自転車
大盛り上がりのカラオケ大会は、財布の中身と終電をなくしてしまった。
駅前に1人、残される私。
冷たく浮かぶ月、静まりかえった商店街。
タクシーの運転手とチラリと目が合うが、そんな金は無い。ああ、調子にのってレンタルのコスプレ衣装で踊りまくり、破いて汚して弁償させられなければ、こんなことにはならなかったのに。
家までは5キロ。私はとぼとぼと歩き始めた。
と、そこで。
1台の自転車が目に入る。
道端にとめられた、スポーツタイプのクロスバイク。新品同様ぴかぴかで、特にタイヤは鮮やかな青のカラータイヤだった。
《鍵がかけられていない》。
近くには、誰もいなかった。開いている店もない。明かりのついた窓もない。
私は、自転車にまたがった。
駅前通りを軽やかに、涼やかに飛ばす。
ゆるやかな下り坂、ほとんど漕がなくてもするすると進んでいく。交差点にさしかかった。信号は青だ。
「ひゅうっ!」
ブレーキなどいっさい踏まず、走り抜けた。
次の信号も青、次も青。快調だ。
道行く人を、次々と追い抜いていく。帰り道を急ぐサラリーマン。ふらふら千鳥足の酔っ払い。犬を散歩させているおじいさん。制服を着た警察官。
「!」
内心ドキッとしたが、ここで不自然な行動をとっては余計に怪しまれる。私はスピードをゆるめることなく、素知らぬ顔で追い越した。少したってから振り返ってみると、どこかで曲がったのか、警察官はもういなかった。
「ふうっ」
やった。やってやった。捕まらなかったぞ。
私は心の中でほくそ笑んだ。
そうだ、そもそも捕まる理由なんか無い。世の中には悪いことをしている人がたくさんいる。殺人、虐待、脱税、窃盗、警察官の不祥事だって毎年のように起こってる。そんな中で、自転車を盗んだくらい何だってんだ。もとはといえば、この自転車だって違法駐車じゃないか。
私は悪くない。
そう思って、私はカーブを曲がるため、車体を傾けた。
が、自転車の速度が落ちない。びっくりしたが、私は必死で体勢を立て直し、なんとか道を曲がりきった。
「くそっ、なんだよ」
私は乗っている自転車に向かって毒を吐いた。依然、真っ青なカラータイヤは、足に力を入れずとも高速で回り続けている。タイヤが古くてすべったのか? 路面が濡れていたのだろうか? 冷や汗をかいて額をぬぐい、私は顔を上げた。
そして気づいた。
視界に写る景色が、せり上がっていることに、
「えっ……」
坂を上がっている!
私は、ペダルに置いた足にまったく力を入れていなかった。だが、自転車は走り続けている。下っているなら当たり前だが、いまは上り坂だ!
「ひっ」
反射的に、ブレーキレバーを握る。
だが、何も起こらない。見ると、ワイヤーが途中で切れていた。両方ともだ。これでは、ブレーキなど効くわけがない。
「わゎっ!」
怖くなって、私は足をペダルから離そうとした。
離れなかった。
靴を脱ごうとした。ダメだった。
くっついてるとかひっかかってるとか、そういうことではない。まるで足と靴とペダルが1つの物体になったかのように、ガッシリと、動かないのだ。どんなに引っぱっても、どれだけ力を入れても。
そうしている間にも、ペダルは回り続けている。
自転車は走り続けている。
車が出てきた!
