Dsease

hiyu

01 イノセント


 子供の頃から一緒に育ってきたようなものだった。家は隣、親同士も仲がよく、しょっちゅうお互いの家を行ったり来たりして、どちらが自分の家か分からなくなるほどに。

 2つ違いの幼馴染みは、小さな頃から、いつも迷惑なくらいに俺のあとばかり追いかけてきた。

 怒鳴っても、無視しても、ほにゃらと笑いながら、俺の名を呼ぶ。

 なっちゃん。

 何を言っても、何をされてもめげないその幼馴染みは、俺のいいなりだった。

 なっちゃん、大好き。

 俺の言うことなら何でも聞いた。

 まだ自我の確立していない、ほんの赤ん坊の頃から、こいつは俺に執着している。

 母親に抱かれながらも、俺に向かって必死で手を伸ばす。母親同士が、笑い合う。

「夏基(なつき)くんのこと、大好きみたいね」

 幼馴染みの母親がそんな言葉をかけたら、俺はまじまじと抱かれるその顔を覗きこんだのだそうだ。

 小さな手が伸びる。

 その伸ばされた手をつかんだのは、俺だった。

 執着しているのは、俺も同じなのかもしれない。


 小さな頃はあんなに小さくてかわいかった幼馴染みの陽佳(あきよし)がぐんぐんと背を伸ばし始めたのは、中学生になってからすぐのことだった。半ズボンからつるりとした足を生やしていた、いかにも小学生、といった雰囲気はいつの間にか消え去り、入学式で同じ制服姿を見たときにはもう、俺とたいして変わらないまで成長していた。

 まだあどけなさの残るその顔が、アンバランスに長身に乗っかっていた。

 同じ制服を着られるのは1年だけ。

 それでも、陽佳は嬉しそうに笑った。小さな頃から変わらない、まるで溶けそうなくらいふにゃりと崩れた顔。

 中学生になっても相変わらず、俺のあとばかりついてきた。休み時間にわざわざ3年生の教室までやってきては、なっちゃーん、と大声で俺を呼ぶ。おかげで最上級生の威厳なんかどこにもない。陽佳の友人たちにまで「なっちゃん先輩」などと呼ばれる始末だ。

 けれど俺はこの幼馴染みをけして邪険に出来ない。

 俺が声をかけると、嬉しそうに尻尾を振る。

 身長はたった1年で簡単に抜かれた。

 俺は中学を卒業して、高校生になった。

 陽佳はまるで捨てられた犬みたいにしょぼんとしていたが、いつでも会えるだろ、と声をかけたら、泣き笑いみたいな顔をした。

 ──俺は陽佳の頭に手を伸ばす。

 もう、5センチは俺より高いところに、それはある。

 触れようとした。

 けれど、出来なかった。

 俺はその手を引っ込めて、ぎこちなく笑った。陽佳が不思議そうな顔をして俺を見たけれど、何も言わなかった。

 触れるな。

 俺の中のもう一つの感情が、生まれないように。

 なっちゃん。

 そう言って俺に向かって笑う陽佳を、汚すわけにはいかなかったから。


 自分が人と違うのかもしれないと気付いたのは多分、小学生の頃だった。そして、それは中学に入って確信に変わった。

 漫画雑誌のグラビアに歓喜するクラスメイト。あの子がかわいい、とか、あの先輩は美人だ、とか、そんな話についていけない自分を、知っていた。多分、ずっと押し込めていた感情だった。

 小さな頃、陽佳と二人で公園で遊んでいた。あいつが小学校の低学年くらいだった思う。

 俺がすいすいと上るジャングルジム。陽佳が恐る恐るあとを追ってこようとした。だった2段しか上ってないのに、小さく震える陽佳を、俺は迎えに行こうとした。手を貸そうとして、右手を伸ばした。けれど、俺の力では陽佳を引き上げることが出来ず、片手だけになった俺は、そのままそこから落っこちた。と、言っても1メートルもない高さから落ちただけだ。

 陽佳が慌ててジャングルジムを下りてきて、途端にわっと泣き出した。

 俺は膝をすりむいていた。

「俺のせい?」

 陽佳が訊ねた。

 俺は、その血を見つめながら、その言葉を頭の中でリピートしていた。

 俺のせい?

