希望に変わるまで


 *


 この数ヶ月間に、これほど幾度も眠れない夜を過ごすことになるなんて。


 大和は二段ベッドの上段で、ひたすら募っていく不安にもがいていた。

 まだ夜の八時を過ぎたばかりだ。けれど、起きていても落ち着かなくて、入浴を済ませると早々にとこにつき、お化けにおびえた子供のように丸くなっている。

 昨日、無事に意識を取り戻した結乃だったが、その日の夕方に突然発熱してしまったらしく、今日は家族以外、面会謝絶だったのだ。


 どうしたのだろう。


 志歩から聞いた話によれば、医者はストレスだとか、手術の影響だとか言っていたらしい。でも、そんな曖昧な理由で納得できるはずがない。

 昨日の出来事が、何らかの形で関係しているのでは?

 そもそも、命を譲り渡すって、栞奈は一体何をしたんだ? もしもまた、意識不明なんてことになったら……

 勝手に最悪の結末を想像し、青ざめる大和の背後で、静かにスマホが震えた。


 わざとかと思うほど大きく飛び上がった後、彼はゆっくりと寝返りを打ち、恐る恐る画面を覗き込む。

 志歩からだ。まさか、結乃に何かあったんじゃ――

 恐怖と不安で押し潰されそうになりながら、どうにか電話を取り、相手の応答を待つ。


『もしもし? 私、結乃』


 その声に、ほんの一瞬、安堵が胸を満たした。しかし、すぐに焦りがまさってしまう。


「えっと、あ、あの、だいじょ……」

『落ち着いて、大和』


 苦笑交じりになだめられ、大和は一度小さく息をついた。


『あのね、今日熱が出たのは、免疫力の低下が原因で起きた、私の命と大和の命が馴染むまでの一時的な拒絶反応みたいなものなの。明日には下がると思う』


 拒絶反応。

 移植手術などで聞いたことがあるけれど、それと同じたぐいなのだろうか。


『本当はもっと早くに伝えるつもりだったんだけど……』


 聞くと、まだこの説明をしていなかったことに、今朝になって気づいたという。だが、何せ人前で堂々とできるような話ではない。

 結乃のスマホは事故のときに壊れてしまったし、状況が状況なので、公衆電話に頼ることも不可能だ。

 しかたなく、志歩のスマホをこっそり借りようとタイミングを見計らっていたら、こんな時間になってしまったらしい。


『大和は大丈夫みたいでよかった。ごめんね、心配かけて』 

 そんなふうに謝られると、かえってこちらが申し訳なくなる。「ううん。僕のほうこそ、いろいろ気遣ってもらっちゃって……」


 その心遣いは、自分をよく理解してくれている彼女だからこそできる、濃やかなもので、とても頭が上がらない。


「あっ」


 そこでふと思い出した。もうひとつ分からないことがある。そう、まるで、おとぎ話のような――


「あのさ、あれはどういう仕組みになってたの? 眠気と、キス……」


 口籠りながら言うと、『キス?』と訊き返される。

 頼むから、その単語だけ拾わないでくれ。


 悶えたくなるような恥ずかしさに苛まれながらも、しかたないので事の顛末てんまつを話した。

 すると、結乃は特に照れた様子もなく、


『何もしてないはずだよ。大和の思い込みじゃない? 泣き疲れてたとか』


 と笑った。


 どうやら、まんまとはめられたようだ。

 栞奈め。


 大和はどうにも耐えられなくなって「……熱は?」と話をそらす。


『まだ三十八度あるけど、気合で下げます』


 そう答える声からは、本当に気合が感じられて、クスッと笑ってしまった。


『あっ、お姉ちゃん戻ってきそうだから、そろそろ切るね』


 電話の向こうから、遠くで結乃を呼ぶ声がする。


「うん。思ったより元気そうでよかった。わざわざありがと」


 礼を言うと、彼女も『うん』と返してあくびをした。


 きっと、きっと大丈夫だ。


『明日、待ってるから』

「絶対行く」


 約束を交わして電話を切った後、大和は、安心感に包まれながら目を閉じた。


