04 kneel down~different~
俺の大好きな人には、困った性癖がある。
俺は、ぱちん、と音を立てて飛び散ったその破片を、摘み上げた。そしてそれを、広げていたティッシュペーパーの上に落とす。
再び、ぱちん、ぱちん。
ベッドの上で俺に向かって足を伸ばした夏基(なつき)が、呆けるような、どこかうっとりしたような目をして俺の手元を見つめていた。
胡坐をかいて座った俺の膝の上に乗った夏基の足。
俺は、その爪を切っていた。
他人の爪なんて切るのは初めてだった。
今日も、用もないのに部屋に押しかけた俺に、夏基が差し出してきたのは、真新しい爪きりだった。それで足の爪を切れ、と言う。
「失敗しちゃいそうだから、やだよ」
俺は慌ててそれをつき返したけれど、夏基は呆れたように俺を見て、こともなげに、言った。
「その失敗を、期待してるから頼むんだよ」
ああ、神様。
どうして俺に、こんな試練を与えるんですか。
俺はただ、夏基が好きなだけなのに。
夏基を大事にしたいのに。
けれど当の夏基が、俺から与えられる痛みを望んでいる。
俺がこの愛しい幼馴染みの頼みを拒めないのをよく分かっていて、夏基はわざとらしく俺に擦り寄って、甘えるような口調を作った。
「なあ、陽佳(あきよし)、お願い」
新しい爪きり。
俺は仕方なく、ベッドの下に押し込まれていた、プラスチックの救急箱を取り出した。俺が100円ショップで買ってきた手提げつきの透明のケースに、消毒するための道具屋、手当ての道具一式が詰まっている。
俺は脱脂綿に消毒液をしみこませ、まずは爪きりの刃を拭った。
ベッドに腰掛けて、俺は夏基を呼んだ。
「座って」
夏基はいそいそとベッドに腰掛けて、俺に向かってその形のいいきれいな足をよこした。俺は少しだけ爪の伸びたその指を、1本ずつ丁寧に、消毒してやった。すうすうとひんやりした感覚に、夏基がくすぐったそうに笑っていた。
脱脂綿をゴミ箱に投げ入れた俺は、夏基の足を持ち上げて、その甲にキスを落とした。
このきれいな足を、これから、血に染めます。
俺は覚悟を決めて、爪きりを手に取った。
──ぱちん、と音がする。手の爪よりは硬いそれが、時々あらぬ方向に飛んでいく。そのたびにいちいち俺はそれを拾い上げる。
「なあ」
おとなしく切られるままでいた夏基が、うずうずと身をよじる。
「まだ、失敗しない?」
「しない」
「陽佳」
期待に満ちた目と、色気を含むその声のダブルパンチは、いつも俺を惑わせる。
とりあえず、一通り、爪を切り揃えてみた。まだ少しだけ白い部分が残るそれは、初めてにしては上手く切ることが出来たと思う。このままやすりをかけて、ぴかぴかに磨かせてくれればいいのに、と俺は思う。
夏基のきれいな足に、輝く爪。それはとても、魅惑的なんだろうな。
けれど、ちらりと見た夏基が、俺を見るその目は、まだ? と訴えていた。
俺はもう一度きれいに切り揃えられた爪を見つめてから、小さく溜め息をついて、再び爪きりを当てた。さっきよりも深く、その刃を押し付ける。
ぱちん。
夏基の足が揺れる。皮膚に張り付いた爪との境目ぎりぎりで、それが切られた。指先でなぞってみたら、あそびが少しもないのが分かった。かなりの深爪。
次の指に爪きりを当てた。もっと、深く。恐る恐る力を入れていく。手ごたえを感じたのと、夏基がうっと声を漏らすのは同時だった。爪きりの上の刃が、爪の上から肉を挟むように埋もれていた。このまま力を入れてしまえば、間違いなくその肉ごと切り取られる。だから、俺は躊躇した。
夏基が、堪えるように眉を寄せ、小さく震える。
俺は、ほんの少しだけ爪きりの位置をずらして、力をこめた。肉を断つことはなかったが、切った爪の下、その皮膚が削げるようについてきた。血が滲む。
足の指は、手の指よりも、血の出が悪いのだということを、初めて知った。
それでも、ゆっくりとその爪先に真っ赤な球体のようなドームを作るその血を、俺は見つめる。少しずつ大きくなり、それはいきなり決壊した。指を伝い、俺のハーフパンツから覗く膝の上にそれが垂れる。
俺は足首をつかんで持ち上げ、血の出る指先を舐めた。倒れないように後ろで身体を支えるように腕をついて、夏基がそれを見ていた。少しずつ息が乱れていく。
俺の身体がぴくりと反応する。見ると、俺の腿に垂れた血を、夏基がもう片方の足の爪先で、ゆっくりと塗り広げていた。
「なっちゃん、くすぐったい」
「ん、」
返事にならない声が返ってきた。
俺は次の爪に爪きりを当てる。今度は、出血しない程度に、ぎりぎりで切った。1本目と同じくらいに深爪。これはきっと、力を入れたらひりひりと嫌な痛みを与えるに違いない。
俺は注意しながら同じように爪を切っていく。5本のうちの2本から、出血した。ぽたぽたと落ちていくその血を、夏基は飽きることなく俺の太腿にこすり付けている。時々、ハーフパンツの中に入り込むその爪先が、危ういところまで届いた。そのたびに俺はひやりとした。
少しだけ腰を引くようにしてそれをかわしながら、俺は爪と、傷ついたその肉の境目に舌先を当て、力を入れた。傷口を広げるかのように、割り込ませる。
