08 daylight~different~
夏基(なつき)の朝食は卵二つの半熟の目玉焼きと厚切りのトースト一枚。インスタントコーヒーを入れて、俺は自分のカップに砂糖とミルクを入れた。夏基はブラック。ことんと目の前にカップを置いたら、ぎろりとにらまれた。
俺の目玉焼きは卵3つ。キッチンでリンゴをむいていたおばさんが、チーンと音を立てたトースターを見て、あきちゃん、と声をかけた。俺はトースターを開けて、4枚切りの食パンを2枚、自分の皿に入れた。
バターを塗ろうとして、空中で夏基と手がぶつかった。
夏基は不機嫌そうな顔をして、俺の手をぱしんと叩き、バターナイフを奪った。自分のトーストに薄くそれを塗りつけて、バターナイフをケースに戻した。俺は恐る恐るそれに手を伸ばし、焼けたばかりのパンにバターを塗った。
夏基が、昨日の夜からずっと、怒っている。
「ねえ、あきちゃん」
きれいにむかれたリンゴをテーブルの真ん中に置いて、おばさんが言った。
「夕飯は何を食べたい?」
にこにこと、夏基の母親とは思えないほどの愛想のよさで、訊ねてきた。
「母さん──今、朝食を食べてる」
夏基が冷ややかに言った。
「夏基には聞いてないわ。あきちゃんに聞いてるの」
「陽佳(あきよし)も、朝食を食べている」
「そうね、食べてるわね」
大柄な俺のために、おばさんが用意してくれた卵3つの目玉焼き。確かに、夏基の比にならないくらい良く食べる俺は、それをありがたくいただくことにした。夏基が冷たい視線をこちらに向けて、コレステロールで死ぬぞ、とつぶやいたのにはぞっとしたが。
「でも、あきちゃんは、いっぱい食べてくれるから、嬉しいんだもの」
おばさんがのほほんとした口調で言って、にこりと笑った。
ブルーベリージャムをさらに塗り重ねたパンにかじりついて、俺は正面でコーヒーカップを傾ける夏基を見た。
長袖のTシャツの上から羽織ったパーカー。スウェット地のぴたっとしたルームパンツ。しましまのそれは、いつもクールな夏基をやたらかわいく見せていた。
昨日から、俺は、夏基の家にお泊りだった。
両親が2人で温泉旅行に行くことになった。金曜から日曜にかけて2泊の予定だが、中学生の俺を一人残していくことは、多少心配だったらしい。けれど俺と夏基の家は隣同士で、親同士も冗談みたいに仲がいい。だから、夏基の母親の「うちに来ればいいんじゃない?」の一言で、何の憂いもなく両親は昨日の昼、楽しそうに出発して行ったらしい。
学校から帰って来た俺が、一人の家から、制服を着替えた足で夏基の家に行った。まあ、これはいつものことだ。昔から、ボーダーラインなんてどこにもない生活を送っていたので、俺は当然のように歓迎された。
夏基の部屋に入ると、夏基は丁度制服を着替えているところだった。シャツを脱いだら、肩口に俺のつけた歯形があった。だいぶ痕は薄くなっているが、一部はかさぶたになっていた。
夏基の部屋には来客用の布団が運ばれており、どうやら俺はここで眠ることになるらしいと分かった。
「勉強道具、持ってきたか」
俺はうなずいて、手に提げていた鞄からノートや筆記世具を見せた。夏基はうなずき、部屋着に着替えた。襟ぐりの狭いTシャツをかぶったら、歯形は完全に見えなくなった。
それから、俺たちは勉強したり、テレビを見たりしながら夕飯までの時間を過ごした。おばさんが俺たちを呼び、食卓についたら、俺の前には大きなハンバーグが乗ったカレーが置かれていた。夏基の前にはごく普通のカレー。おばさんを見たら、にこにこしながら、いっぱい食べてねー、と言われた。
