第4話 Ⅲ

 ダロア最大の牧場ハマダーンの馬場には朝から大勢の人が詰めかけていた。昨日の昼に公開試乗会の報せが町中に届いたからである。ハマダーンがわざわざこのような報せを出すのはただ一頭、町で最も有名な暴れ馬インバラトゥーラに挑戦者が現れたときだけであり、多いときで年に七回もあった四年目になるこのイベントはもはや立派な興業として成立しており、なんと牧場主催で賭けが行われるほどである。

 今回も前日から簡易的な会場作りが行われ、柵の外に群れる観客たちはそれぞれ売店で買ったシャワルマ(いわゆるケバブ)を片手に予想を繰り広げている。

「今回のやつは何分もつかな?」

「せめて五分はもってくれねえとここまで足を運んだ甲斐がないってもんだぜ」

「そういや聞いたか、挑戦者はあの髑髏の箱を手に入れたやつらしいぞ」

「なんだ、魔術師なのか?」

「いや、組み立てたのは有名な連盟魔術師で、その連れだそうだ」

「ふうん、連盟魔術師ってことは連れも外国人だろう? ジブラ人ですら手懐けられない暴れ馬を、外国人が乗りこなせるとは思えねえなあ」

「魔法で操っちまうかもな」

「そんなことしてみやがれ、わかった瞬間ここにいる全員が暴動を起こすぞ」

「違いない!」

 別の場所では、

「おい、聞いたか。挑戦者は海陽人らしいぞ」

「まじかよ、絶望的じゃねえか」

「ああ、今回は一番早いかもなあ。なにせあのダウードですら死にかけたんだ、騎馬下手な海陽人じゃ一分ともたんだろう」

「思い出乗馬にゃ贅沢すぎる場になっちまったな。可哀想だから一分以上に賭けてやるか」

 このように賭けは成功か失敗かの二択ではなく、圧倒的多数の失敗予想の中でもどれだけ乗り続けられるかというのがメインとなっていた。

 そんな屈辱的な予想をされているとは知らないレッコウは、一日待たされた鬱憤を晴らすように気炎万丈と厩舎で準備体操に励んでいる。骨しかないくせに必要なのかなどと、もはや師弟は問わない。昨日から興奮しっ放しでうるさかったレッコウにうんざりして、もう好きにしろと完全放し飼い状態である。

 関係者くせに赤の他人のように離れて待機する師弟とは反対に、インバラトゥーラのブラッシングをしている糸目の職員マリクは楽しげであった。

「やっぱり走りたいか、インバラトゥーラ。そうだよなあ、そのために生まれてきたんだものなあ」

 ブラッシングを終え、ポンポンと首筋を優しく叩く。彼はこの道二〇年の年季とインバラトゥーラが生まれたときから世話をしてきた経験から、今この暴れ馬が胸の内に静かな情熱を秘めてその温度を高めていることを察していた。巨大で不遜で剛毅なこの馬はそれゆえに満足のいく騎手に巡り合えたことがなく、それゆえにどんな挑戦者も乗る前から拒絶することはなかった。

「乗りたいなら乗ってみろ。ただし気に食わなければ殺すぞ」

 まるでそういっているように、マリクには思えた。それはつまり、人を見下したような顔と態度であっても本当は外の世界で駆け回りたいのだということ。この三年ですべての挑戦者を地べたに這いつくばらせてきて、それでも挑戦を拒否せず上から目線を崩さないのは、いずれ現れるであろう相応しい騎手との出会いを信じて疑わないロマンチストともいうべきメンタルの強さがあるということだ。

「王の馬、か」

 昨日のレッコウの言葉が妙にしっくりきた。

「騎手が人の王ならおまえは馬の王だな。地上に二王は並び立たぬというが、馬と騎手なら問題ないな」

 などと埒もないことを呟きながら鞍をつける。するとインバラトゥーラが急かすようにマリクを見ながら身じろぎしたので、彼は細い目を見開いた。

「そうか。あの人はダウードさん以来の英傑か」

 これでマリクはすっかりレッコウを応援する気になってしまったのだった。

 素早く腹帯を締めて装勒が完了すると、マリクがレッコウに告げるより早く、レッコウが確認するより早く、インバラトゥーラが嘶いた。

「オオッ! おぬしもやる気であるか!」

「さあ、行きましょうか」

 二人は一頭を伴って、馬場へと向かった。



 厩舎を出るとレッコウはまず観客の多さに驚いた。そして自分の評価が著しく低いとわかる腹立たしい声援を受けてますます気合いが漲るのを自覚する。

「レッコウさん、気にしないでください。いつもこんな感じですから」

「構わぬよ、若きころを思い出す。吾輩が再び世に出るに相応しい舞台ぞ」

 マリクが不思議そうな顔をしたのを笑って受け流し、レッコウは馬場へ入った。

「ちと狭いな」

 会場となる角馬場を見渡していう。これでもこの牧場内では広いほうで、柵で四角に区切られた内部は一辺がおよそ一〇〇メートルはある正方形に近い形をしているが、レッコウの見立てでは狭かった。

