03 Disease


 床に大きな図体を縮めるようにして座る陽佳(あきよし)を、俺はベッドの上から見下ろしていた。しゅんとして、まるでヘタレた犬みたいに、垂れ下がる耳と尻尾の幻覚まで見えてきそうだった。

「落ち込むな」

「だって、なっちゃん」

 生まれたときから一緒に育ってきた2つ年下の幼馴染みは、未だに俺を昔と同じようになっちゃん、と呼ぶ。17歳の男子高生をそんな愛称で呼ぶこいつは、見た目だけはにょきにょきと育ち、通っている中学ではさぞかし浮いているのだろうな、と思うほどに大人びて見える。

 けれど、中身はまだまだ子供だ。昔から、どこか押しの弱いところがあったが、それは今も治らない。俺が少し強く出れば、いつだって簡単に落ち込んでしまう。

「俺がやれと言ったんだ。お前のせいじゃない」

「でも……」

 原因は、俺がつけている眼帯だった。ぺらぺらの白くて薄いプラスチックに、布製の細い紐がついたそれを、俺はガーゼで隠された左目に当てている。

 家族には目をこすりすぎてばい菌が入り、化膿した、と言うことにした。

「痛い?」

 今にも泣きそうな顔をして俺を見上げている陽佳は、さっきから同じことばかり聞いてくる。

「痛い」

 俺が答えると、うっと言葉を詰まらせた。またうなだれる。

 馬鹿だな。

 お前から与えられる痛みなら、俺にとっては快感だ。

 俺はそんな姿を見ながらくすりと笑った。

 俺の左まぶたは、陽佳が噛み切った傷で真っ赤に腫れていた。


 世の中にはオキュロフィリアという言葉があるらしい。

 それを知ったのはつい最近で、その意味をネットで調べて、なるほどな、と思った。

 人は様々な性癖を持つものだけれど、まさか眼球だけに異常に興奮するという人間がいるなんて考えたこともなかった。

 俺は、はっきり言えばSM嗜好というものに全く興味がない。

 陽佳は俺をマゾヒズムだと思っていたらしいが、俺が性的興奮を覚えるのは痛みにではない。

 陽佳から与えられる痛み、にである。

 つまり、基本的に俺は痛みが好きなのではない。陽佳によってもたらされるからこその痛みには激しく昂ぶるし、俺が傷つくことで陽佳が悲しそうな顔をしたり、泣いたりするから興奮するのである。

 俺の傷を、痛みを、自分のせいだと思いこむ秋吉自身に、特に。

 だから俺は、マゾヒズムでもアルゴフィリアでもない。

 ──眼球。

 俺は右手の人差し指をぺろりと舐めて、試しに右目の眼球をそっとなぞってみた。

 一瞬だけ、染みるような痛みを感じた。けれど、唾液を足してみたら、そのあとは案外平気でその白目部分を撫でることができた。

 いつの間にか涙が滲んでいた。刺激によって涙腺が開いたらしい。

 あきよし。

 俺は口の中でその名をつぶやく。

 目尻に沿って、ゆっくりと、さっきより強く、撫でてみた。

 陽佳にねだるのは、これにしよう、と決めた。


 俺が2年前まで着ていたのと同じ制服。濃紺の詰襟の学生服が、ハンガーにかけられている。ゲーム機や、漫画が散らかる部屋に、俺が入り込んだのは、窓からだった。俺の部屋の窓を開けると、向かいには同じように窓。その距離約1メートル。鍵はいつも、かかってない。

 がらりとそれを開けたら、陽佳が驚いたようにこちらを振り返った。風呂上りらしく、ほかほかと湯気を立てながらタオルで髪の毛を拭いていた。

「な、なっちゃん?」

 部屋に飛び込んだ俺を、慌てて受け止めた陽佳が、俺を下ろしてくれた。

「どうしたの?」

 ベッドに腰掛けてた訊ねてくる。まだ髪の毛は濡れている。俺はベッドに乗って膝で歩いて陽佳の背後にたどり着き、タオルを奪ってその髪を拭いてやった。

 少しクセのある長めの髪を包み込むようにして優しくこすった。陽佳はくすぐったそうにして身を任せていた。目を閉じて、軽く上を向いて、にこにこと笑顔を作っている。

 まるで大型犬だ。

 陽佳を見るたびにいつもそう思う。おっとりと身体の大きなレトリーバー。最近は髪を伸ばしているから、ゴールデンレトリーバーかな、と考えた。

 レトリーバーよりは賢くないかもしれないが。

 そう思ったらおかしくなった。ふっと笑うと、陽佳がぐいんと首をそらすようにして俺を見た。

「何、笑ってるの、なっちゃん」

「別に」

 わざとぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜてやった。爆発したようにぼさぼさになった頭に、俺は再び笑った。