 *


「――で、ここはさっき求めたから……」

「あっ、そっか。全体から、この部分と、この部分を引けばいいんだ」

「そういうことです」


 白い個室には、規則正しい時計の音と、ふたりの会話だけが満ちていた。


「じゃあ、今日はこのへんにしとこうか」


 結乃が紙に答えを書き終えたタイミングで、大和は言う。

 ベッドで上半身を起こし、オーバーテーブルに向かっていた彼女は、シャープペンを置いて大きく伸びをした。


「大和、教えるの上手いね」

「いえいえ。生徒さんが優秀だからですよ」


 照れ隠しにそんなことを言って、大和は丸椅子に座り直す。

 結乃の言葉通り、「命の拒絶反応」は一日でおさまり、大和は翌日から可能な限り毎日病院へ足を運んでいた。


 面会時間は午後三時から八時までだが、リハビリとの兼ね合いや大和の都合もあるので、一緒にいられるのは長くて一時間ほどだ。

 女子のおしゃべりなら短いくらいだろうが、奥手なカップルにとっては、とてつもなく長い、ふたりきりの時間。


 結乃の打撲の痛みがおさまるまで、最初の二、三日はどうにかこうにか会話をつないでいた。

 だが、彼女が「授業、遅れちゃうなぁ……」と呟いたのをきっかけに、勉強を教えることになったのだ。

 といっても、大和に一から教えられるほどの頭はないので、復習ばかりだけれど。

 それなら志歩のほうが、と思わなくもなかったが、彼女はすでに出来の悪い生徒をひとり抱えていることだし、推薦入試まで時間もない。負担は増やさないほうがいいだろう。


「あーあ、やっぱ算数きらーい」


 結乃はめずらしく、ちょっと不機嫌そうに肩を落としてぼやく。今日の授業は、彼女が最も苦手だという、図形の面積、体積の求め方だったので、いつもより頭を使ったのかもしれない。

 その横顔をあらためて見てみると、昨日までガーゼで保護されていた額の傷は、すっかり消え去っていた。彼女も年頃の女の子だ。傷跡が残らなくてよかった。

 安心感から顔をほころばせた大和に気づかず、結乃はもう一度小さなため息をついて、静かに窓のほうを見つめる。

 意識が戻ってから、いつも明るく振る舞っている彼女。けれど、時折こんなふうに、かげりを見せることがあった。


「ねぇ、大和」


 ただ名前を呼ばれただけなのに、それはやけに切なく響いた。

 テーブルの上のプリントを片付けながら、なるべく自然に、「んー?」と返す。


「生きててよかったって思わなきゃ、ダメだよね……」


 心の準備をしていたにもかかわらず、何も、答えられなかった。


 きっと周りはそう思うだろう。

 脚なんてなくても、また会えて、戻ってきてくれてよかった。

 そんなふうに、今の現実を希望として捉えている。


 でも、彼女は違う。

 その気持ちだけでは、どうしても割り切れないものがあるのだ。


「ごめんね。命分けてもらったのに、こんなこと――」

「ゆの」


 大和は彼女の名前を呼び、振り向きざまの頬に――優しく口づけた。


 僕がいると、伝えたかった。

 馬鹿だと思われるかもしれないけれど、君の中にある絶望が、いつか希望に変わるまで。いや、その先もずっと、そばにいるからと。

 家族の前ですら「いい子」でいてしまう君が、「悪い子」の部分をさらけ出せる、そんな存在になってみせるから、と。

 ほんの一瞬に、そんな想いのすべてをのせて、届けた。


「この前は知らなか――」


 言い終わる前に、塞がれる。

 一秒も経たないうちにその安らぎは遠ざかり、彼女の顔に控えめな笑みが咲く。


「誰にも内緒だよ? この歳でキスのしかた覚えたなんて知ったら、お父さんが泣くから」


 照れくさそうにはにかんだその表情がたまらなくて、もう一度重ねる。彼女もそっと応えてくれた。

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