05 この声
多分、俺の言うことなら何でも聞くんだろう、と分かっている。
俺が望むことならなんだってしてくれるはずだ、と。
だからこそ、俺はいつもその「お願い」を必死でセーブする。
まさか、身体中切り裂いて、内臓を抉り出してくれ、なんてことをさすがに強要するわけにはいかないし、殴ってくれと言ったら、俺よりずっといたそうな顔をして泣き出しかねない。
俺は、別に、陽佳(あきよし)を苦しめたいわけではないのだ。
まあ、ごめんねって言いながら泣いている顔は、結構好きだけどな。
目の前の椅子に座って、やたら分厚いハンバーガーをばくばくと食べている陽佳を見つめて、俺はマグカップに口をつけた。安っぽい紙コップではなく、陶器のカップ。
陽佳はパティが2つと分厚いトマトが挟まったハンバーガーとジンジャーエールを。俺はコーヒーを。フレンチフライのLサイズは2人でつまんでいる。
「うまいか?」
「うん」
ハンバーガーにかぶりついたままうなずく陽佳は、なんだかとても無邪気な子供に見えた。
「足りるか?」
陽佳はこくこくとうなずいたが、まだ余裕で2つ3つは食べることが出来そうだ。俺は席を立ち、
「テリヤキチキン?」
注文時、最後までどっちにしようかと悩んでいた、もう1つのハンバーガーの名前を挙げて訊ねた。陽佳はあんぐりと大きな口をあけてかぶりつこうとしていたのを止め、少し恥ずかしそうにうつむいて、うん、とうなずいた。
俺は苦笑しながらレジに向かった。注文を済ませ、ナンバーの書かれたスタンドを持って席に戻る途中、スーツを着た社会人らしい女が2人、1人で窓際の席に座ってハンバーガーを食べる陽佳を見てくすくす笑っていた。
「かわいー、ね」
「うん。あんなにおっきいのに、子供みたい」
「でもさあ、かなりかっこいいよね」
「本当。あんな子飼いたーい」
きゃっきゃとはしゃぐようにして、そんなことを話している。俺は不愉快な気分になって、急いで席に戻った。陽佳は俺に気付いて嬉しそうに笑った。
「なっちゃん」
「陽佳」
俺はすっと手を伸ばして、陽佳の口元を拭った。唇の横、茶色いミートソースがついていた。
──子供、か。
俺は指先で拭い取ったそれを、さっきの2人に見せ付けるかのように、自分の口元に運んでぺろりと舐めた。どこかのテーブルで、押し殺したような声にならない声が、きゃー、とかすかに聞こえた。
人のもん勝手に見てんじゃねーよ。
俺はぽかんとする陽佳ににやりと笑ってやる。
てめーらみたいなババアに、やるわけないだろ。
「な、なっちゃん」
陽佳が、嬉しいと恥ずかしいの同居した、微妙な表情で俺を見ていた。
「いいから、食いな」
陽佳はうう、と照れたように声を漏らして、おとなしくハンバーガーにかぶりついた。
──残念だけど、こいつはもう、俺が飼ってるんだよ。
ハンバーガーショップの店内にいる女性客が数人、色めき立っていた。
ボタンをあけた襟元からちらりと見える大きな胸も、スーツの短いスカートから覗く細い足も、役に立たない。
俺は満足してコーヒーカップを持ち上げ、目の前の陽佳を見つめた。
だってこいつは、俺のことが大好きなんだから。
注文していたハンバーガーが運ばれてきて、陽佳は嬉しそうにそれを受け取った。
「なっちゃん、ありがとう」
まあ、俺の方がずっと、お前を愛してるけどな。
それこそ、子供の頃からずっと。
こいつが生まれたあの日から、ずっと。
ハンバーガーショップを出た俺たちは、ぶらぶらと歩き出す。
その長身を活かして、陽佳はバスケ部だった。それもこの夏で引退。途端に放課後が暇になった。そんな陽佳が、駅で待ってるから一緒に帰ろう、という連絡をよこした。俺は分かったと返事をして友人たちの誘いを断り、電車に飛び乗った。
駅で、陽佳が待っていた。改札から出たら、俺を見つけて嬉しそうに駆け寄ってきて、なっちゃんおかえり、と言った。
ぶんぶんと尻尾を振られているような気分になって、なんだかとてもかわいかった。
中学の頃は徒歩10分の距離を2人で通学し、帰宅していた。だから、寄り道をする暇もなかった。俺が電車で5つほどの駅にある高校に通うようになって、時々友人たちと寄り道して帰ってくると、陽佳がすねたように開いた窓越しに遅かったね、と言う。
俺と陽佳の部屋の窓は向かい合っていて、がらりとそれを開けばお互いの部屋は丸見えだ。時にはその窓から行き来したりもする。
陽佳は駅で待ち合わせ、というのがよほど嬉しいらしく、いつまでもにこにこと笑いながら、何度もなっちゃんおかえりー、おかえりー、と繰り返す。
わざわざ10分近くかけて遠回りするように駅まで迎えに来てくれた陽佳に、俺はどこか寄っていくか、と声をかけた。ぱあっと顔を明るくした陽佳がうなずき、ハンバーガーショップに行くことになったのだ。
