。俺は素早くホームに降りた。後ろを振り返ることもしなかった。

 人の流れに沿って改札を抜け、駅を出た。ロータリーのいつものベンチに視線を向ける。俺が、嬉しそうに立ち上がる陽佳の姿を見つけるのと、後ろから袖をつかまれて声をかけられたのは、同時だった。

「柴崎くん」

 俺はぎょっとした。まさか、一緒に電車を降りているなんて考えもしなかった。利用している駅は違うといっていたから、完全に油断した。

「あの、私」

 陽佳が、ベンチの前で、ぽつりと立っていた。俺を見つけたときの満面の笑みは消え、どこか呆然と立ち尽くしている。

「柴崎くんが好きなんです」

「────」

 俺は言葉を失った。心を打たれたとか、驚いたとか、そんな理由じゃない。ただただ呆れた。あれだけ邪険にされ、そっけない返事で拒絶されていたのに、まだそれを口にするこの女の気持ちが分からない。

「好きなんです」

「そう」

「はい」

「で?」

「え?」

 女は驚いたように俺を見た。

「俺の態度で、答えは分かるだろ」

「はい」

「付き合ってるやつもいるし」

「はい」

「あんたの神経、図太いな」

「はい」

 素直に何でもうなずくな、と思う。

「振られるだろうとは思っていたんですけど、やっぱり好きなので」

「それ、離してくれる」

 つかまれたままの俺の袖を指差すと、女がぱっとその手を離した。

「悪いけど」

「……はい」

 しゅんと肩を落とし、うなずいた。けれどすぐに顔を上げて、無理矢理のように笑顔になった。

「これ、使ってください。──柴崎くん、いつも怪我してるから」

 差し出されたのは絆創膏の箱だった。確かに、今も、俺の指はいくつかの傷を手当されている。

「ここ、大丈夫ですか?」

 女は自分の唇の端を指差した。

 俺の下唇、右の端、切れて血が固まっていた。

 なっちゃん。

 陽佳の声が耳元でささやく。

 俺は陽佳の首に回した腕を強く絡ませ、顔を近づける。唇が触れるぎりぎりのところで、俺はねだる。

 キスをして。深く。

 陽佳の唇がそれに応える。舌が絡まり、俺は息継ぎすることすら忘れて、もっと強く陽佳にすがりつく。

 噛んで。痛くして。

 陽佳がぬるりと舌を抜く。睫毛が触れるくらい近くで俺の目を見つめる。陽佳の舌が俺の唇を舐める。そして、ゆっくりと歯を立てる。じわりを滲む血を、再び絡む舌が俺と陽佳の口内にその血を行き渡らせる。

 息ができない。

 苦しくて喘ぐ。次々にあふれる血を舐めて、陽佳が俺を呼ぶ。

 大好きだよ、なっちゃん。

 俺は満たされ、目を閉じる。

 大きく息を吸い込んだら、また、呼吸もできないくらいに深くキスされた。

「──柴崎くん?」

 俺ははっとし、その小さな箱を受け取った。

「大丈夫」

「そう、ですか」

 女はほっとしたように笑う。

「一緒に帰ってくれて、ありがとう」

 ぺこりと頭を下げ、ぱたぱたと出てきたばかりの駅に向かって走り去った。

 多分、あの女は、もう、俺に話しかけてくることはないのだろう。

「なっちゃん」

 背後から聞こえた声に、俺は振り向いた。

「おかえり」

 にこりといつものように、陽佳が笑う。けれどその笑顔は少し寂しそうだ。

「ただいま」

 俺は答える。

 お前じゃなきゃ駄目なんだ。

 お前以外、何もいらない。

 俺は陽佳を見上げる。

「なっちゃん?」

 目を細めて俺を見つめる陽佳の手を、そっとつかんだ。駅を行きかう人の何人かが、俺たちを見ている。

「陽佳」

「うん、何、なっちゃん」

「お前がいい」

 陽佳は首を傾げる。

「お前じゃなきゃいけないんだ」

「──うん」

 陽佳がうなずく。

「他の誰もいらない。お前以外、誰も」

「俺もだよ、なっちゃん」

 陽佳は、さっきの女のことを、一言も口にしない。ただ俺を優しい目をして見ている。

 あんな態度をとられてもなお、俺を好きだと告げてくるその気持ちにすら、心は動かない。ほんの少しも。

 俺は、陽佳以外の誰にも、興味を持てない。これまでも、この先も、一生。

 俺は唇を噛み締め、かさぶたになったその血の塊を無理矢理噛み千切る。止まっていた血があふれ、口の中に広がった。

 陽佳が驚いたように俺を見ている。

 お前がいい。

 この先も、ずっと。

 お前以外、何もいらない。

 陽佳が何かを堪えるように、辛そうな表情をして、俺を見つめ、俺の手を握ったまま足早に歩き出した。いつもは俺の歩調に合わせて歩いてくれるのに、陽佳はなぜか、その長い足を大きく動かし、早いピッチで歩く。俺はそれについていくために必死で追いかけた。引かれた腕が少し痛んだ。

 陽佳。

 名前を呼ぼうとして、その背中を見つめて、口を閉ざす。

 血が流れる。それを繰り返し舐め取りながら、俺は黙って陽佳のあとを負う。

 お前じゃなきゃいけないんだ。

 それ以外は、何も──

 無言で歩いていた陽佳が、突然進路を変えた。まだオープン前の飲食店の駐車場、人気のないそこに引っ張られ、俺は街路樹の陰になるその場所で、無理矢理のように陽佳の正面に立たされた。

「陽佳──」

 呼び終える前に、陽佳が乱暴にキスをした。唇の傷を舐め、前歯を割ってその舌が入り込む。

「そんな顔、外でしないで」

 陽佳がまるで、傷ついたような顔をして言った。

「その傷も──」

 俺のものだから、とささやくように聞こえた。再び重なった唇が、痛いくらいに吸い付かれ、噛み付かれる。

 俺は持っていた小箱を落とし、両手を陽佳の首に巻きつけた。

 他の誰もいらない。お前以外、誰も。

 俺は大きく息を吸い込み、その深く長いキスにただ、身を委ねた。


 了



 次は陽佳。

 同じ日の、同じ時間の、お話です。

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