スーパーウルトラホームランバット

 空に大きな放物線を描く白球。

 沸き上がる歓声、響き渡る叫声。

 まるで時間が止まったようなスタジアムで、ゆっくりとベースを回るあいだは、すべての視線が自分を賞賛している。

 ホームランには魔力がある。

『打ったぁ! 大きい、大きい、これは大きいぞ! 入るか、入るか、入った! ホームラン! 逆転サヨナラ優勝決定ホームラァァァン! これぞ4番! チームを勝利に導く一打だ!』

 スマホで再生された動画には、自分がいた。

 3年前の自分だ。

『はい、もう必死で。最後の最後にみんなが、つないで回してくれたんで。絶対に打ってやろうと。このチームで優勝したいと』

 涙目のインタビュー。この頃は、まだ前髪が残っていた。

「……ふう」

 そうしているうちに、車が止まった。

 個人用の練習施設として利用している、自宅近くの倉庫に着いたのだ。バットを持って中に入る。運転手、兼練習相手として雇っている後輩の田中が、道具を運んでくれていた。

「じゃ、ムラさん。トス打撃から始めましょうか」

「おう」

 今日は、休養日。プロ野球の試合が無い日だ。だが、東京フォックスのバッター・村部は、休む気などさらさらなかった。

 理由は簡単、疲れていないからだ。

 3日連続で出番無し。

 かつて自分の指定席だった4番には、いまは一回り若い奴が居座っている。

「……!」

 だがそれも当然だった。

 今シーズン40歳を迎えることになる自分は、体のいろいろなところに衰えがきていた。動体視力が落ちて、ヒットが打てない。反射神経が鈍くなって、守備もボロボロ。そのうえアキレス腱のケガで、ろくに走ることもできなくなっていた。

 しかし、なによりも。

(ホームラン……!)

 ホームランが、打てなくなってしまったのだ。

 3年前、4番としてチームを優勝させたときは、40本ものホームランを打った。それが今シーズンは0。そんな選手をいつまでもレギュラーにしておくほど、プロ野球は甘い世界ではない。

 あっという間に、ベンチが指定席になった。

(足もダメ、守備もダメ。オレに残されたのは、ホームランしかないのに……)

 必死でバットを振る。

 ボールは地面を転がっていく。

 空を真っ二つにして飛んでいくあの軌跡が、どうしても再現できない。

「……少し休みましょうか」

 気をつかってくれたのだろう。後輩の田中は、ジュースを買ってくると言って外に出て行った。倉庫を改装した練習場の中で、村部は一人、バットを杖がわりにしてうつむいた。

 そのとき。

「村部さんですね」

 人影が、突然あらわれた。

「なんだお前。ここは私有地だぞ」

「人間の法律は関係ありません。私は悪魔ですから」

「悪魔だと!」

 よく見れば、なるほど人間ではない。人の形はしているが、影のように存在感がなく、紙のように重量感がない。おまけに尻尾が生えている。フリフリ。

「悪魔がオレに、何の用だ」

「じつは私、魔界の商品を売るセールスマンでして。あなたにぴったりの商品を紹介しに参ったんですよ」

 悪魔はどこからか、1本のバットを取り出した。

「これは、スーパーウルトラホームランバット。どんな球でも、当たればホームランにすることのできるバットです」

「はあ?」

「素材は普通のバットと同じです。プロの試合でつかっても大丈夫ですよ」

「そんな便利な物が、あるわけないだろ」

「あるんですよ。ご覧下さい」

 そう言うと、悪魔は近くにあったボールをぽんと上に投げた。そしてバットを軽く振って当てる。

 カキーン!

 すさまじい勢いで、ボールは飛んでいった。スタジアムなら、間違いなくホームランだ。

「まだまだですよ」

 次は片手で。ホームラン。

 次は小指で。ホームラン。

 次は、股のあいだにバットを挟んでホームラン。

 挙げ句のはてには、バントの構えでホームラン。

「すごい……」

 村部は、魅了された。

 これがあれば、またホームランが打てる。スタジアムの時間を独り占めにして、視線を一身に浴びるあの快感をふたたび得られるのだ。

「これをくれ! いくらだ!」

「私は悪魔。お金はいりません」

「魂をよこせ、とでも言うのか?」

「いえいえ。あなたの、いちばん大切な物をいただきます」

「それはなんだ」

「言えません。買っていただくまでは」

「……それでは、買うことはできない」

 悪魔のすることだ。どんな罠があるかわからない。

「では、こうしましょう。このバットをお預けします。どうしても使いたくなったら使って下さい。使ったときに、はじめてお代をいただく。もちろん練習はノーカウント、試合で使ったときに限ります」 

「……いいだろう」

「決まりですね」

 そう言うと、悪魔はニヤッと笑って消えた。

 村部は試しにちょっと、スーパーウルトラホームランバットで打ってみた。軽く当てるだけで、ボールが弾丸のように飛んでいく。

「本物だ……」

 