夏基は小さくいただきます、と言って、カレーを食べた。俺もそれに倣い、スプーンを差し込んだ。おばさんのカレーはおいしい。子供の頃は甘口だったそれは、今や辛口に近い中辛。俺は水を飲み、額に汗をかきながら2杯もおかわりしてそれを食べた。
俺が食べるのを、おばさんは楽しそうに見ていた。正面の夏基も、少し呆れたような顔をしながら、けれどふっと笑っていた。その笑顔が嬉しかった。
お風呂を上がって夏基の部屋に入ると、夏基はベッドに腰掛けてテレビのチャンネルをザッピングしていた。俺を見て、その電源を切った。
「陽佳」
右手を伸ばされた。だから、俺はその手を取って、夏基の前に立った。
「なっちゃんのうちに泊まるの、久しぶりだね」
「そうだな」
小学生くらいまでは、長い休みのときに、時々泊まりっこをしていた。大抵は夜まで遊んで、そのままどちらかの家で撃沈した俺たちを、父親が並べて敷かれた布団まで運んでくれた、というのが正しいが。
隣同士だと逆に、わざわざ泊まり合ったりすることはないのだろう。だって、玄関を出て数歩歩けばすぐにうちだ。面倒なときは窓から出入りしてしまえば、ほんの1歩。もちろん、落ちたら危ないから、とお互いの親に禁止されているのだが、俺たちはみつからないように窓からの出入りを時々続けている。
1階から音がして、夏基の父親が帰って来たのだと分かった。俺は挨拶をしようと部屋を出ようとした。けれど夏基とつないだ手が、離れない。
「なっちゃん?」
「いいから」
「だって、ちゃんとおかえりって言ってあげようよ」
夏基は溜め息をついて、手を離した。渋々という感じで俺のあとから階段を下りた。リビングで、叔父さんが俺を見ていらっしゃい、と言った。夏基によく似たシャープな顔が、優しく微笑む。
「おかえりなさい」
俺が言うと、夏基も同じようにつぶやく。おじさんは機嫌よさそうに笑っていた。夏基に袖を引かれて、部屋に戻ることにした。2人におやすみなさい、と言って、俺は先に部屋に戻る夏基に慌てて追いついた。
部屋のドアを閉めると、夏基が俺に抱きついてきた。
「親より、俺を、構え」
こんな風に甘えてくる夏基は、俺よりも子供みたいだ。俺は嬉しくなって夏基の身体を抱き締める。
「陽佳」
俺に抱きついたまま顔を上げると、夏基は意味ありげな笑みを浮かべた。
「縛って」
俺の背中に回っていた腕を解いて、こちらに持ち上げた。
「きつく」
俺はひるんだ。今、そんなことをする勇気はなかった。だって、1階では、夏基の両親が、仲良くお喋りしながらカレーを食べている。
「噛んで」
「なっちゃん──」
「ここ、もっと」
さっき覗いた、肩の歯形。夏基はそこを指差す。
まるで迫るようにじりじりと俺を追い詰める夏基が、熱っぽい目をして俺を見ている。
絶対、無理。
きっと、おじさんもおばさんも、まだ眠らないはずだ。2人の寝室は1階だ。せめて2人が寝静まるまでは、夏基の望むその行為を受け入れるわけにはいかなかった。
声を押し殺し、物音を立てないようにしたとしても、あまりにも危険すぎる。背徳感しかないこの行為を、あの穏やかに笑う2人の頭の上でしろというのか?
例え何とか見つからずに夏基を満足させることができたとして──俺はどうしたらいい?
いつもは夏基の身体をきれいにして、手当てをして、そのあとでこっそりと、一人でトイレなり風呂場なりに駆け込んで、俺はそれを処理する。
夏基の家で、夏基の両親が起きているこの家で、俺にそれをしろと?
