06 すべて~different~
俺の席は窓際の一番後ろ。
背だけは馬鹿みたいに伸びて、周りの同級生に見上げられるくらいにでかくなった俺の定位置だ。
2つ年上の大好きな幼馴染みの背が止まったのは中学生だった。3年生になった夏基(なつき)の背を追い越したのはその年の夏。夏基が卒業する頃には5センチほどの差になった。
そして、あの頃の夏基と同じ年になった俺は、まだ背が伸びている。
背が高いとモテるというのは本当だ。175センチを超えた頃から、俺はとにかく女の子にモテ始めた。同級生や下級生、先輩に至るまで、全学年の女子生徒からの告白をコンプリート。外を歩いていれば、高校生に声をかけられる。挙句の果てには、大人の女性にまで誘われる始末だ。
そのたびに、まるで逃げるようにしてその場を去る俺が、友人たちにあとできつく灸を据えられる。と、言っても、結局は、半分はひがみだと豪語しつつ、ぺちぺちと順番に俺の頭を叩いていく友人たちはみんな、根はいいやつなんだなぁと思う。
いつだって、俺が一番大事なのは夏基で、そんな告白や誘いにはちっとも心が動かない。それをよく分かっている友人たちは、いつも呆れたような顔をした。
「本当にお前って、なっちゃん先輩のこと、好きだよなぁ」
俺はうなずく。
好き、では足りない。
大好きなのだ。
中学に入学してから、しつこく夏基にまとわりつき、なっちゃんなっちゃんと連呼していたら、俺の周りの人間までもが夏基を「なっちゃん先輩」と呼び始めた。
なっちゃん、と呼ぶのは俺だけだったのに、少し、面白くなかった。
それに気付いているのか、いないのか、友人たちははやし立てるようにそう呼び続けた。
夏基のさらさらのストレートの黒髪が、風に揺れる。
涼しげな目元と、すっと通った鼻筋、薄い唇。多分、骨格が細いのだろう。運動部できちんと筋肉をつけていたはずなのに、その身体はとても華奢に見えた。
長く細い指、血管の浮いた手の甲と腕。
柔らかさのないその身体を抱き締めると、夏基はいつも、少しだけ、身震いした。
俺の声。
夏基を呼ぶ。
なっちゃん。
耳元でささやくと、夏基の身体が反応する。
いつも少しぞんざいに話す夏基が、まるで甘えるような声を出す。
──触って。
その声に、俺も反応する。それを隠して、俺は夏基の声だけに集中する。
──痛みを、ちょうだい。
ねだるように、俺に擦り寄る。
するりと着ていたシャツを脱ぎ捨てて、その白い腕を俺に向ける。
傷だらけのその身体は、何度手当てしても、またその数を増やす。太腿に、わき腹に、背中に。
俺はいつも困ってしまう。大事な夏基を傷つけるのは本意ではない。この無数の傷痕も、一生残ってしまったら、どうしたらいいのだろう、といつも考える。
痛みを生むのは何も傷だけではない。
俺は目の前に伸ばされたその腕を、つかんだ。
夏基が脱いだ制服の、ネクタイ。床に落ちていたそれで、夏基の手首を縛る。
まずは右手だけ。少しずつ力を入れてその結び目をきつくする。うっ血しないぎりぎりのところまで。
指先がしびれる、と夏基が言った。
それは痛くないの?
俺が訊ねると、少し笑って、言った。
──痛くないけど、なんだかすごく、身体がうずく。
楽しそうに笑う夏基に、俺はさらに左手も同じようにネクタイを絡めた。
──このあとは?
夏基が訊ねる。
何も考えてはいなかった。だから、必死で夏基が喜びそうなことを考えた。
俺が与える痛み。
夏基が欲するもの。
俺は、結んだその手首をつかんで押しやり、夏基の身体を壁に押し付けた。
──陽佳(あきよし)?
期待に満ちた目をして俺を見た夏基に、俺は──
教室のスピーカーからチャイムが鳴り響いた。俺ははっとしてどこを見るでもなく窓の外に向けていた視線を、前に戻した。学級委員が起立、と号令をかけた。慌てて立ち上がり、続く、礼、という掛け声に倣った。
そして、俺はすぐさま椅子に腰を下ろした。
やばい、と思った。
張り詰めた下半身は、もう、隠しようがなかった。学ランの裾を軽く引っ張って、なるべく目立たないように身体を傾ける。
──なっちゃんの、せいだ。
俺は机に頭をごつんとぶつけ、そのまま起き上がらなかった。
夏基が年上であることを思い知らされることはたくさんある。
所詮2つも年下の、ただの中学生である俺が、夏基と肩を並べることはできないのだ。
どうせ俺は、子どもだから。
夏基をいつもいつも喜ばせることなんて、できないんだ、と思った。
どうしたらいい?
あの日、俺が、夏基の世界に押しかけた。
半端な気持ちだったわけじゃないことを証明したかったからだ。
俺は、どうしたらいい?
