02 ガーゼ~different~


 内腿に、歯形がつくくらい強く噛み付いた。

 ぶるっと震えた夏基(なつき)が、興奮しているのは、分かっていた。

「あきよし」

 舌足らずににも聞こえる声で、俺を呼ぶ。

「もっと、強く?」

「もっと、強く」

 鸚鵡返しに答える夏基はさっきからずっと息を乱している。

 俺は夏基の右足の膝裏を自分の肩に乗せ、そのまま今つけた歯型をぺろりと舐めた。

 ひくひくと痙攣する内腿が、上気して赤みを帯びている。そこに再び噛み付いた俺は、さっきよりも強く、深く、痕を残す。

 滲んだ血を舐める。これくらいじゃまだ足りないのだということは分かっていた。けれど、あまり傷を増やすのは危険を増す。

 それが分かっているはずなのに、夏基が俺を煽る。

「血、が」

 震える声でつぶやく。

「血が、足りない」

「駄目だよ、なっちゃん」

 歯形から滲んだ血に強く吸い付いて、出来るだけ舐め取ってみた。けれど、夏基が望む量にはきっと、足りない。

 俺はそのまま口内で唾液と混ざったその血を、夏基の唇を割るようにして舌を滑り込ませ、流し込む。ごくり、と喉が鳴った。満足はしていない。けれど、俺に向かって笑ってくれた。口元に薄くピンク色の唾液がこぼれていた。

 血の味を、拒むことはできなかった。

 それで夏基が喜ぶなら、お安い御用だと思う。

 生まれてからずっと一緒に育ってきた幼馴染みの俺たちは、誰にも言えない秘密を共有している。

 夏基が痛みや傷に興奮すると知ったのは、最近のことだ。

 今まで気付かなかった俺も大概だと思うけれど、こんなに四六時中まとわりつく俺の目を盗んでそんな性癖を隠していた夏基もかなりのものだ。

 と、言うよりも、単に俺が鈍かっただけなのだろうか。

 夏基は一人、そっと、傷を作っていた。その痛みを感じ、流れる血に震える。俺の名を呼び、息を荒げる。そんなことを、たった1メートル程しか離れていない窓の向こうで続けていたのかと思うと、なぜか俺の身体も熱くなった。

 俺は、別に、誰かを傷つけたり、痛めつけたりするのが好きなわけではない。どちらかというと、そんな状況は遠慮したいくらいだ。

 けれど、その相手が夏基ならば。

 熱っぽい目をして俺を見つめる年上の幼馴染みは、さっきからずっとその目に期待の色を滲ませ続けている。

「なっちゃん」

 俺は優しく名前を呼ぶ、

 夏基は、俺の声が好きだ。名前を呼ばれると、ぞくりと身を震わせる。

「もっと?」

 こくりとうなずいた。

 仕方なく、俺は夏基の左手をつかんで、その薬指に噛み付いた。指先、爪の横の皮膚が破れ、みるみるうちに血があふれてくる。舌でそれを舐め取った。夏基の血は甘くて苦い。

 俺はその指を、今度は夏基の口元に導く。次々にあふれる血が、唇に落ちた。夏基の赤い舌がそれを舐める。自分の指をくわえ込む。

 俺はまだ夏基の足を肩に乗せたままだった。自分の指の傷口を舌で割り広げんばかりになっている夏基を見つめながら、さっきつけた歯形に右手で触れた。ぼこぼことついた痕に、爪先を引っ掛けた。ぴくっと、小さく震えた。だから、俺はこちらを見た夏基ににこりと笑ってみせる。