目の前で夏基がねだるように俺を誘う。
ぐるぐると考えた。
「なっちゃん」
目の前に迫っていた夏基の方をつかんで、俺はその身体を思いきり引き離した。夏基がぽかんとした顔をして俺を見た。
「今は、駄目。絶対、駄目」
「──陽佳」
みるみるうちに不機嫌さを滲ませ、夏基が俺をにらむ。
「せっかく、朝まで一緒なのに」
「だから、だよ。朝まで一緒なら──」
「今がいい」
「なっちゃん……」
時々、どうしようもなくわがままな物言いをする夏基が、眉間にしわを寄せている。
「だって、おじさんもおばさんもいるんだし──2人が眠ってからならいくらでも」
「待てない」
Tシャツの上から肩口を撫でて、夏基がつぶやく。
「お前に触ってほしい」
俺はくらくらとめまいを起こしそうになった。
そんなの、ずるい。
俺だって、夏基に触れたい。抱き締めたい。
寂しそうな顔をした夏基が、俺を見上げた。
耐えろ、と思う。
頑張れ、俺の自制心。
痛みを望む夏基に、欲情してはいけない。
「なっちゃん」
俺は搾り出すようにして声を出した。まだ肩をつかんで自分から引き離したままのその手を、引き寄せないように必死で我慢した。
「今は、本当に、無理。──それに、俺、今なっちゃんに触ったら……きっと、なっちゃんが望まないこと、しちゃいそうだし」
一人で処理できる場所を確保できないなら、この部屋でするしかない。まさか夏基の前でそんなことをするわけにはいかない。第一、そんな状況になったら、俺は確実に、一線を越える。夏基の身体を押し倒し、無理矢理にでも襲ってしまう。
それだけは避けたかった。
夏基が望まないことを、したくはない。絶対に。
夏基は、なんだか呆然と俺を見ていた。ぽかんと口を開け、まるで信じられないものを見るような顔をしていた。
ああ、俺、夏基に呆れられた?
もしかして、軽蔑された?
そう思った。
そして、次の瞬間、夏基の表情に怒りが浮かんだ。
「お前──」
「ごめん、なっちゃん。だから無理です!」
夏基に怒鳴られる前に、俺は頭を下げた。
「もういい」
夏基は肩に乗った俺の手を振り払った。そのままベッドにもぐりこみ、俺に背を向けた。
「な、なっちゃん?」
返事はない。完全に怒らせてしまった。
俺はしょぼんと肩を落とし、用意されていた布団を敷いて、部屋の電気を消した。
「なっちゃん、ごめんね」
その背中に声をかけて、俺は布団にもぐりこむ。夏基がこちらを見てくれない。
俺の不用意な発言を怒っているのだと思ったら、悲しくなった。
ごめんね、なっちゃん。ごめんなさい。
夏基をどうにかしたいなんて考える俺が悪いのです。
俺は身体を縮めるように丸くなり、布団を身体に巻きつけた。
部屋は静まりかえっていて、夏基の呼吸する音さえ聞こえない。時々、1階からおじさんとおばさんが楽しそうに笑う声が聞こえてきた。
夏基の望みをかなえたいと思うのに、俺の自制心も、精神力も足りないせいで、夏基を怒らせてしまった。
俺は、まだまだ夏基にふさわしくないのかな、と落ち込んだ。
布団の中でそんなことを考えていたら、いつの間にか、俺は眠りに落ちていった。
夢を見た。
夏基が俺の頭を撫でていた。
小さい頃は、まだ小柄だった俺の頭を、夏基はよく撫でていた。俺の少しクセのある髪をかき混ぜるように、指を絡ませながら、何度も撫でる。
俺はその手が大好きだった。
なっちゃん、と呼ぶと、夏基が笑う。
なっちゃん、大好き。
俺が言うと、子供の夏基も、答えてくれた。
「俺も好きだよ、陽佳」
柔らかくその手が俺の頭を撫でる。
「俺の方がずっと、お前のことを好きなんだ」
違うよ、と俺は思う。
俺の方が、夏基のことを大好きだよ。
けれど、髪を撫でる夏基の手の気持ちよさに、俺はうとうとと、口を開けない。
今は夏基より大きくなってしまった俺の頭を、夏基が撫でてくれることは少なくなってしまった。それを寂しいな、と思う。
夏基の手が好きだ。夏基が俺を呼ぶ声が好きだ。
ねえ、夏基、俺にも触れて。
夏基はまだゆっくりと、俺の頭を撫でている。
──気持ちいい。
ふわふわと身体が宙に浮いているみたいに、俺の意識も途切れ途切れに夏基の声を拾う。
「俺はね、陽佳」
夏基が優しくささやく。
「お前の望むことだって、ちゃんと受け入れてやりたい」
俺の耳に届くのは、いつの間にか今の夏基の声だった。小さい頃の夏基ではなく、高校生の、夏基の。
「お前がそれを口にするのを、待ってるんだ」
駄目だよ、と思った。
それは、駄目だよ、なっちゃん。
俺の望みは、夏基を汚す。
「俺のことばかり、大事にしないでくれ」
だって、俺は、夏基が大好きだから。
夏基が大事だから。
「俺だって、お前が大事だよ」
額に、柔らかく、何かが触れた。
俺はゆらり、ゆらりと夢の中を漂う。
夏基、俺はね──
再び、闇の中に落ちていくかのように、意識が途切れていく。
俺は、いつか、夏基を抱いてしまうよ。
俺の、俺だけの欲求のために。俺の欲望を吐き出すために。
それを、夏基は望むの?