「おぬしももう少し広いところがよかったであろう」

 インバラトゥーラを見上げると、変わらぬ表情でちらりとレッコウを見返し先へ進んだ。

「早く始めよということか。よし」

 レッコウはあとを追い、マリクがとめたところでいよいよ試乗会が始まる。

「せめて一分はもってくれよー!」

「そのかっこいい鎧が壊れないようになー!」

 そんな声を無視して、手綱を掴む。

「お気をつけて」

「うむ、ご苦労であった」

 マリクは素早くその場を離れ、その間にレッコウは鐙に足をかけて高い背へと飛び乗る。

 その瞬間であった。

 インバラトゥーラは空をつんざくような激しい嘶きを上げながら垂直になるほど棹立ったではないか。

 ただでさえ巨大な馬が棹立ちとなる姿は危険という名の迫力があるというのに、インバラトゥーラはその後半身の尋常ならざる強靭さを見せつけるかのように反り立ちながら首も思い切り反らし、本気でレッコウを振り落としにかかったのだ。

 誰しもが、最も見慣れているマリクもが、これで終わったと思った。シュネルドルファーなどは即座に目を覆ったほどである。

 しかし、レッコウは落ちなかった。

 まるであらかじめ知っていたかのように手綱を短く握り、両足で巨大な馬体を締めつけて耐えて見せたのだ。

 そしてインバラトゥーラは駆け出した。いきなりの全速力である。有り余る馬力のすべてを地面に叩きつけるように踏みしめては蹴り上げ、一直線に柵の向こうを目指して駆け出した。

 そう、誰がどう見ても減速する気がないのは明白であった。幸いその方向に観客はおらず別の馬場があるだけだったが、その柵を跳び越えるどころか体当たりでぶち抜き、あっという間に遥か彼方まで走り去ってしまった。

「嘘だろ……」

 そんな声が、取り残された観客たちから上がった。

「インバラトゥーラがいきなり全開で飛ばすなんて、ダウード以来じゃねえか……」

 かつて挑戦し敗れた王都の戦士ダウードもまた、今回と同じようにいきなりの棹立ちから全力疾走を受け、最長の一六分を記録したところで振り落とされ、あばらと両腕を踏み砕かれている。

 観客たちが意外な展開にざわついていると、すぐにインバラトゥーラは戻ってきた。今度は柵を跳び越え、着地したと思ったら再び棹立ちし、右へ左へ高く低くと跳ねながら馬場の中を駆け回る。

 それでもレッコウは一向に落ちる気配がなかった。インバラトゥーラの呼吸に合わせて体勢を変え、ときにはわざと落ちそうなほど傾いたりたてがみを掴んだりしながら、ぴったりとその背に張りついている。

 その様子が一分、二分、三分と経過すると、会場の空気は次第にひとつとなり熱量を上げていった。

「行けっ、まだ落ちるな!」

「いいぞ、海陽人!」

 レッコウが無様に振り落とされるところを期待していた客たちは掌を返して最後までしがみついていられるよう後押しすべく声援を飛ばす。それはオイゲンも同じで、大半の客と同じように思い出乗馬くらいにしか考えていなかったのだが、そんな考えを吹き飛ばすほどの奮闘を、レッコウは見せているのだ。そんな姿を見せられては応援せずにはいられなかった。

 そしてシュネルドルファーもまた、その熱気に当てられていた。声には出さないが馬上の様子に一喜一憂し、気づけば拳を握りしめているのだ。

 インバラトゥーラがまたも全速力で駆け出した。

 最初と同じ方向へ首を真っ直ぐ伸ばして、前方の風を切るではなく粉砕するように力強く突き進む。柵まで行くと、体当たりするでもなく、跳び越えるでもなく、今度は急減速して地面を滑り、それが収まる前にまた棹立ちとなった。

「お見通しよ!」

 レッコウはたてがみにしがみついてやり過ごし、直後の跳躍にも対応して再び訪れた広い芝の馬場をインバラトゥーラの走るがままに任せた。

「おぬし、見た目以上に丈夫であるな! 感服したぞ!」

 どうやらもっと先に見える山のほうまで行きたがっていると感じたレッコウは、少しだけ上半身を浮かせてようやくまともな騎乗姿勢を取った。

「走りたいなら走るがよい、ここはおぬしの巨躯には狭すぎよう。気が済むまでつき合うぞ!」

 言葉が通じたのか、言葉に込められた意思が通じたのか、はたまた単なる偶然か、インバラトゥーラはもう跳ねることもとまることもなく、ただひたすら真っ直ぐ走り続けた。

「おうおう、相も変わらずなんとも珍妙な地形よ。緑の山の隣に小さな砂漠が横たわっておるわ」

 その言葉に特に意図はなかったが、インバラトゥーラはゆるやかに右に曲がり始め、その砂地を目指したではないか。

「ホウ、砂地でも走れると申すか」

 勝手にそう解釈し、本当に砂地へ入るとますますインバラトゥーラの身体能力の高さに驚かされた。ただでさえ重い体が砂に足を取られ大変な負担になるというのに、少々速度が落ちただけでものともせずに走り続けるのだ。