夏基の答えは簡潔だった。
触って、名前を呼んで。痛くして。もっと、沢山。
俺はいつも、戸惑い、焦りを隠してその期待に応えようとしている。
夏基に認められたいと願う一心で。
夏基を壁に押し付けたまま、俺は固まった。
10センチ以上下から、夏基が俺を見上げるようにして顎を上げていた。くっきりとした黒目が潤む切れ長の目元が、少しずつ上気していく。ぼうっと赤くなり、色気を増す。
そらした白い喉に血管が浮いていて、その首に突き出た喉仏が時々動いた。
こうしてみると、夏基と俺の体格差はかなりのものだった。手のひらひとつ取ったって、夏基の両手首を、俺は片手で簡単に押さえつけることが出来た。
壁の上部、いつもは制服をかけておくためのフックが、壁面の飾り板の部分から突き出していた。とりあえず、俺はそこに夏基の手首を縛ったネクタイを引っ掛けた。両腕を頭のてっぺんで括られた夏基が、俺の行動を黙って見つめている。
俺は夏基の頬を撫で、そのまま手のひらをゆっくりと下ろしていく。首筋を指でなぞると、くすぐったそうに少し、笑った。俺はそこで手を止め、指を首の後方へ、親指を喉仏に当てた。
人差し指で頚動脈をゆるゆると撫でると、夏基が少しだけ震えた。
2年くらい前、二人並んで、夏基が友達から借りたというバーリトゥードのDVDを観たことがあった。床に座って、2人並んで、刺青だらけの外国人選手が闘うのを、黙って見ていた。俺は格闘技にはあまり興味がない。けれど、夏基が観るというのなら、付き合うことにした。
ルールも分からないこの格闘技は、あとで知ったところ、なんでもあり、なのだという。名前もポルトガル語でそのまんま「なんでもあり」という意味の「バーリトゥード」。そんなことも知らずに、夏基と一緒にいられるというだけで観ていたものだった。
なんでもありだが、最低限のルールはある。急所攻撃や噛み付き、目潰しなどは禁止。さすがにスポーツの粋を超えての攻撃は、卑怯とみなされるのかもしれない。
たいして興味があるように見えない、隣でぼーっとテレビ画面を見つめている夏基に、俺は訊ねた。
──なっちゃん、これおもしろい?
──そう、だな……。
夏基は、イエスなのかノーなのか分からない返事をして、再び黙ってテレビを見つめ続けた。
結局、最後までそれを観た夏基に、俺は付き合った。時々意識が飛びそうなほど眠くなったが、一生懸命耐えた。
あの時、もっとよく観ておけばよかったかもしれない、と今さら思った。
格闘技の技なら、傷をつけるよりもっと簡単に、安全に、夏基に痛みを与えられるではないか。
まあ、それを夏基が望むのかどうかは分からないが。
俺は夏基の喉仏を少しだけ力を入れて、押し込んだ。
ぐ、と喉から声が漏れた。
ここは、急所でもある。
人間の身体にはいくつか急所があるが、喉仏と股間は、男にだけ存在するものだ。確かにその2つは、少しぶつけるだけでも、悶絶するくらい痛い。
親指の力を緩めて、少しだけその位置をずらした。
「なっちゃん、我慢できなかったら、蹴ってね」
俺は両手で喉を覆って、ゆっくりと力を入れる。もちろん本気で締めるつもりはなかったから、頚動脈をまともにつぶさないように注意した。
夏基の顔が歪む。狭くなった気道から、望むだけの酸素を確保できないでいる。ひゅう、と空気の漏れるような音が下。喉がひくひくと痙攣するように震えた。
俺は頭の中で数を数えていた。
いち、に、さん、よん、ご──
赤く染まった夏基の顔が、その色を落としていく。白く、青く。
じゅう、じゅういち、じゅうに──
部屋に響く時計の秒針に合わせて数えていたはずの数は、いつの間にか倍以上のスピードでカウントされていた。
夏基が、俺を蹴らない。
俺はぱっと手を離した。一度大きく息を吸い込もうとした夏基が、むせた。
「なっちゃん」
俺は慌てて夏基の顔をつかんで、芽を覗き込んだ。──大丈夫。焦点はきちんと合い、俺を見返していた。
「なっちゃん、ごめん。どうして蹴らないの?」
「まだ、平気──」
そうつぶやいて、再びむせる。繰り返し咳き込む夏基を、俺はおろおろと見ていた。
「ごめんね、なっちゃん。こんなの、駄目だね。俺、どうやって痛くしていいか分からなくて」
「──いいんだ」
「なっちゃん……」
「お前がくれる痛みなら、何でも嬉しい」
ようやくまともに喋れるようになった夏基が、うなだれたような格好で俺を目だけで見上げた。
上半身裸のその肌が、赤く染まっている。細い肩、平たい胸、へこんだお腹。少しだけ浮き上がったあばら骨が、ゆるやかに肌に段を作っていた。
白い肌が、赤く。
俺はその場にしゃがみ込み、そのくぼみに手を当てて、優しく撫でた。多分、夏基はこんな手つきを望まないだろうけど。
「そ、れ」
夏基がつぶやく。
「もどかしい」