中学生の小遣いではちょっと高いこの店も、おごるよ、と言うと、少しすまなそうな顔をしつつ、喜んでついてきた。
来年は、こんな風に一緒に寄り道したりすることが増えるのだろうな、と思った。
まあ、陽佳が俺と同じ高校に受かれば、の話だが。
「ごめんね、なっちゃん。いっぱいごちそうになっちゃった」
「いや、いいよ。バイトもしてるし」
俺のバイトは正規のものではない。小学生の家庭教師である。近所に住む小学生が私立の中学を受けるので、勉強を見てほしい、と母親経由で頼まれた。週に2回、その小学生の家に行って2時間ほど勉強を教える。一般的な家庭教師の給料がどのくらいかは分からないが、俺のもらう金額は、陽佳にちょっと高いハンバーガーを2つ3つおごるくらいどうってことないくらい、割のいいバイトだ。
「うん」
陽佳はうなずいたが、どこか不満そうな顔をした。
「何だ?」
「……家庭教師」
「ん?」
「なっちゃんと一緒にいられるの、ずるい」
唇を尖らせて、その高い身長を縮めるように背中を丸めた。
「ばーか」
俺はそのおかげで近くなった頭を、ぺしんと叩いた。
「その家庭教師のおかげで、お前と買い食いできるんだろ」
「そうだけど」
「それに、週にたった4時間だ」
「……4時間も、だよ」
トータルで考えたら俺たち2人が一緒にいる時間に比べてほんのわずかだというのに、陽佳はそれが面白くないらしい。
まさか、小学生の男の子に嫉妬でもしているのか? と、笑い出しそうになった。
「俺が頼んだら、俺の家庭教師もしてくれる?」
「お前の?」
「お母さんに頼んで、なっちゃんを雇ってもらう」
「お前なぁ」
俺は陽佳の耳をぐいと引っ張った。痛たたた、と陽佳が情けない声を出す。
「そんなくだらないことのために、親に金を出させるな」
「じゃあ、俺が、雇う。お小遣い、全部出す」
「陽佳」
俺は呆れて溜め息をつく。
「それは全く、意味がない」
「どうして」
「俺が、お前と一緒にいたくて、ハンバーガーおごったの、分かってるか?」
陽佳はきょとんとしてしばらく俺を見たまま考えるように首を傾げていた。
「まっすぐ帰ってもいいのに、俺は、お前との時間を買ったんだよ」
「──なっちゃん」
ようやく理解したらしく、陽佳の顔がふにゃらとほころんだ。
「でも、なっちゃん。──ハンバーガーおごってもらわなくても、俺、なっちゃんと一緒にいるよ?」
「そうだな」
駅から家までは徒歩約15分。家に帰っても、きっと陽佳はすぐに俺の部屋にやってくるに違いなかった。だから、厳密に言えば、俺のやっていることも無意味なのだ。
けれど。
ハンバーガーショップで、陽佳を見て声を潜める女性客。185センチを超える長身。見た目だけなら中学生には見えないほど大人びて、鋭さはどこにも見当たらないけれど、整ったその顔に浮かぶ甘く、人懐っこそうな笑顔はやたら目を引いた。
見せびらかしたい、と思うのと同時に、こんなに見栄えのするいい男に育ってしまった陽佳を、誰にも見られたくないと思う気持ちも生まれる。
女性の視線を釘付けにするくらい、陽佳がかっこいいということを、再確認してしまった。
「陽佳」
「何?」
「まっすぐ、俺の部屋に来いよ」
「──うん」
陽佳が頬を赤くしてうなずいた。
誘われた理由は、どうやら分かったらしい。
──陽佳は、俺の言うことを何でも聞いてくれる。
うんと痛いのがいい。
そう思ったけれど、陽佳が俺にそうすることを、本当は望んでいないことは分かっていた。
俺を大好きだと公言する陽佳は、いつだって俺のことを一番に考えてくれる。
俺が望むことを。俺が喜ぶことを。だから、俺のお願いを断らない。
本当は、もっと傷つけて欲しい。ぱっくりと開いたその傷口からとめどなく血があふれても、そこに指先を差し入れて、むき出しの肉や、血管をわしづかんで欲しい。
どろどろとあふれる体液を残らず舐め取ってもらい、陽佳の身体中を侵したい。
けれど、そんな願いは絶対に口にしない。
陽佳が俺のことを一番大事だと豪語する限り、俺だって、同じように陽佳を大事にしたいと思っている。だから、陽佳が許容できる範囲ぎりぎりのお願いしか、しない。そう決めていた。
殴って欲しい、と思ったこともある。
あの大きな手で乱暴に。身体中青痣だらけになって、骨の1本も折られたらいい。
けれど、きっと、陽佳はそれも望まない。
俺が頼めば陽佳は嫌々でもそれをかなえてくれるだろう。けれど、陽佳の心はボロボロになってしまう。後悔と、自責の念で落ち込み、自分を許せなくなるに違いない。
さすがに、そんな思いをさせたくはなかった。