夏基は短く息を吐き出し、背筋をそらす。
つかんだ足首は持ち上げられたまま。身体を支えている夏基の手は小さく震えていた。そろそろ、支える力もなくなる頃だろう、と思った。
口内は血の味が広がっていた。
時々ごくりと飲み込んでみるが、そのたびに、こみ上げそうになるものを、いつも堪える。
この味には、なかなか慣れない。
けれど、吐き出すことはしなかった。
だって、これは、夏基の血だ。
出血した指に吸い付くようにして、俺はその血を含んだ。口にたまったそれを、持ち上げていた足を下ろして、俺は夏基に近付き、口移しで飲ませてやった。夏基がゆっくりとその血を飲み込んでいく。
「なっちゃん」
舌には甘苦い鉄の味。けれど、再びキスして夏基の舌と絡めたら、それは急激に、甘い芳香を放ち、柔らかく溶けた。少しざらついた舌の表面が合わさって、まるでかすかに残る血の名残りを擦り取られるように舐められた。
くらくらと、めまいがするくらい、俺は目の前の夏基に魅入られる。
「あきよし」
夏基の、甘えるような声が、俺の耳元で響く。
もう限界。
夏基の出血した爪と皮膚の間に、夏基のために少し伸ばしたままでいる俺の爪の先をねじ込んだ。えぐるようにそれを動かしたら、夏基の身体ががくんとベッドに落ちた。もう、身体を支えていられなかったらしい。真っ赤に染まったその場所に爪の先を乱暴にねじ込んだら、夏基が達したのが分かった。
いつものことながら、流血した日の惨状は目も当てられない。
なるべくこぼれないように気をつけているつもりだ。けれど、受け止められないものはある。夏基のベッドカバーにもいくつかの血液のしみが出来ていた。 ぽたぽたと落ちたそれは丸く水玉模様のようになっている。
「お前が鼻血でも出したって言っておく」
夏基は平気そうな顔をしてそう言った。
俺はベッドに座って夏基の足の手当てをしているところだった。
「俺、なっちゃんの部屋で鼻血吹いた間抜けなやつ?」
「そうだな」
くくっとおかしそうに笑う夏基に、俺はまあいいか、と諦めた。
出血した2本の指には化膿止めを塗って、ガーゼを当て、テープ状になった粘着包帯で固定した。他の指は丁寧に消毒する。
俺の腿に血を塗り広げていたもう片方の足の裏は真っ赤に染まっていた。広がった血液は完全に固まっていて、ウェットティッシュで必死に擦って落とした。
「お前の足も、真っ赤だな」
そういえば、夏基が塗り広げてくれたせいで、俺の左の太腿も血で汚れていた。同じように固まっていて、これを拭き取ることを考えて、溜め息をついた。ハーフパンツにもところどころ血が付着していて、あとでこっそり手洗いしておかなきゃいけないな、と思った。
「陽佳」
夏基に呼ばれて、俺が顔を上げたその瞬間、どんと胸を押されて、俺はそのまま後ろにひっくり返った。
「何すんの、なっちゃん」
身体を起こそうとして、俺はあっと思った。さっきの夏基のように後方に手をついて身体を支えたら、夏基が俺の足を押さえつけて、血まみれの腿に顔を近づけ、舌を伸ばした。
「なっちゃん?」
ぺろりと、舐められた。
おもわず、ひゃあ、と声が出た。
「何だ、その声」
おかしそうに笑いながらそう言って、再び夏基はそれを舐める。乾いてしまったそれをこそげ落とすように、舌に力が入る。
俺は片手で身体を支え、もう片方の手で自分の口を押さえ、その感触に必死で耐えた。
これ、何かのご褒美?
俺の身体が素直に反応してしまうのは、許してほしい。
好きな人にこんなことをされたら、仕方がない。
でも。
「なっちゃん!」
夏基の肩をつかんでぐいっと押しやると、俺は急いで立ち上がり、そのまま部屋を飛び出した。後ろで、夏基が俺の名前を呼んだけど、俺はそのままトイレに飛び込んで、鍵をかけた。
俺だって、もう、限界。
俺の太腿の血は、半分ほどきれいに舐め取られていた。
俺はどうしようもなく赤面したまま、自分で、処理した。
ああ、神様。
ご褒美は時に、拷問です。
快楽のみのセックスには興味のなさそうな夏基を、俺がどうこうするわけにはいかないのです。
便座に腰掛けた俺は、湿らせたトイレットペーパーで、残りの血を拭った。ぼろぼろとすぐに脆く崩れるトイレットペーパーを、何度も何度も腿に擦り付け、なんとかそれをきれいに落とすことが出来た俺は、便器にたまった大量のトイレットペーパーと、俺の欲望の塊を、きれいに流した。
トイレを出たら、俺は夏基の部屋に戻る。
きっと夏基は何事もなかったかのように、俺を待っているのだろう。
俺のやましさなんて、少しも気にせずに。
戻ったら、俺は、夏基の足にキスをしよう、と思った。
多分、ベッドに腰掛けているであろう夏基の、きれいに伸びた形のいい足を、床に跪いた俺が持ち上げて。
うやうやしく、口付けを。
包帯だらけで、消毒液の香りが漂うその甲に。
夏基がくすぐったそうに、おかしそうに笑う顔を見て、幸せになりたいな、と俺は考えていた。
了
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