 ああ、俺、陽佳のせいで怪我をしたんだ。

 血。

 そして、痛み。

 突然、俺の感情が、激しく揺さぶられた。

 なっちゃん?

 その滲む血を凝視していた俺に、陽佳が呼びかける。

「俺の、せい? 痛い? なっちゃん」

 陽佳の、せい。

 俺は陽佳を見つめ、それから突然立ち上がり、ジャングルジムを上った。陽佳が呆然と俺を見ていた。

「陽佳」

 そのてっぺんで、俺は幼馴染みの名前を呼んだ。

「なっちゃん──」

 あいつが俺の名を呼ぶ前に、俺は、そこから落ちていた。着地する気はなかった。だから、俺はまともに身体を打ちつけた。遠くなっていく意識の中で、陽佳が俺の名前を呼び続けていたことだけを、覚えている。

 気がついたのは病院のベッドだった。腕の骨折、足首の捻挫、あちこちに擦り傷。

 母親にはとにかく怒られた。

 ベッドの横にちょこんと、陽佳がいた。

「なっちゃん」

 泣きそうな顔をして、言った。

「──どうして?」

 俺は答えられなかった。

 あの傷が。

 あの、血が。

「俺のせい?」

 陽佳がそう言って、めそめそと泣き出した。

 お前のせいだ。

 そして、お前のおかげだ。

 あの日から、俺は傷や痛みに執着する。

 お前の泣き顔を思い出し、お前の言葉を思い出す。

 俺の、せい?

 包帯の下で、真っ赤な血を滲ませるその傷を、えぐりたいと思うほどに。

 それを口にしてはいけないことは、子供ながら分かっていた。だから必死で隠す。

 俺は元々活発だったが、その日を境にその度合いは増し、生傷の耐えない子供になった。

 気付かれないように、遊んでいてついうっかり、とか、運動していてエキサイトして、とか、そんな理由をつけては、傷を作った。

 そして、年を重ねていくたび、それは少しずつ、自傷に代わっていった。

 もちろん、大っぴらにはできない。だから、誰にも気付かれないような場所を選んで、傷を作る。

 腿の内側、二の腕、腹部。細く、小さな傷を作る。そこから滲む血を指先で撫で付ける。

 俺は、そんな傷を、陽佳につけてもらいたいと思っているのだ。ずっと。

 こんな感情は歪んでいる。

 俺は、それを隠し続けなくてはいけない。

 だから、卒業した俺は、陽佳に伸ばした手を、ゆっくりと引いた。

 この純粋な笑顔を、涙を、汚させてはいけないのだ、と思ったから。


 二の腕の内側、新品のカッターナイフの刃をそっと当ててすうっと横に引いた。まっすぐに一本、線を引いたような傷口から、きれいな赤が滲んだ。俺はカッターを机に置いて、その傷を右手の指先で撫で、塗り広げるように動かす。指先をぺろりと舐めたら、ぞくりと身体が震えた。

 左腕を持ち上げ、口を寄せた。傷口に直接舌を当て、その血を舐め取る。

 自然と乱れ、荒くなる息が、俺の感情を表していた。

 あきよし。

 声を出さずにつぶやいたら、ますます震えた。

 心拍数は上がり、身体の内側が熱を持つ。

 舌の先で傷口をえぐろうとした。けれど、カッターで薄くつけた傷は、ぴりぴりとした痛みを感じるだけで、それ以上開くことはない。

 もっと、深く。

 もっと、痛みを。

 けれど、誰にも気付かれないようにそれを作るのは、無理だった。だから、こんな小さな傷で我慢する。

 血はすぐに止まってしまうだろう。

 物足りない。

 陽佳のこと、考え、そして、そう思った。

 震える手をゆっくりと下ろして、俺は机の上のカッターナイフを見た。

 それを手に取れば、今より少しだけ深い傷をつけてしまうだろうと分かっていた。

 もう何年も、耐えた。我慢の限界は近かった。

 俺は手を伸ばし、それを手にした。

 かちかちかち、と替えたばかりの新しい刃が姿を現す。

 息すら熱い。

 魅入られるように釘付けになっていると、ドアがノックされた。俺ははっとして、慌ててそれを机の引き出しに放り込んだ。返事もしないうちにドアが開いて、部屋に入ってきたのは陽佳だった。