   ※   ※


 次の日。

 東京フォックスは、優勝を争っている横浜エデンズの本拠地、シーサイドスタジアムに乗り込んだ。絶対に負けられない試合だ。

 村部はいつものようにベンチだった。

 素振りをしながら出番を待つ。

 試合展開は、もつれにもつれた。東京フォックスが先制すれば、横浜エデンズが逆転する。すかさず、フォックスが追いつく。試合は規定の9回を超え、延長戦に突入した。

 そして12回表。

 最終回だ。フォックスは、2アウト満塁のチャンスをつくった。しかしバッターは、今日ヒットのない阿倍野。ここで監督に呼ばれた。

「代打、村部」

 場内に、自分の名前がコールされる。と同時に、自チームの応援席から、「ああああ~」とため息が漏れた。

 「村部かよ」。「終わった、この試合」。

 聞こえてくる失望。悪口を言われるより、よっぽど辛い。

「くそっ!」

 村部が手にしているのは、スーパーウルトラホームランバットではなかった。普通のバットだ。自分の力で、なんとしてでも打つつもりだったのだ。

 けれども1球目、空振り。

 2球目、ファール。

「ぐっ……」

 あっという間に2ストライクになった。あと1球失敗すればアウトだ。

 しんと静まりかえったスタジアムから、落胆が、無念が、あきらめが、村部を包み込む。

「タイム!」

 バットにヒビが入っていた、とウソをつき、村部は一度ベンチに下がった。そして取り出したのは、スーパーウルトラホームランバット。

 ピッチャーがボールを投げた。

(当てるだけ!)

 村部は慎重に慎重に、バットを振った。ボールは空を割るように突っ切って、スタンドに飛び込んだ。

 逆転満塁ホームラン。

 応援席から、爆弾のような歓声が上がった。歓喜。驚愕。賞賛。スタジアムの時間を独り占めだ。村部はベースをゆっくりとまわりながら、それに浸りきった。

(やっぱりホームランは……最高だ)

 後悔はなかった。

 悪魔のバットを使ったことも、その代償としていちばん大切な物を失うことも。

(それがなんだ?)

 この快感以上に、大切なものなどあるか?

 両親。もう他界している。

 嫁と息子。ハハハ、離婚してすでに失った。

 家。車。時計。ブルース・リーのフィギュアコレクション。そんなもの、ホームランに比べればなんの価値もない!

 ベンチに帰ると、村部は交代を告げられた。

 ここまでリードすれば、あとは12回裏の守備を3点以内に抑えるだけ。ケガで満足に動けない村部よりも、守備のうまい選手を起用したいのだろう。

(この試合、オレの出番はもう終わりか)

 村部はスーパーウルトラホームランバットを、大切にバッグの中にしまい込んだ。

   

   ※   ※

 

 試合が終わってから、村部は運転席に乗り込んだ。

 もともと運転が大好きな村部は、機嫌がいいときは自分で運転するのだ。運転手の田中を家に送っておいてから、高速で道路を走らせる。

 流れ込んでくる風が気持ちいい。

 好きなラップ・ミュージックを大音量でかけて、ひたりきった。

「今日は最高だ」

 あのときの恍惚は、まだ体に残っている。

「……勝てればもっと良かったけどな」

 あのあとチームは、逆転されていた。相手チームの打線が突如爆発し、連打に次ぐ連打。ありえないほどの大逆転負けだ。

「まあ、いいさ。明日も明後日も、きっと勝てる。スーパーウルトラホームランバットがあれば」

 ニヤニヤと笑っていると、家に着いた。

 が、駐車場の前にトラックが止まっている。入れない。

「おい、どけろよ!」

 村部は車を降りて、トラックの運転席に声をかけた。

 振り向いたのは、悪魔だった。

「どうも。気に入っていただけたようですね。スーパーウルトラホームランバット」

「……お前か」

 トラックから降りてくる悪魔。

 村部は言った。

「約束だ。いちばん大切な物とやらを、持って行け」

「いえいえ。すでにいただきましたよ」

「なんだと?」

「野球選手にとっていちばん大切なもの。チームの勝利をね」

 衝撃。

 確かにあの大逆転は、どう考えてもおかしかった。ぜんぜん打てない選手が続けざまにヒットを打ち、守備の名手がエラーをし、リリーフエースが大暴投を連発した。

「つまり、あのバットは……」

 必ずホームランを打てるが、必ずチームは負けてしまう。

 そんなバットだったのだ。

「ふざけるな!」

 村井は怒り狂った。

「そんなバットはいらん! 返すぞ!」

「それはちょうど良かった。あのバットは使い捨てなんですよ。すでにあなたのバッグから消えているはずです」

「!」

 バッグを調べてみた。その通りだった。

「……」

 これでいいのか? 

 恍惚がフラッシュバックする。あのときの歓声、あのときの光景。

「おや、バッグの中でスマホが鳴っていますよ」

 悪魔に言われて、気がついた。

「別れた奥さんからのようですね」

「……」

 無言で出る。

「パパ! パパ!」

「直哉か?」

 息子の声だ。

「パパ! ホームラン打ったね! すごいね!」

「こら、ナオちゃん、落ち着いて! ……ごめんね、どうしてもパパにお祝い言うんだって、きかなくて」

「ああ……」

 ひとしきり会話をした。ひさしぶりの、息子のはずんだ声。元嫁の気遣い。

 電話を切ったあと確認すると、お祝いのメッセージが様々な人から送られてきていた。高校の同級生、大学時代の監督、前の球団のチームメイト、付き合いのある新聞記者、用具メーカーの担当――。

「おめでとうございます」

 悪魔がささやいた。

「あなたはみんなのヒーローですね」 

 手が震えた。

「バットは……」

「はい?」

「あれは、1本きりなのか……?」

「まさか」

 悪魔は、はじめに乗っていたトラックの荷台を開けた。何百本、いや何千本というバットが、ぎっしりと入っている。スーパーウルトラホームランバットだ。

「全部くれ……!」


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