答えは、出るはずがなかった。
夏基の声はもう聞こえない・
俺は暗い世界に落ちていく。そして、そのあとは、夢も見ないで、ひたすら眠った。
デザートのリンゴをかじっていたら、おばさんが折り込みチラシをつかんであっと声を上げた。
「どうしたの?」
俺が訊ねると、おばさんはそのチラシを持ち上げて、
「夏基、あきちゃん、留守番をお願い」
「──いいけど、何?」
「月に一度の大特売よ! あきちゃんのために、おいしい食材、いっぱい買ってくるわ!」
「…………」
夏基が呆れたような目でおばさんを見ていた。俺はそのバイタリティに苦笑しながら、
「うん、頑張って」
「あきちゃん、今日はお鍋よ! お肉いっぱい!」
「楽しみにしてるね」
おばさんは俺の頭を撫でて買い物に行く支度を始めた。手にしたチラシは3枚。ここから近いスーパーのものもあれば、少し離れた大型スーパーのものもあった。これは、しばらく帰ってきそうにないな、と思った。
「あきちゃんの勉強ちゃんとみてあげなさいね、夏基」
「分かってる」
夏基は短く答え、リンゴをかじりながら使った食器を流しに運んだ。俺も慌てて同じように食器を運ぶ。
「じゃ、行ってくるわ」
おばさんは家を飛び出していった。夏基とは本当に親子なんだろうか、といつも思う元気のよさだ。
「なっちゃん」
俺は部屋に戻ろうとする夏基の手を取り、その背中に声をかけた。
「昨日は──」
「天気」
俺の言葉を遮るように、夏基が言った。
「天気、いいな」
確かに、リビングに降り注ぐ太陽の光は、小春日和という言葉がぴったりだ。まだ午前中なのに、その日差しはもう、暖かさを含んでいた。
「きっと、楽しい旅行になってる」
俺の両親の温泉旅行の話だと気付いた。
俺の話を聞いてくれないのか、と思って、悲しくなった。
「うん、そう、だね」
俺はそう答えて、つかんでいた夏基の手をそっと離した。
「──離すなよ」
夏基が、履き捨てるように言った。
「なっちゃん」
「離すな。そう簡単に」
俺は急にぐっと涙がこみ上げてきそうになった。急いで夏基の手を取り、しっかりと握った。
「離さない」
夏基は振り返り、俺を見上げた。
「陽佳」
「何、なっちゃん」
「お前は、馬鹿だ」
「──うん、ごめんね、なっちゃん」
「馬鹿。簡単に、離すな。簡単に、謝るな。簡単に──」
夏基がぽすんと俺の胸に身体を倒した。
「簡単に、諦めるな」
窓から差し込む光が、夏基のツヤのある黒髪に光をあふれさせる。
俺はそっと、その髪を撫でた。さらさらの手触りは、指先にするりと気持ちが良かった。
俺は夏基を抱き締める。
昨日見た夢が、現実だったらいいのに。
そうしたら、俺はきっと、一生夏基を離さないだろう。
「なっちゃん、大好きだよ」
俺はすっぽりと俺の腕に包まれた夏基の耳元にささやく。
夏基は俺の背中に手を回し、俺の胸に顔をこすりつけるようにして、言った。
「俺の方がずっと、お前のことを好きなんだ」
その言葉は、昨日の夢と同じで、俺は夏基を抱き締めたまま、これが夢なら覚めないでほしい、と考えていた。
了
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