 歯形のくぼみを、きりりと爪を立てて引っかいた。

 夏基がきゅっと眉を寄せた。

「あき、よし」

「痛い?」

「痛い」

 夏基の「痛い」は「気持ちいい」とイコールだということを、知っている。

 さっきまで薄く血の滲んでいた歯の痕を、力を入れてまさぐる。爪の先が閉じていた傷口を引っ掛け、また血が滲んだ。

 夏基が望むので、俺の爪は少しだけ、伸びている。硬い爪が皮膚を傷つけるのが好きなのだと言う。

 傷口。

 血。

 痛み。

 そして、俺。

 夏基が望み、執着し、昂ぶるもの。

 俺はその傷にもっと爪を立て、足を抱えたまま前に倒れこむようにして夏基に近付き、キスをした。

 俺の与える痛みが、セックスよりもずっと、夏基は興奮するのだ。

 痛みによって、血の味によって、そして、俺の存在によって。

 快感に身を震わせ、とろんとした目をして、俺を見つめる。

 キスは、血の味がした。


 俺は救急箱を取り出して、夏基の身体の傷の消毒を始めた。

 夏基はおとなしく、されるがままになっている。まずは指先。夏基がくわえていたせいで、血は止まっていた。小さな傷だから、絆創膏を巻いただけで何とかなった。

 次は腿。歯のくぼみと、開いた傷口を中心に、念入りに消毒した。

「なっちゃん、本当は、噛み付くの、あんまりよくないんだからね」

 夏基は唇を尖らせるようにして黙っている。

「口の中は、ばい菌がいっぱいなんだから」

「うがい、してるだろ」

 確かに、この行為の前は、俺も注意を払う。殺菌消毒用のうがい薬でがらがらと何度も口をすすぐ。手を洗うときにはきちんと爪の中まで洗う。

「なっちゃんは無頓着すぎるんだよ」

 本当は、大事な夏基には、傷なんてつけたくない、と思っている。

 けれど夏基自身がそれを望む。

 小さい頃から──生まれたときから夏基のことが大好きな俺は、それに逆らえない。それどころか、夏基が望むならば役に立ちたいとさえ思ってしまう。

 夏基が好きだ。

 もう、ずっと。

 一緒にいるのが当たり前で、いつだって俺の中での優先順位は夏基が一番だった。

「陽佳(あきよし)」

 夏基が言った。

「それ、もっと」

 どうやら、消毒液のエタノールの刺激がお気に召したようで、夏基は小さく身を震わせるようにして俺の持つピンセットに腿を擦り付ける。

「なっちゃん──」

 俺は空いていた方の手でこつんとその頭を軽く叩いた。

「これは、消毒だよ」

「分かってる」

「分かってないよ」

 俺は溜め息をついて、ピンセットで挟んでいた綿球をゴミ箱に落とした。夏基が名残惜しそうにそれを見ている。

 新しいガーゼを取り出して、内腿にサージカルテープで留めた。同じような手当てのあとが、身体のあちこちにあった。放っておくと無頓着に放置する夏基のために手当てをするのが、俺の仕事になった。

「悪化したら困るでしょ」

 と、言うと、

「悪化したら、もっと痛くてきっと気持ちいい」

 などと平気な顔で答える。

 だから、俺はいつも気が抜けない。

 もし悪化して、取り返しのつかない事態になったら、どうするつもりなのだろう。

「なっちゃんは、ずっとMなの?」

 手当てが終わって、ベッドの上で俺は後ろから夏基を抱き締めた。体育座りしているみたいに膝を抱え込んで座っていた夏基が、怪訝そうに俺を見た。

「俺は別に、Mじゃない」

「はい?」

「苦痛が好きなわけじゃない」

「…………」

 俺は混乱した。だったら、さっきまでしていた行為はなんなのだろう。

「俺が興奮するのは、傷と、血と、それに伴う痛みと──」

 顔だけ振り返って、夏基が俺を見た。

「お前だ」

 そんなことは分かっている。俺が、夏基に傷をつけ、痛みを与え、血を流す。そして夏基はそれを異常なほどに望む。

 それのどこがMじゃないって?

