07 痛くない
絆創膏や、粘着包帯だらけの指を見て、友人が時々、不思議そうな目をする。
「よく怪我するよなあ」
呆れるようにそう言って、笑う。
「お前って、案外ドジなの?」
指だけじゃない。身体中。
夏でも長袖のシャツを着て、体育の授業の時には注意を払ってジャージに着替える。それが今年に入ってから俺が徹底していること。
季節は夏を過ぎ、秋になり、シャツのみだった制服がブレザー着用になった。しばらくは傷口から滲む血の心配をせずに済む。
俺はただ黙って笑うだけだ。余計なことは一切口にせず、否定も肯定もしない。
小指の傷は、先週、陽佳(あきよし)が噛み切った痕だった。。
身震いするくらいの快感とともに、その痛みが俺の身体を駆け抜ける。
もっとほしい。
けれどけして、誰にもばれないように。
陽佳は自分がつけたその傷を舐め、心痛の表情とともにその血を飲み込む。
丁寧に手当てされたその傷は、俺と陽佳だけの秘密になり、今日も1枚の絆創膏で、ガーゼで、覆い隠される。
知られるわけにはいかなかった。
俺たちは抱きあって、キスをして、その秘密を共有する。
陽佳の成績は、思ったより悪くなかった。
返ってきたテストの点数と、学年順位を見て、俺は拍子抜けした。
「なんだ」
俺がつぶやくと、陽佳はさっきまで緊張するように強ばらせていた顔をほっと緩めた。
「これなら、心配することはないな」
「本当?」
「ああ。──ただ、理系はちょっと弱いか。こっち中心にやっていこう」
少し散らかった陽佳の部屋。漫画本や雑誌を押しのけて折りたたみ式のテーブルを広げた俺は、下の台所から運んできたコーヒーカップとペットボトルを差し出した陽佳からそれを受け取った。俺にはコーヒー。自分のためのスポーツドリンク。
火曜日と木曜日は近所の小学生の家庭教師をしている。それ以外の、空いている時間で、俺と同じ高校に入りたいという陽佳の勉強をみてやる約束をした。こうして成績表を見るまでは、最悪な状況を想定していた。
そりゃそうだろう。この図体だけはでかくて見た目は大人びた幼馴染みは、人当たりと人のよさだけはいいが、どこか頼りなく抜けている。まともに授業についていけているのか不安になるくらい、ぽやぽやとした性格だ。
しかし、驚くほど正解率の高い解答用紙を見ていたら、要らぬ心配だったようだ。
「お前がこんなに頭いいなんて、知らなかったな」
「だって、なっちゃんの高校、めちゃくちゃレベル高いもん」
俺が通うのは県内でも1、2を争う進学校である。元々成績優秀な俺が、比較的家から近く通いやすいその高校を志望したのは自然の成り行きだ。まさか2年後、陽佳が俺を追いかけてくることになるとは思わなかった。
まあ、実は多少の予感はあった。けれど、俺が陽佳に対する気持ちを隠し続けていくつもりだったことで、そんな期待は捨て去った。少しずつ距離を置くつもりでいた俺は、こうしてずるずると陽佳の傍から離れられなくなって、結局俺の気持ちも性癖もばれて、俺たちの関係はさらに深くなってしまったのだが、結果的にはそれが幸いしたのかもしれない。
元々、あまり勉強が好きではなかったはずの陽佳が、いつの間にか成績を伸ばしている。
理由を聞こうとして、やめた。陽佳の答えは想像できた。
なっちゃんと同じ高校に行くためだよ。
いつもの、まるで太陽みたいなとびきりの笑顔で、きっとそう答えるはずだからだ。
俺のことが大好きで、大好きで、仕方がないこの2つ年下の幼馴染みを、俺は溺愛している。
ペットボトルから直接口をつけてスポーツドリンクを飲んでいた陽佳が、じっと自分を見つめている俺に気付いて、首を傾げた。
少し伸びたクセのある髪は、野暮ったく見える一方で、実年齢よりも大人っぽく見える効果も併せ持っていた。夏の暑い時期は、俺が面白がってヘアゴムでまとめ上げてみたりした。どことなく、時代物の漫画の登場人物のような、美形浪人ぽくなってしまい、不覚にも萌えた。