 陽佳はひどいなー、とつぶやきながら手ぐしでそれを整えた。

「まだ寝ないの?」

「まだ、寝ない」

 俺はタオルを放り、陽佳に抱きついた。

「──なっちゃん?」

「なあ、触って」

 おずおずと、陽佳の手が俺の髪に触れる。そして頬に。

 まるで愛しいものを見つめるように、優しく俺を見下ろす。

 けれど、その目を、今日も俺はまた、かげらせる。

「目」

 俺の頬に触れていた手をつかみ、その指先を俺の目尻に当てた。

「触って」

「──危ないよ」

「危なくても」

 陽佳が躊躇しているのが分かった。始まりはいつだって、そうだ。陽佳は少しの不安と、戸惑いを見せる。けれど結局、俺のお願いには逆らわない。

「でも」

「じゃあ、舐めて」

 俺は顔を近づけた。陽佳がごくりと喉を鳴らした。

 ほら、逆らえない。

 ゆっくりと顔を近づけた陽佳の目を、俺はじっと見つめていた。唇が開き、ピンク色の舌が覗く。その先が俺の左目を、そっと撫でた。

「痛くないの?」

「痛くない」

 恐る恐る、という様子で、初めはかすかに触れるだけ。けれど、俺がずっと上目遣いで見つめ続けているからか、陽佳が観念したようにべろりと舐めた。

 ぞくりとした。

 黒目の上、水晶体が動いたような気がした。痛みとは違う、うずくような感覚があった。

 ざらついた舌の感触が分かった。

 ──気持ちいい。

 俺の感情を読み取ったのか、陽佳の目が探るように俺を見た。そして笑う。

 目の下、下睫毛ぎりぎりの場所に、陽佳がキスをした。初めは小さくチュッと音を立てて。2度目は舌でぬらしたその場所に吸い付くように。唇に挟まれてその薄い皮膚が引き攣れたように刺激され、俺はますます震える。

 陽佳は位置を変え、今度は目尻に。そして、目尻近くのまぶたに同じように吸い付き、唇で甘噛みする。

 まぶたを食まれ、その合間に舌先が再び眼球に伸びる。目の奥に入り込もうとするかのように、それは割り込む。

 いつの間にか俺はベッドに仰向けに押し倒されていた。

 陽佳の左手は俺の頭を動かないように支え、右手はわき腹の辺りに伸び、服の内側でその手のひらが皮膚に密着している。撫でるでもなく、ただ、ぴたりと。

 その手から伝わる温度が熱い、と思った。

「なっちゃん、平気……?」

 いつの間にかぼろぼろと涙をこぼしていた俺に、心配そうに陽佳が問う。

 姿かたちは大人びても、やっぱりまだ子供だ。

 そんな子供に、どうしようもないくらい興奮し、欲情する俺も俺だが。

「もっと」

 俺は泣きながら言った。

「もっと、痛く」

 陽佳は左の頬骨の辺りにキスをして、それから俺のわき腹に貼り付けていた手を離し、俺の左頬を押さえ込むようにした。人差し指がこめかみをゆっくりと撫で回し、親指が眼窩から下まぶたの辺りを強く押した。