痛いのは好きだ。もちろん、陽佳がくれる痛みに限られるが。
陽佳以外の他の誰からも、俺はきっと受け付けない。ほんの小さな傷も、かすかな痛みも、不快なだけだ。
けれどその相手が陽佳なら、俺は自分でも恐くなるくらいにそれは快楽へと変わる。
縛って、殴って、傷をつけて、身体中ぐちゃぐちゃにかき回してもらいたい。
そう考えるだけで、身悶えしそうになる。
隣を歩く陽佳は、俺がこんな妄想をしていることなど知らないだろう。
死にたくはない。あの痛みに、快感に酔っていたいから。けれど、いつか、俺は陽佳に、殺してくれと口走ってしまうかもしれない。
思いつく限りの痛みを俺にちょうだい。
その苦痛と快楽の狭間で、俺はきっと、この上なく幸せな気分を味わえるような気がする。
けれど、そのあとに残るのはきっと、陽佳の絶望だけだ。
だから俺は、それを望まない。
俺の机の中には、まだ数え切れないほどのカッターナイフの替刃がしまいこまれたままだ。
自分に小さな傷を作っていた頃は、それが必需品だった。傷を作るたびに、刃を交換する。新しい刃がカッターナイフ本体からかちかちと音を立てて姿を現すのを、俺は少しの罪悪感とともに見つめていた。
傷をつけるときに思い出すのは陽佳のこと。
陽佳、と名前を呼んで、ぷつりと皮膚が切り裂かれ、そこから滲む血を見ると、急激に興奮した。俺が欲情するのはいつだって陽佳からの傷や痛みだ。
1人、その思いを閉じ込めていた頃は、そのカッターナイフだけが俺の支えになっていた。
陽佳、陽佳。
その名を呼べば、その姿を思い出せば、安物のカッターナイフだって、充分役に立った。
けれど今は。
隣の陽佳を見上げると、それに気付いてわずかに俺を見下ろし、陽佳がにこっと笑った。
「どうしたの、なっちゃん」
「──うん」
俺はすっと素早く周りを見回し、陽佳の制服のシャツの袖をつかんだ。
「なっちゃん?」
路地裏に引っ張り込まれた陽佳が、慌てたように俺を呼んだ。
陽佳を壁に追い詰めるように向き合うと、俺は左手を伸ばして陽佳の唇に触れた。
少しかさついたそれを撫でたら、陽佳が顔を赤くして目だけで周りを見回した。
「誰もいない」
俺はつぶやいて、その唇を割るように中指を滑り込ませた。陽佳は前歯を開くようにしてその指を口内に受け入れる。
指先で陽佳の舌をなぞり、その下が指を絡めるように舐めるのを、しばらく黙って見ていた。陽佳は目を閉じ、俺の左手をつかんで中指の付け根まで下を伸ばした。指の股をするりとそれが動き、ぞくりとした。
「陽佳」
名前を呼んだら、目を開けた。俺を見つめている。
「噛んで」
身体が小さく震える。肌が粟立つほどに気持ちがいい。
陽佳は第二関節に歯を立てる。痛みは感じない程度の甘噛みから始まって、歯型を残すくらいの強さに。
「あきよし」
もっと。
痛く。
そう思った次の瞬間、舌が第一関節を舐め、きりっと痛みが走った。
「──はっ」
思わず声が出た。陽佳が口を開き、ぬるりと指が抜き取られる。
「痛い?」
陽佳が訊ねる。
本当は、今は、もう。
俺ははぁはぁと荒い呼吸をして陽佳を見上げた。
中指には血が滲んでいる。俺はそれを舐め、舌の先に血の色をつけた。
舌を出したまま、背伸びした。陽佳に顔を近づけたら、ほんの少し笑って、陽佳がその舌の表面を舐めた。
「なっちゃんの、血の味」
俺の、血の。
陽佳がつけた傷の。
俺は両手を陽佳の首に回し、引き寄せるようにキスをした。
本当は、もう、痛みだけじゃないんだ。
俺は乱れる呼吸をまるで飲み込むようにしてキスを続けた。舌に残った血の味を共有するように。
陽佳、お前にされることなら、なんだって──
「──なっちゃん」
唇を離した陽佳が、俺を呼んだ。
その目が、俺を、好きだ、大好きだと告げている。
なっちゃん、大好きだよ。
──お前にされることなら何だって、嬉しい。
例えそれが俺の望む痛みを伴わなくても。
部屋に帰ったら、今日は陽佳にすべてを委ねてみよう、と思った。
触ってほしい。陽佳、お前に。
痛みを与えてくれたら嬉しい。だから、少しだけ、ねだってみる。
──痛みを、ちょうだい。
でも、その先は、お前にすべてを任せてしまおう。
お前が俺にくれるのは、どんな痛み? どんな快楽?
たとえそれが俺の望むものとは真逆なものだったとしても、俺はそれを受け入れる。だから、陽佳、俺に触って。
急いで家に帰ろう、そう思った。
陽佳は、愛おしげな目をしてこちらを見つめていた。
「なっちゃん」
甘い響きで俺の耳に届くこの声を、誰にも聞かせたくない、と俺は思った。
了
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