前髪と、サイドだけを小さくまとめた髪形がらくだと気付いたのか、勉強するときや運動するときは、たまにその髪形をしている。今も、陽佳は手早く髪の毛を括った。顔周りはすっきりとしているのに、襟足にかかる後ろ髪がクセで跳ねていていて、そのかわいさに顔が緩みそうになる。
「なっちゃん?」
頼むから、これ以上俺をお前の虜にさせないでくれ、と思う。
まだ中学生のガキ相手に、俺は一体、何を考えているんだよ。
そして、そのガキにあんなことをねだる俺は、もはや救いようのない罰当たりな人間かもしれない。
俺より大人びたその顔に、どきりとさせられる。俺を抱き締めるとき、俺にキスするとき、俺を見つめる目はもう子供のそれではなく、ただの男に見えた。
「なっちゃーん、数学が、難しすぎるよー」
シャープペン片手に嘆く陽佳は、今はただの中学生そのものだけれど。
俺は仕方なく、陽佳がつまずいているその問題の解き方を教えてやった。向かい合って座っている俺たちが挟んだテーブルは、参考書とノートを広げたらいっぱいになってしまうくらいの小さなものだった。こうして向かい合っていても、お互いの頭がぶつかりそうだ。
とりあえず、この前2人で本屋で選んできた問題集のページを指定して、解かせてみることにした。うんうんうなりながら考えている陽佳の眉間にしわが寄っている。
きりっと上を向いた眉。案外長い睫毛。鼻は少し大きめで、口元はいつも口角が上がり、笑っているようにも見える。全体的にワイルドな作りなのに、なぜか一本、気が抜けているかのように柔らかい印象を与える。額に落ちた前髪が一筋、ゆるくカーブを描いていた。
陽佳が首をひねるたび、うーむ、とうなるたび、その前髪がゆらゆら揺れた。
俺は自分の左手の指を見た。
陽佳のつけた傷を隠した絆創膏。
俺が望み、ねだった、傷。
陽佳はいつも、俺だけを満足させてくれる。
けして自分の願いを口にしない。自分の欲望を、俺にぶつけない。
お前って、本当は、ものすごい自制心の塊なのか?
目の前で頭を抱え込みそうになっている陽佳は、俺の視線に気付かず、問題集に目線を落としたままだ。
ほんの数十センチ先にある陽佳の顔を、黙って見つめていた。問題を解くのに必死になっている陽佳が気付かないのをいいことに、思う存分、嘗め回すように。
俺より高い身長。俺より厚い胸板。俺より張り詰めた筋肉。俺より大きな手。
あの手が俺を触るのだ。
髪に触れ、頬に触れ、首に触れ、肩に触れる。
俺の身体についた傷をなぞり、爪を立て、その傷口を開く。滲んだ血を肌に塗りつけ、舌を這わせる。
強く噛み付かれて、ぞくりと震える。
粟立つ肌を撫でられて、ますます昂ぶる。
あふれた血を指先ですくい取り、俺の口に運ぶ。
背中に回されたその手がゆっくりと背筋を辿る。
きつく抱き締めて、と願う。息ができなくなるくらい、きつく。
陽佳は、いつも、俺に快感をくれる。痛みとともに、血とともに、俺を絶頂へと導いてくれる。
けれど、性器には触れはしない。触れずして達してしまう俺が異常なのかもしれないが、陽佳自身も、俺に触れて欲しいとは言わない。
俺たちのしていることは、結局何なのだろう。
俺はいつも考える。
セックスとは違う、それでも一種の性行為だと思っていた。
けれど、陽佳は、俺の前で射精したことは一度もないのだ。
「できた」
いきなり顔を上げた陽佳と、まともに視線がぶつかった。俺は頬が熱くなっていくのを感じて、慌てて問題集を奪い取った。それを確認するためにわざと深くうつむいた。
「なっちゃん」
俺の耳元に近付いて、陽佳が言った。
「正解してたら、ご褒美ちょうだい」
ちらりと目だけで見上げると、陽佳がにこりと笑っていた。邪気のないその笑顔が、あまりにも邪でただれた考えをしていた俺を責めているように感じた。もちろん、陽佳はそんなことをこれっぽっちも疑っていないに違いないが。
俺は問題集に目を落として、
「何が欲しい」
と訊ねた。
1ページにこれでもかと並んだ因数分解。ひとつずつ答えをチェックしていく。