「なっちゃん」

 昔から代わらず、俺をそう呼ぶこの幼馴染みは、今日も無邪気に笑いながら、何度言っても俺の返事を待たずに部屋に入る。

 俺は陽佳に背を向け、気付かれないようにまくっていたシャツの袖を下ろした。

「何か用か」

「用がなくても来るよー」

 陽佳はえーい、と俺の背中から抱きついてくる。この一年で、陽佳はまた背が伸びた。今じゃ俺より軽く15センチは高い。

 俺は抱きつかれて、びくりと身体を揺らした。身体はまだ熱く、心臓は勢いよく音を立てている。それに──俺はシャツを少しだけ引っ張り、心もち前屈みになった。

「なっちゃん、何かしてた?」

「──何か、って」

「一人エッチ、とか?」

 俺は振り向き、陽佳をにらんだ。

「ごめんなさい」

 俺が怒ったと思ったのか、陽佳は素直に謝った。

「だから、いつも、勝手に入ってくるなって──」

「うん、ごめんね、なっちゃん」

 陽佳はしつこくぎゅうと俺に抱きつく。ここで帰る、と言わないのが陽佳らしいのだが、さすがにばつが悪い。

「あのねー、俺、なっちゃんと同じ高校行くから」

「──は?」

「だから、勉強教えてね」

 3年になった陽佳が、進学のことを考えるのは当然だ。しかし。

「どうして同じ高校なんだ」

「なっちゃんと一緒がいいから」

「どうせ、1年だけだろ」

「うん。でも、1年でもいいから、一緒がいい」

 居心地が悪い。耳元で話す陽佳の声が、俺の体温をさらに上げる。俺の下半身の状態を知っても、まだ抱きついたままでいるこいつが、急に憎たらしくなってきた。

「いい加減、離れろ」

 俺は胸の前でクロスされていた腕を振りほどき、どんとその身体を押した。俺は片手でシャツを引っ張ったまま、再び背を向けた。

「なっちゃん」

「うるさいな」

「なっちゃん、それ、何?」

 振り向くより先に、俺の右手がつかまれた。持ち上げられ、陽佳が俺の指先を見つめた。人差し指と中指、さっき撫でるように塗り広げた血で汚れ、固まっていた。

「怪我、したの?」

「──いや」

「嘘。だって、こんなに──」

 そのとき、陽佳の視線が、俺の左腕に注がれた。慌てて目をやると、着ていた白いシャツに血が滲んでいた。その量はたいしたものではないが、薄い赤がじんわりと。

「怪我、してる」

 陽佳が、さっき俺が下ろした袖を、無理矢理まくった。血は止まっていた。けれど、その傷口を見て陽佳が、まるで凍りついたようになった。

「これ、切ったの? こんなところ、どうして? ──なっちゃん?」

 普段なら目に付かない二の腕の内側、しかも作為的に作った、小さな切り傷。

 俺は目をそらす。

「さっき、俺が部屋に入ったとき、袖、下ろしてたよね」

 陽佳は俺の腕をつかんだままだ。そして、その視線はまっすぐに俺を見ている。

 にょきにょきと背を伸ばし、いつの間にか体格までよくなって、今じゃ俺はこいつと並ぶと小柄で華奢に見えてしまう。昔はあんなに小さくてかわいかったのに。いつも俺のあとを追って。