「大事なのは」

 夏基の細い指が俺の腕をすっとなぞった。そのまま手の甲を通り、指先まで。

「お前ありきだってことだ」

 絡んだ指先が妖しく動く。さっきつけた薬指の傷が開かぬよう、俺はそれを止めた。絆創膏の上から軽く押したら、夏基が顔をわずかにしかめる。

 痛みに違いがあるとは思えなかった。

 自身を傷つけ、その痛みに興奮するのなら、マゾヒズムに他ならない。

「他のやつにこんなことをされたって、何も感じない」

 ものすごい告白をされたような気がした。俺は夏基の手を握り締め、ゆっくりと持ち上げ、その指先に優しくキスをした。

「今まで作った傷は、全部、お前がつけてくれたらいいと思ってた」

「なっちゃん……」

「部活の最中に転んで怪我をしたときも、あの、ジャングルジムの前で泣いたお前の顔を思い出そうとしたし、不慮の怪我だって、俺が思い浮かべるのはいつだって、あのときのお前の言葉だ」

 ジャングルジムから飛び降りた一件以来、夏基の日常は生傷が絶えなかった。危機察知能力が欠如したとしか思えないほど、よく怪我をした。転んだり、落ちたり、挟まったり、切ったり、火傷したり。

 そのたびに絆創膏や包帯のお世話になり、夏基の身体にはかさぶたや痣が沢山できていた。一時は、虐待されているのではないか、と疑われたことがあるくらいに。

「お前のせいだ」

 ジャングルジムで、怪我をした夏基に、俺は訊ねた。

 俺のせい?

 先に高みに上っていく夏基が、小さくてとろかった俺を手伝おうと近付き、手を伸ばしてくれた。その手を取ったあと、夏基が落ちた。俺の手から夏基の手が離れたとき、とても恐ろしかった。夏基の、すりむいた膝から滲む血を見たとき、俺は泣き出した。

 俺のせいで、夏基が怪我をした。

 そう思った。

 そのあとで、突然ジャングルジムのてっぺんまで上った夏基が、受け身も取らずに落ちてきた。

 血の気が引いた。

 ぴくりとも動かなくなった夏基の名前を呼びながら、俺はわんわん泣いた。

 死んでしまうかと思った。

「お前のせい、って思ってた。ずっと。だから、その怪我も、痛みも、全部、嬉しかった」

 その日から、夏基が負う怪我はみんな、俺のせい。夏基の頭の中ではそんな風に変換されていたということだ。

「そうじゃなきゃ、興奮なんてしない」

 俺の腕の中で夏基がつぶやいた。

 昔は俺より大きかった身体も、今じゃこうやって腕の中にすっぽりと収まってしまう。俺の身長は中学入学を期にぐんぐん伸びた。今じゃ180センチを超えて、多分、学校でも一番大きいくらいだ。

 夏基に追いつきたいと思っていた。

 いつか、肩を並べて、子供扱いされないようになろうと。

 なっちゃん、と、俺は呼ぶ。小さい頃から、ずっと、同じように。

「ごめんな」

 夏基は首を曲げ、俺を見つめていた。

「俺が、お前を汚した」

 寂しそうなその目には、うっすらと後悔が見えた。

 俺は抱き締める腕に力をこめた。

「いいんだ」

 そう答えたけれど、本当は、違う。

 俺は夏基に汚されてなんかいない。

 だって、こうなる前からずっと。俺自身が夏基を汚そうとしていた。

 ねえ、夏基。

 俺は夏基のうなじに顔を押し付ける。シャンプーと、せっけんと、ほんの少しの汗のにおい。

 俺はね、ずっと、夏基を好きだったよ。

「もっと汚してよ、なっちゃん」

 夏基が俺に傷をつけて欲しいと願うように。

 俺は、夏基を、抱きたかったんだよ、ずっと。

 だから──

「ねえ、なっちゃん」

 その首筋にキスをして、俺は訊ねる。

「俺は、何をすればいい?」

 夏基が腕の中で、身じろぎした。

 俺のものにしたかったんだよ、ずっと。

 だから、いいんだ。

「何をしたら、もっとなっちゃんに喜んでもらえる?」

 手を伸ばした腿の内側には、たった今手当てを終えたばかりの貼り付けられたガーゼ。

 俺の手に重ねられた夏基の指先には、絆創膏。

 その傷をえぐって。

 夏基が望むのなら、その肌を、心臓を、切り裂いたって構わないんだ。

 俺のすべては、夏基が望むように。

 夏基が薄い唇を開いて、俺の名を呼んだ。

 そのあとで口にしたお願いを、俺が拒否することなど、この先永遠にあり得ない。

 俺は夏基の身体をきつく抱き締め、その華奢な身体にゆっくりと爪を立てた。


 了

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