 くぼみにめり込む親指がきりきりと、骨を押す。

 痛い。

 めくれ上がった下まぶたの裏、そこに舌を這わせる。あふれた涙でぐずぐずに濡れたその目は、陽佳の唾液でさらにびしょ濡れになった。

 俺は陽佳を見つめた。

 少しの後悔。

 いつもそんなものが浮かんでいる。

 傷つけたくない。

 そう言われているような気がする。

 でも、陽佳。俺は、お前に、傷つけてもらいたい。

 ぞくぞくとわきあがる快感に、思わず声が漏れた。その瞬間、陽佳がぐっと何かを堪えるように目を細める。

 もっと。

 そう思ったのが伝わったのか、陽佳が俺の眼球にキスをした。音を立てて吸い付かれたとき、俺は、このまま目を吸い込んで、噛み潰して欲しい、と思った。

「あきよし」

 その舌を絡めて、俺を全部、吸い尽くして。

 荒い息で俺を見下ろして、陽佳が両手に力を入れた。押さえつけられた頭がきりきりと痛み、押し込められた親指が眼窩の骨をきしませる。

 陽佳の唇がまぶたに触れた。

「噛んで」

 俺は懇願するように、抱きついた。

「噛みちぎって」

 陽佳は、迷わず、その薄い皮膚に歯を立てた。鋭く走った痛みに、俺の身体が跳ねた。

 そのあとで重なった唇から差し込まれた舌は、俺の血の味がした。


 陽佳が、細心の注意を払って俺の傷の手当をする。場所が場所だけに、手元を狂わせないように、慎重だった。

 俺たちがこんな風になってから、部屋には救急箱が置かれるようになった。それは陽佳が買い集めてきたもので、薬局で揃えた消毒薬や傷薬、包帯にガーゼ、サージカルテープに絆創膏。化膿止めや鎮痛剤まで、入っている。それが、陽佳の部屋と、俺の部屋にひとつずつ。

 ここまでしなくてもいい、と言ったのに、陽佳が頑として譲らなかった。

 俺は、どうやら、傷に無頓着すぎるらしい。

 手当ての間中、向き合って座っている陽佳をずっと見ていた。

「きっと、腫れるね」

「構わない」

「ごまかせないよ、これじゃ」

「眼帯しておく」

「ああ……眼帯」

 陽佳がつぶやいて立ち上がり、俺に背を向けた。

「コンビニで、買ってくる」

 そう言って、部屋を出て行った。

 ──初めから、気付いていた。

 俺がベッドにごろんと横になり、散らかった部屋をぼんやりと眺めた。お互いの部屋はしょっちゅう行き来している。だから、見慣れた景色だった。

 壁にかけられた制服。

 それを着た姿を初めて目にしたとき、なんだか妙に気恥ずかしかった。陽佳が少しだけ大人になってくれたような気がしたから。

 まだ子供。

 だけど、俺は、気付いていた。

 初めから。

 俺の欲求を受け入れ、言われるがままに俺に傷を作ってくれる陽佳の身体も、変化していることを。

 陽佳が勃起する原因は俺?

 ざわざわと胸が騒ぐ。

 俺は陽佳からの痛みに興奮し、反応する。陽佳は俺の望みどおり、願いどおり、それを全部聞き入れてくれる。俺が満足し、射精するまで。

 けれど、陽佳自身は?

 俺だけが満たされている。

 その行為のあと、陽佳は黙って俺の世話を焼く。汚れた身体をきれいにし、手当てをして、俺を優しく抱き締める。

 俺が気付いていないと思っているのか。

 それとも──

 気付いているのを知ってもなお、なかったことにしようとしているのか?

 俺に背を向けて部屋を出て行った陽佳が、本当にそのまままっすぐにコンビニへ向かったのかどうかは、分からない。けれど、あんな状態でまともに歩けるとは思えない。

 一人でこっそりと処理しているのだろうか、と思った。

 ──陽佳は、俺と寝たいの?

 それを聞いてしまったら、俺たちはどうなるのだろう。

 セックスがしたいわけじゃないんだ。

 俺は、陽佳に、痛みを与えてもらいたいんだ。

 けれどそれは、あまりにも俺のわがままに思えた。

 なっちゃん、と俺を呼ぶ。

 大好きだよ、と笑う。

 なっちゃんが好きだよ。

 昔から、何度も。

 その言葉を疑ったことは一度もない。陽佳は、間違いなく俺を好きなのだろう。

 けれど、それは、純粋な気持ちだとばかり思っていた。

 俺がこの性癖を知られてしまったとき、間違いなく俺はこのまっすぐに俺を見る幼馴染みを汚してしまうと思った。

 取り返しのつかないことをするのだ、という自覚があった。

 けれど、そのきっかけをくれたのは陽佳自身だった。

 ──俺は、どうすればいい?

 真面目な顔をして俺に問う陽佳を思い出す。

 すべては俺の望みのまま。

 陽佳が俺の望みを拒絶したことは一度もない。なにもかもすべてを、受け入れる。

「なあ、陽佳、俺は、どうしたらいい?」

 自分の望みは頑なに胸に秘め、俺の望みをかなえてくれる陽佳が、途端に愛しく思えてきた。

 なぜお前は、俺を求めないんだ?

 俺が欲しいと、口にしないんだ?

 俺を傷つけ、痛みを与えるのがあんなに辛そうなのに、どうしてそれを一度も拒まないんだ?

 お前はきっと、俺に優しくしたいんだよな?

 ほんのわずかの痛みすら与えたいなんて思わないんだよな?