「離せ」

 俺は言った。

 陽佳は俺の腕を離さない。

「自分で、つけたの?」

 答えたくなかった。

「なっちゃん」

 陽佳の声が変わったのはいつだっただろう。初めてその変化に気付いたのは小学生のとき。少しかすれた声が気になるのか、何度も咳き込みながら、俺を呼ぶ。

 なっちゃん、なっちゃん。

 少しずつ変わっていったその声は、今じゃあの頃の名残りはまったく見当たらない。

「自分で?」

 再び問われた。

 俺の身体中が熱く、その声が耳に届くたび、胸の奥が重苦しく痛む。

「──勃ってる、よね」

 治まるはずがなかった。当たり前だ。俺の感情は、痛みと、血と──

「お前、が──」

 そして、陽佳に、反応する。

「傷で、興奮するの?」

 陽佳の少し怪訝そうな、けれど、不安そうに歪んだ顔が、俺を見ていた。

「それとも、俺で?」

 痛みに震える夢を見る。けして恐怖や不安ではなく、それは恍惚にも似た期待感。

 がりがりと傷に爪を立て、皮膚を破り、肉をかきむしる。その傷に舌を這わせて、血を舐め、痛みを刻む。

 お前の名を呼ぶ。お前の姿を想像する。お前の声を思い出す。

 すべて、俺の執着。俺の妄想。

 なにもかもが。

 傷の上を、陽佳の手が滑る。

 びくりと身体を揺らすと、驚いたような顔をして、陽佳は俺を見た。

「なっちゃん」

 その傷に爪を立てるのも、舌を這わせるのも、お前がいい。

 そればかりを、考えていた。

「俺の、せい?」

 陽佳がつぶやく。

 ぐっと奥歯を噛み締めた俺を、陽佳が抱き締めた。

「俺のせい?」

 今度は耳元で、その声がした。

「なっちゃん」

「お前のせいだ」

 俺はその背中に腕を回し、きつく抱きついた。

「お前のせいだ。お前のせいだ。お前の──」

 ジャングルジムの前で、お前が、言った。

 俺のせい?

 あの日から、俺はぐるぐると、自分でも理解できないこの感情に支配されている。

「お前の、せいだ」

 傷、痛み、流れる血、そして、お前。

 俺を昂ぶらせるものは、お前のあの言葉が気付かせてくれた。

「俺のせい」

 まるで自分に言い聞かせるように陽佳がつぶやく。

 俺はさっきよりきつく、抱きつく。

「なっちゃん」

 再び、名前を呼ばれた。

「俺は──どうすればいい?」

 まるで、天使のささやきのように。

 けれど、間違いなくそれは、俺たちを破滅へと向かわせるはずだった。それを分かっているのに、俺はその言葉に身体が震えた。

「──触ってくれ」

 俺は言った。

 机の中のカッターナイフ。引き出しいっぱいに詰まった無数の替刃。

 痛みと、傷と。

 その血をお前になすりつけ、その声を聞きたい。

 これが、お前を汚すことになる一言だとしても。

 俺は陽佳を見つめて、ささやいた。

「俺を、壊して」

 陽佳の目が、急激に、ぎらりと光ったように見えた。けれど、それを確認する前に、荒っぽく唇が重ねられた。

 いつもにこにこと俺のあとをついてきた2つ年下の幼馴染みは、その純粋な目の輝きをきっと失ってしまうのだろう、と俺は思った。

 母親に抱かれていた、小さなこいつが、手を伸ばしてきた。

 まっすぐに、俺を見つめて。

 その手を取ったのは俺。

 俺の執着は、あの日から、始まっていたのかもしれない。

 傷ついた腕をきつくつかんだ陽佳の指が、ぎりぎりと食い込む。

 爪が皮膚を破ればいい。

 そこから流れる血に舌を這わせて。

 乱れた息で、俺は言った。

「名前を、呼んで」

 お前の声が、聞きたい。

 耳元で俺を呼ぶその声は、甘く、惑わすように。

 お前の手を取ったは、俺。

 執着しているのは、俺だった。

 そのとき、陽佳の指が、俺のつけた小さな傷をぷつりと引き裂いたのが分かった。


 了

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