「全問正解なら、なっちゃんのこと、抱き締めたい」
「──そんなの」
いつも、してるじゃないか、と言おうとして、やめた。
陽佳が俺を抱き締めるのは、いつも、俺の望む痛みをいわれるままに与えた後にばかりだ。手当てをしたそのあとで、まるで俺を傷つけたことを後悔するかのように、優しく抱き締めてくる。
俺が望んだ傷を、自分のせいで負わせてしまったみたいに苦しみながら。
強く抱き締められながら、いつも、なっちゃんごめん、ごめん、ごめん、と言われているような気がする。
痛くしてごめん。
傷つけてごめん。
ごめん、ごめん、ごめん、ごめん。
何度も何度も、繰り返す。
だから俺は、俺の身体を包み込むようなその大きな身体を抱き締め返してやる。
お前のせいじゃない。
俺のせいだ。
俺が、お前に望んだんだ。
手当てされたばかりの傷口はずきずきと傷んで、俺はその傷みによって、陽佳が心に負ったのであろう傷の痛さを思い知る。
けれど、俺は、もう、戻れない。
それをお前に望んでしまった。
そして、お前がそれを、受け入れた。
「──分かった」
問題は全部で30問。10問目までは、ミスなく正解していた。
陽佳が笑う。
赤いボールペンを持つ手が震えていた。
15問。
なぜか急に、泣きたくなった。
20問。
ボールペンが陽佳の下手くそな文字の上に丸を作っていく。
25問。
ぽたり、と問題集に涙が落ちた。
「────」
陽佳は、多分、それに気付いたのだろう。けれど何も言わなかった。黙って俺が問題集に丸をつけるのを見ていた。
28問。
俺が望むのは、陽佳からの痛みばかりだった。
お前の手が俺の傷をえぐってくれればいい。そして、その傷口から流れる血を舐め、俺に与えてくれればいい。
陽佳、俺に、痛みをちょうだい。
陽佳はいつも、少し困ったように、戸惑ったように笑って、俺に手を伸ばす。
本当は、大事にしたいんだ、と俺に触れる指先がそれを継げている。
けれど、その手は俺の肌に爪を立て、傷口を開く。
ぽたぽたと涙が落ちた。
29問目も、丸だった。
「陽佳」
「何、なっちゃん」
俺は顔を上げ、ボールペンを落とした。
俺の顔は多分、ぼろぼろだっただろう。陽佳が俺に近付き、その腕を引いた。大きな胸に俺の身体が倒れこみ、そのまま抱き締められた。長い腕が俺の背中に回り、ぎゅっと力を入れられる。けれど、そこに痛みは少しも感じない。
優しく、まるで壊れ物を扱うかのように、包み込まれている。
陽佳の心臓の音が聞こえた。
それは、俺の鼓動と同じスピードで鳴っていた。
「なっちゃん」
陽佳の声が聞こえた。
「大好きだよ」
知っている。
お前はいつも、まるで当たり前のようにそれを言う。挨拶みたいに、決まり文句みたいに、いつも。
俺は両腕を陽佳の背中に回した。その広い背中に触れたら、我慢できなくて、必死でしがみつくようにして、泣いた。
お前が、好きだ。
そう言いたいのに、口からこぼれるのは嗚咽ばかりだった。
まるで、ごめん、ごめんと連呼しながら、苦しそうに俺を抱き締めるいつもの陽佳はいない。ここにいるのは、俺を優しく、大事に、包み込むように抱き締めてくれる陽佳だった。
痛くない。
何ひとつ。
けれど、俺はなぜか、このまま陽佳の腕の中にいたい、と思っていた。
痛くない。
小指の絆創膏は、俺たちの秘密。誰にもいえないそれを抱えて、俺たちは生きている。
「なっちゃん、大好き」
明日は、新しい傷を、友人たちに目ざとく見つけられることはない。
陽佳はずっと、こんな風に俺を抱き締めたかったんだな、と思った。
優しく、強く。
陽佳の腕の中で、俺はゆっくりと深呼吸した。陽佳のにおいを吸い込んだら、急に、今度は幸せすぎて泣きたくなった。
俺は陽佳にすがりつきながら、30問目の計算ミスは、永遠に黙っていることにしたのだった。
了
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