 けれど、俺が、それを望むから。

 俺は身体を起こし、壁の制服を見つめた。

 陽佳が俺を呼ぶ。

 なっちゃん。

 にっこりと、人懐っこい笑みを浮かべて。

 俺はベッドから立ち上がり、窓を開けた。陽佳が帰ってくる前に、俺は自室に戻って、窓に鍵をかけた。ベッドにもぐりこみ、目を閉じ、耳をふさいだ。

 今だけは、陽佳が俺を呼ぶ声を聞くのが辛い、と思った。


 次の日の朝、目覚まし時計を止めたあとでうとうととまどろんでいる俺の部屋に、ノックもせずに飛び込んできたのは陽佳だった。

「なっちゃん」

 俺を揺り起こすのを、なかなか持ち上がらないまぶたの隙間から見た。その顔は、明らかに蒼白していた。

「なっちゃん、ごめん」

 いきなり謝られて、俺は意味が分からず、んん? と寝とぼけた声で返事をした。

「痛い?」

「……んー?」

「ごめんね。なっちゃん、痛いよね。ごめんなさい」

 どういうわけか、ちっとも陽佳の顔がはっきり見えない。だから、目をこすろうと手の甲を当てた瞬間、陽佳がその手をつかんだ。

「駄目だよ。ひどくなっちゃうから」

「ひど、く──?」

 ようやく頭が動いてきた。そして、持ち上がらないまぶたは、昨日の行為のせいなのかとようやく気付いた。陽佳の手から逃れた指先でそのまぶたに触れたら、びっくりするほど腫れて熱をもっていた。よほどひどい状態なのだろう、と思った。

「ちゃんと消毒したのに、駄目だったみたい。──ごめん。痛いよね、なっちゃん」

 泣きそうな顔をしてそんなことを言う陽佳を見ながら、俺は少し、呆れた。

 俺は、お前から受けた痛みなら、なんだって嬉しいんだよ。

 何でそれに気付かないんだろう。

「これ、昨日、買ってきたんだ。──もう一度消毒する?」

 ああ、そうか、眼帯──。

 俺がベッドに身体を起こし、まだ完全に覚醒しないまま、陽佳が差し出す新品の眼帯を受け取った。もたもたと包装を解いていたら、陽佳がはらはらと俺を見ていた。その情けない顔に笑いたくなった。

 ようやく眼帯をつけた俺は、その上から左目を軽く押してみた。鈍い痛みがした。

「なっちゃん……」

 俺の足元に座り込み、うなだれるようにしてつぶやいた。

「痛い?」

 右目だけで見た陽佳は、まだ少しぼやけていた。俺は指先で目をこすり、その視界をクリアにした。

「ごめんね、なっちゃん」

 お前が謝る必要などどこにもない。

 濃紺の詰襟。学生服を着た陽佳が、心配そうに俺を見ている。

「早いな」

 いきなりそんなことを言われたので、何を聞かれたのか理解できなかったらしい。え? と声を漏らし、首を傾げた。

「ずいぶん早いな。登校まで、まだ時間あるだろう」

「──なっちゃんを、高校まで送ろうと思って」

「は?」

「だって、片目じゃ見えにくいでしょ? だから」

「馬鹿。平気だ」

 第一、俺を高校まで送っていたら、陽佳自身が遅刻をしてしまう。

「じゃあ、駅まで」

 必死な顔でそう言った陽佳に、俺は、仕方ねーな、と答えてやった。陽佳はほっとしたようだった。

 今でも、陽佳から向けられるその視線は純粋で、いつもまっすぐに俺を見る。

 どうして、俺に汚されることを選んだのか、それをいつか聞くことになるだろう。

 お前が俺に望むのは、一体何なんだ?

 その答えを聞いたとき、俺は、きっとそれを、受け入れてしまうのだろうな、と思った。例えそれが、俺の望む傷も、痛みも生まないような行為だったとしても。

 目の前で耳を垂らした大型犬のようなこの幼馴染みを、誰よりも求めているのは、紛れもなく俺自身でもあるのだから。

 けれど、それまでは──

 俺は気付かないフリを続ける。

 俺だけが快感をむさぼり続ける。

 俺の望むままに。

 まるで病のように俺に取り付くこの感情が行き場をなくさないように、お前は俺に痛みを与え続けていて欲しい。

 いつか、お前が望むなら──

 そのときは、間違いなく、お前のために、快楽を。

 俺は迷うことなくそう考えていた。


 了

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