「ひぃっ!」
私は無我夢中でハンドルを操作し、私は車を避けた。背後からけたたましいクラクション。だが、振り返る事なんて出来ない。自転車は走り続けているのだ。
ブレーキも効かない、足も離れない。
止まるどころかスピードを落とすことさえできない。
「はっ、はっ」
私は肩で息をした。
いま走っているのは4車線の大通り。
だから深夜とはいえ、それなりに交通量がある。路上駐車を避けて車線の真ん中によると、真横を大型トラックが走り抜けていく。かと思えば、タクシ-が目の前を横切って急停車。そんな状況でも、止まることはおろか減速もできないのだ。
すでに、全力で漕いでいるときくらいのスピードは出ていた。
そこに無灯火のチャリが飛び出してくる。
「バカ!」
衝突しそうになるが、ブレーキは効かない。私は、逆に速度を上げることでそれを回避した。だが、またスピードが上がってしまった。ハンドルの下に見える青いカラータイヤが、ちぎれそうなほどに回転している。
「ど……どうすれば……」
そして。
さらに最悪のことが起こった。
目の前の信号が赤になったのだ。
でも止まれない。車が左右から行き交う交差点に、私は飛び出していった。
「わああぁぁあぁぁ~!」
ペダルを強く踏み込む。耳をつんざく急ブレーキの音、眩しいヘッドライト、投げつけられる怒号、クラクション、クラクション、クラクション。
私はなんとか生きていた。
「はーっ! はーっ!」
爆発寸前の心臓、気が狂いそうだ。
だが自転車は止まらない。それどころか、さらにスピードは上がっている。前を行く原付バイクを、私の自転車は軽々追い越していった。
「な、何キロでてんだよ!」
空気の壁に叩きつけられているようだ。風が目に入って、まぶたを開けていられない。ハンドルはがたがたと揺れ、握っている手がしびれてくる。だんだんと自転車をコントロールするのが難しくなってきた。
「もし……こんな速度でコケたたら……」
きっと大ケガでは済まない。
「なんとかして止めなくちゃ……」
そこで、私は思いついた。
近くに川がある。
そこに飛び込もう。昨日は雨だったから、水量は多いはずだ。たぶんケガをするだろうが、このままいつかアスファルトに叩きつけられるのを待つよりはマシだ。
私はハンドルをきった。
しばらくすると、橋が見えてきた。その下が川だ。私は欄干の低いところを狙って突撃した。私の身体は自転車ごと、空中に放り出された。
衝撃、冷たさ、水、息が詰まる。
「ぷはっ!」
私は水面から顔を出し、溺れないようにと必死でもがいた。だが、足が動かない。足は自転車のペダルにくっついたままだった。
私は自転車と一緒に沈んでいった。
水深は2メートルほどだろうか。
流れはゆるやかで、立つことさえできれば何とかなる。
けれども、私の両足は自転車のペダルから離れない。その車体がおもりになって、沈んでいくしかなかった。
青いカラータイヤが、川底に着く。
すると、ふたたび自転車は走りだした。
水の中を。
地面とおんなじスピードで。
「がぼ! ごぼぼぼっ!」
口の中に流れ込んでくる大量の水。私は、意識を失いかけた。腕を伸ばし、ハンドルをつかめたのは、奇跡だっただろう。
青いカラータイヤの自転車は、コンクリートの川岸をかけ上る。
そして水から出ると、また地面の上を走り出した。
「げはぁっ!」
私は水を吐き出しながら、ハンドルにもたれかかった。全身ずぶ濡れだ。しかも、自転車のスピードはまだ上がっている。
濡れた身体を風が吹き付け、凍えるほどに寒かった。
意識がもうろうとしている。
どこを走っているのかさえ分からなくなっていた。
「うう……」
心臓は激しく鼓動を打ち、肺は締めつけられるように苦しい。体中が冷え切って感覚が無い。辛くて辛くて、私はあきらめた。
「もういいや……」
死んでもいい。私は両手を離し、上半身を投げ出した。
自転車は傾いた。
けれども、倒れなかった。
斜め45度に傾いたまま、走り続ける。死ぬこともできない!
「ぁぁあああああああ!!!」
私は半狂乱になって叫んだ。
自転車のスピードはさらに上がった。景色が飛ぶように後ろに流れていく。
「殺せ、殺せぇ! 助けてくれぇー!」
ガシャァアン!
視界が回転した。叩きつけられ、引きずられる。全身に爆発するような痛み。私の意識は、覚醒した。
「うぅ……」
見ると、1台の乗用車が停まっていた。その下には、グチャグチャになった青いカラータイヤの自転車。そして、私の足。
私の両足はちぎれていた。
だから、私は投げ出されたのだ。身体じゅうの骨が折れ、皮膚は傷だらけ。アスファルトで強くこすられ、顔はズタズタになっていた。
乗用車の運転手が降りて、駆け寄ってくる。
おい君、大丈夫か!
私はちぎれた足で膝立ちになり、折れた腕で運転手にしがみついた。そして血まみれの髪を振り乱し、割れた頭を向け、肉が半分こそげた顔で、歯の欠けた口から、絞り出すように言った。
「あ゛り゛が゛と゛う゛!!」
運転手は卒倒して、救急車を呼んではくれなかった。
半年後。
私は奇跡的に生きていた。もちろん両足は切断されたままだし、部分的な麻痺と言語障害が残っている。いまだに固いものは食べられない。
リハビリに費やす毎日だ。
あの自転車のことは、誰にも話さなかった。
話しても信じてもらえないだろうし、そもそも、入院してから数ヶ月はしゃべる事ができなかったのだ。
「ふぅっ」
私は義足の両足で、病院内の売店まで来ていた。リハビリがわりにと自分の病室から1人で来たのだが、想像以上にきつかった。
壁によりかかって休憩する。
「くそ、車椅子で来りゃよかった」
そう思って顔を上げると。
目の前に、青いタイヤの車椅子があった。
短編集 狐 @empire
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