俺の手は、骨のくぼみを辿るように動き、次の段に移り、また、同じようにたどる。
「痛い方がいい?」
「痛い方がいい」
はぁ、と息を漏らして答えた夏基のじわりと涙の滲んだ目が、ぞくぞくするほど色っぽかった。
「でも、力入れたら、俺、なっちゃんの骨、折っちゃうかもしれない」
「いいよ」
いとも簡単にそう答えた。俺は急に悲しくなった。
「駄目だよ。なっちゃん」
「だから、俺は──」
「それでも、駄目だ」
きっと夏基は、さっきと同じように、俺から与えられる痛みなら嬉しいと言うつもりだったのだろう。
「ごめんね、俺、なっちゃんのこと喜ばせてあげられなくて」
「陽佳」
夏基が俺に向かって顎をしゃくった。来い、ということだと気付いて、俺は立ち上がり、目の前に立った。壁に手を当て、顔を近づけた。
「何、なっちゃん?」
夏基は、自分を見下ろす俺を見上げた。
「もっと近く」
俺は身体を屈めるようにして夏基にさらに近付いた。鼻先が触れる。
次にどうしたいのか、分かった。薄く開いた唇から、俺を誘うように赤い舌が覗いた。だから俺も、その舌を迎え入れる。
夏基の口の中は、熱い。キスの下手な俺を翻弄するように動く舌が、俺の歯をなぞる。薄目を開けて夏基を見たら、その目が俺を見ていた。
「噛んで」
小さくささやかれ、再び侵入してきた舌を、前歯で軽く噛んだ。夏基はまだ、俺の目を見ていた。これじゃ足りないのだと、分かっていた。
俺は繰り返しその舌に噛みつき、何度目かでようやく、口内に唾液以外の液体の存在を感じた。
結局、また夏基に傷をつけてしまった。
夏基はようやく目を閉じて、その味に酔うようにふわふわと揺らぐ。
俺も夏基も、ごくりと喉を鳴らしてそれを飲み込む。
俺の手は再び夏基の喉に伸びていて、喉が鳴るたびに上下に動く喉仏を指先でゆるやかに撫で続けていた。
俺が力を入れたら、きっと、簡単に壊れてしまう。
だから、優しく。
夏基はそれを、またもどかしいと笑うかもしれないけれど。
指の腹に、喉仏の上下する感触。なぜか、身悶えしたくなるほど興奮した。夏基の細い首は、今だけ、俺の支配下にあるような気がした。
力を入れたら。
それを、俺が行動に移すことはきっとないけれど。
その日、夏基は射精しなかった。けれど、落ち込む俺に、なんだか楽しそうに笑っていた。
ネクタイで縛った手首はすりむけて、真っ赤になっていた。指先の感覚はほとんどない、と言いながら、ごめん、ごめん、ごめん、と繰り返し謝りながらその手をつかんで揉み解す俺を見て、おかしそうに笑う。
「陽佳」
夏基の手をマッサージしていた俺に、目の前に座った夏基が呼びかける。
顔を上げると、少しだけ首を傾げるようにして、俺にキスをした。
唇が重なるだけの、短いキスだった。
俺は突然のことに、思いきり赤面した。夏基が行為のとき以外にキスしてくれたのは初めてだった。
血の味のしないキスは、夏基には物足りないはずだった。
「謝るな。──言ったろ、お前にされるなら、何でも嬉しいんだ」
「────」
夏基が再び唇を重ねた。
「俺には、お前がすべてなんだよ」
その言葉に、俺は、ますます顔を赤くして、何度もこくこくとうなずいた。そんな様子を見ていた夏基が、おかしそうにまた笑った。そして、言った。
「次はびびるなよ」
俺は、夏基の手を握り締めたまま、思わず、はい、と答えた。
休み時間が始まったのに、俺は自分の席から立てない。
早く治まれ、治まれ、と何度も唱え、頭の中で数学の公式を思い浮かべてみたりした。
けれど、油断すると夏基のあの色っぽい姿や、優しいキスを思い出してしまい、ちっとも冷静になれない。
友人たちが、何してんだよ、と集まってきた。
俺は身体を縮こませ、なんでもない、と答える。
「なんでもないから、どっか行ってよ」
猫背になった俺を、怪訝そうに見ていた友人が、その様子を面白がって、詮索し始めた。
──なっちゃんのせいだ。
俺は、とにかく頭を空っぽにすることに集中して、横でわいわいと、どうやら俺の状態に気付いてからかおうとする友人たちの言葉には耳を貸さないよう努力した。
夏基と一緒に観たバーリトゥード。
俺は格闘技のことは何一つ分からないけれど、いくつか技を勉強してみようかな、と思った。
さすがに格闘技ごっこでは、夏基だってあんな色っぽい顔をしたりはしないはずだ。
それとも──やっぱりするのかな。
俺は、関節技をかけられて気持ちよさそうにしている夏基を思い浮かべて、また、興奮してしまった。
ああ、もう、駄目だ。
俺はまだしばらく、椅子から立ち上がれなくなるのを覚悟し、友人たちが面白おかしくからかうその言葉を、おとなしく受け入れることにしたのだった。
了
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