 このとき、インバラトゥーラが目をつぶっているのをレッコウは見た。舞い上がる砂埃を避けるためではあろうが、見えないのではいくら怪物馬といえどもまともに走れるはずがない。だから、

「よし、ここから山に登ろうぞ!」

 手綱を左に引いて方向転換を促した。

 果たして、インバラトゥーラは従った。

 目を閉じたまま、レッコウの指示通りに走り始めたのだ。

「よい馬だ、本当によい馬だな!」

 興奮のあまり、レッコウの舌なき口からは海陽語が飛び出していた。

 すぐに砂地を抜け緑溢れる斜面に差し掛かると、レッコウはあえて悪路を選んで走らせる。インバラトゥーラならばなんの問題もないとわかっていたし、少し飛ばしすぎたため自然な形で速度を落とさせたかったのである。

 やがて半ばを越え、頂上まではほとんど障害物がないことがわかると、再びインバラトゥーラは速度を上げる。

「そう慌てるな、わが乗馬となればこれからいくらでも走らせてやる」

 右手を手綱から放し首を撫でる。

「おれには夢があった」

 もはやなんの疑いもなく空を見上げる。

「海陽を統一し、平穏な国となったのちは海を渡って大陸へ降り立ち、おぬしのような精悍な馬を駆って世界を見たかった」

 手綱を握る手に力がこもる。

「それは果たせぬままおれは死んだ。だが聞くに、わが友はそれを成したというではないか。生きているうちに、この短い人の時の中で!」

 レッコウの昂ぶる気に当てられてか、インバラトゥーラはますます勢いづく。

「人生とは短い旅、しかし旅をするには世界は広い、広すぎるのだ! それがなんの因果かこうして蘇り、もう一度この旅を続ける機会を与えられた。そのお陰でイザークやオイゲンに出会い、今おぬしに跨って大陸を駆けている!」

 ばっ、と両手を天に広げた。

「この広い世界を旅する機会を得たのだ! おれは見たいぞ、海陽にはなかったものを! かつて憧れたものを今度こそ手に入れたいぞ! 秘術かなんだか知らんがどの道いずれは朽ちゆく命、であれば自由でありたいではないか!」

 インバラトゥーラの健脚が頂上の土を踏みしめ、

「おぬしもそうだろう、インバラトゥーラよ!」

 嘶き、棹立つ。

 その姿はまるで天まで届けといわんばかりであった。



 ゆっくり下山して会場まで戻ってきたレッコウは、万雷の拍手で迎えられた。砂地を駆け、手綱を操り、山を登ってともに頂を踏む姿はこの会場からも見て取れ、もはや一人の例外もなくレッコウをインバラトゥーラに相応しい騎手と認めたのだ。

 マリクなどは感涙を浮かべていた。

「ついに出会えたんだなあ、インバラトゥーラ……」

 頷くように鼻を鳴らしたその顔が、満ち足りているように彼には見えていた。

「レッコウさん、おめでとうございます。彼女はあなたとともにゆくと決めたようです」

「なんと!? 牝であったのか!?」

「ええ、インバラトゥーラとはこの国の言葉で女帝という意味です」

「おまえ、フーバーン語はわかるのではなかったのか?」

 とは、すっかり諦め顔のシュネルドルファー。

「はて、とんと覚えのない響きなりけり」

「くそう、情けをかけて二分に賭けていたというのにとんだ裏切り者だ。馬の代金だけでも大損だというのに」

「器の小さき男よのぉ……」

「ああ、それなんですが」

 マリクは鼻をすすりながら観客の一角を指差した。

「あちらのごくごく少数のもの好きな方々が成功するほうに賭けてましてね、成功したら自分たちが配当金から払うといっているんですよ」

「まことか!?」

 見ると、十人ばかりが手を振っている。これを多いと取るか少ないと取るかはともかく、賭けに参加していた観客は四〇〇人を超えているからその金額がすべて流れ込んだとすると相当な額になっていることは間違いない。

「それに馬具も一式差し上げます」

「なんと!?」

「おいおい、そこまでされるとさすがに怖いぞ、特にジブラスタ人は」

 マリクは糸目を本当の糸のようにして笑った。

「今つけている鞍などもそうなんですが、馬具は以前挑戦したダウードという高名な戦士が、もしインバラトゥーラを乗りこなす者が現れたらこれを祝儀代わりに贈呈するようにと頼まれていたんですよ」

「なんと……風蛮にも実に粋な武士もののふのおることよ。そういうことであればありがたく頂戴しよう」

「現実離れした骸骨に規格外の暴れ馬……面倒なことになりそうだ」

 シュネルドルファーは素直に喜べず、相変わらず不遜な顔をした馬を見上げる。

「でも先生、結局ただで全部手に入ったわけですからむしろ幸運の兆しかもしれませんよ」

「だといいがな……」

 インバラトゥーラの傲岸不遜な顔がぶるんと鼻を鳴らし、それがどうにも馬鹿にされているようで面白くないシュネルドルファーであった。

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