第8話
何十人もの男たちが暴れている。広場の中は土煙がのぼる。腕や脚、髪の毛や服など、互いに掴み合い、野犬が獲物を求めて走り回る闘争に等しく、互いに殴る蹴るなどしていた。他の人々は遠巻きに見ているだけである。
罵声が絶え間なく飛び交う。
「こりゃまた派手に、ひどいな」
女士官の後ろで、あきれた声があがる。軍曹であった。あとから急いで駆けつけてきた様子らしく、肩で息をしている。
「食料が行き渡らなかったのか、つまらない理由が発端か。奪い合いのようですね。まるで西部劇の酒場だ。他のところでは静かに並んでいるのを見たことはありますが……」
離れた一角で、老人が途方にくれている。松葉杖、車椅子など、体を思うように動かせない者。そして親子連れが怯えた面持ちに染まり固まっていた。軍曹は略帽を被りなおし、戦場を見ているような警戒心の目となる。
無秩序な群集の怒声が高くも低くも。
三人ほどが、灰色の砂を敷き詰めた地面の上に倒れており、うめき声をあげていた。口や鼻から血を流している者も何人か。どこやらの民間団体のノボリやビラなども地面に散らばり、土埃をたちあげる男たちに踏みつけられていた。
食料を配給していた人らは、止める手立てもないふうで震えている。なかには、自分の恐怖心に耐えかねて薄ら笑いしている初老の女性も一人、二人。
女士官は、そんな光景に興味がないらしい。視線は他へ向いていた。何かを探しているのである。
広場の隅の、大きなイチョウの木を目に止める。
その大木の根元で小さな女の子が二人、身体を寄せあい、しゃがみこんでいた。一人はワンピースを着てぬいぐるみを抱いている。隣のもう一人はパーカーと半ズボンである。着こなしにあまり清潔観はない。
「一見してホームレスの子供ですね」
「………」
軍曹も女士官の注目に合わせていた。軍曹の説明は、女士官の耳に入っていたが、しかし返事はこない。
イチョウの木を急場の避難所とする女の子たちは、大人たちの姿が知性を失っている怪物のように映っているのであろう。入り乱れて戦う怒声が一声あがると、特にワンピースの子は、その大声を耳にするたび、肩をピクッと震わせる。
葉はあるが枯れ枝もつけているイチョウの老木が一本、少女たちを静かに守っているふうだ。
女士官は、口を結んだまま、彼女たちへ近づく。
「まって下さい大尉殿! ここは危険ですよ。我々は銃を持っていないのですから」
軍曹が声をあげて止めようとする。だが彼女は足を止めない。
おさなげな女の子たちは、近づいてくる軍人へすぐに気づいた。二人とも顔色をかえて立ち上がる。ワンピースの子は肩を畏縮させておののく。半ズボンの女の子は、怖がるワンピースの子をかばおうと前に立ち、女の軍人をじっと見つめて迎えた。
「こんにちは、お二人の名前は?」
女士官は、挨拶してみた。
「違うよ! 二人じゃないよ! 三人だもん!」
尋ねられて憮然と返してきたのは、ワンピースの子だ。小鳥が身の危険を察知して仲間に鳴いて知らせるような高い声である。ぬいぐるみをぎゅっと抱き締めなおす。
「ごめん、気づかなかった。三人だね。これを受け取ってくれるかな?」
すぐに謝った女の軍人は、紙袋から焦げ茶色の紙と銀紙に包まれている四角で平べったいものを一枚取り出した。
「はい、チョコレートだよ」
女軍人はチョコレートを差し出したまま。半ズボンの女の子はその軍人へじっと目をすえる。ワンピースの女の子は、半ズボンの子の背後から顔の半分だけを出しておっかながっているままである。ぬいぐるみを含めて四人とも動かない。
そこへ軍曹が、周辺へ目を配りつつ、女士官の後ろに控えた。彼女が軍用車のときとは違う心積もりを見せた事にため息をつく。
「大尉殿、ここは危険ですって……」
軍曹の再度にわたる忠告に女士官は耳を貸すつもりはまったくない様子だ。彼女は手に持つ板チョコレートを、半ズボンの子と自分の視線が交差する中間点にかかげる。
「信用してくれないかな。私はアメリカ軍の兵隊さんでね。捕まえにきたわけではないよ。大丈夫、毒なんか入ってないよ」
口元に笑みを浮かべた女士官は、チョコレートの包みをやぶってひとかけらを口に入れてみせた。
「ね? わたしも食べてみた」
そしてふたたびお菓子の贈り物を持たせようと差し出す。
半ズボンの子の視線が軍人からチョコレートへ移った。注意深く手をのばし、一角の欠けた板チョコレートをようやく受けとる。
まだ続いている騒乱の暴力的な大声は遠くにまだ聞こえる。
半ズボンの子は、チョコレートを受け取ってみたものの、戸惑いの表情を浮かべた。
「ありがとう、とだけ言えばいいのですか? お金はないから身体を売るしかないのだけれど……」
少女の口から出された声音はしおらしい。しかし、言葉の内容は聞いた大人しだいでは不快になるか、それともよからぬ企みで応じるか。女軍人は肩をすくめてみせた。
「ありがとうだけで充分。お名前は?」
「……サヤ……」
「うしろのワンピースの子は? お友達?」
「この子はアカリといいます。でもこの子は名前を忘れてしまって……だから、わたしが名前をつけました」
「……そうか、はじめましてアカリちゃん……その抱いている子のお名前は?」
女士官は、ワンピースの子にも声をかけてみるが、小さな身体はサヤの後ろへすっかり隠れてしまった。女士官は、紙袋からもう一つ板チョコレートを出し、“守護者”へ手渡すと次に、箱入りキャラメルをつかませた。
様子を見ている軍曹は眉をひそめながら、首を左右にふり、細めた唇から息を吹く。
「やれやれ……」
軍曹の横やりなつぶやきは、女士官の機嫌を損ねた。目角をたてられた軍曹が近寄りがたく口をつぐんで、ようやく彼女は優しい顔へと作り直しサヤたちを眺める。
「この兵隊さんは、私の古い付き合いで……戦友……でもないか。友達だから、気にしないでくれ」
サヤは持っているお菓子を背中にくっついているアカリへ渡す。だが、サヤはまだ警戒心を解いていない。
「軍人さん、会ったこともないので、お名前を聞いていいですか?」
「これは失礼した。わたしの名はルシア、ルシア・リムスキー」
目の前に立つ女性が名乗ると、サヤは、背後で隠れているアカリへまた一つのお菓子を手渡す。
だが突如、遠くから地面を踏む靴の音がいくつもわざとらしく鳴り、女士官たちのところへ近づいてきた。数人の男らの影が女士官たちをにらんでくるではないか。
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