あふれた本音

 

 *


「えぇ――――!?」


 慶太の叫び声が、窓を叩く雨音を掻き消した。

 すかさず、「うるさい」と志歩の不機嫌そうな注意が飛ぶ。


 高校受験を数日後に控えたその日、大和は久しぶりに、慶太と志歩の三人で子供部屋の円卓を囲んでいた。

 担当者の都合で、結乃のリハビリがいつも面会に行っている時間にずれ込んだためだ。


「いやいや、だってさ、ありえないだろ。大和が数学で九十点台とか」


 事実としてここにあるのに、ありえないとは失礼なやつだ。


 小さな円卓の上には、三つのテスト用紙が置かれている。

 勉強を始める前に、先日あった中学最後の定期テストの結果を見せ合おう、という慶太のくだらない提案により、しかたなく最高得点の教科だけ公表することになったのだ。


 慶太、英語、八十一点。

 志歩、数学、九十四点。

 大和、同じく数学、九十二点。


 自他ともに文系だと思っていた大和が、数学で高得点を取ったことに、慶太は度肝を抜かれたようだ。事実、これまでは六十点を超えれば上出来のレベルだった。


「なんか、結乃に算数教えてたら、分かるようになったっていうか」


 数学だけではない。教える側に回ったことで、その内容や根拠をより深く理解しながら勉強するようになった気がする。

 大和の主張に、慶太は「だって、そんなん小学生のやつじゃん!」とそれこそ小学生みたいな食いつき方をする。

 そんな彼に、「分かってないわね、もう」と志歩は嘆息した。


「数学は積み重ねの教科だから、小学校で習った基礎的な部分こそ大事なの。教育課程が変わって、私たちが中学で習ったことを、今は小学校で習ったりもするし」


 推薦入試ですでに合格を勝ち取っているからか、この頃の志歩からは余裕が垣間かいま見える。

 志歩の説明を聞くと、慶太はつまらなそうに口を尖らせ、「ちぇー、俺の八十点がショボく見えるんですけどー」なんてぼやきながら天井を仰いだ。

 彼も、最近は人が変わったように真面目に勉強しているみたいだから、少しは報われたいのだろう。

 手厳しい教師とふて腐れた生徒のようなふたりのやり取りに、思わず苦笑する。


 と、勉強机に置きっぱなしのスマホが、電話の着信を知らせた。

 もしかして、と思いつつ、そばまで行って確認する。するとそこには案の定、「公衆電話」の表示が。


「ちょっとごめん」


 大和は他のふたりに断りを入れ、一旦退室する。

 足早に階段をおりて、最下段に座り込むと、電話に出た。


「もしもし?」


 同じ言葉を返した結乃の声色は、明らかにいつもと違っていた。


『今、リハ終わったよ』


 まるで、雲に隠れた太陽のように、元気がない。


「お疲れさま」


 大和のねぎらいを最後にして、しばらく静かな時が流れる。


「これから行こうか?」


 結乃の言葉を待っていたかったけれど、とてもむずがゆくて、切なくて、自分から切り出してしまった。


『え? あっ、ううん。大丈夫。だってほら、勉強中でしょ?』


 あわてたように答えた彼女の声は、少し揺れている気がする。


「大丈夫って声じゃないよ」


 たまらず言うと、逡巡しゅんじゅんするように間が空き、


『……じゃあ、病室で待ってるね』


 数秒後、ちょっぴり明るい返事が戻ってきた。


「すぐ行くから」


 大和も朗らかに答えて、通話を切る。

 そのとき、背後から冷やかすような口笛が飛んできた。


「……聞いてたのかよ」


 踊り場のほうを振り返ると、物言いたげな笑みを浮かべた、志歩と慶太が立っていた。


「そういうことなら、私たちは移動しましょうか」

「だな」


 口々に言うふたりに微笑みを返し、大和は玄関へ向かう。

 バッグハンガーにかけられた、厚手のジャンパーに袖を通し、靴を履きながら、「ありがと」と呟いた。


「受験前に彼女といちゃいちゃしやがって。落ちても知らねぇぞ?」

「大丈夫だよ。慶太じゃないんだから」


 見送る慶太の嫌味を嫌味で返してやったら、「んだとぉ」と一言。

 期待を裏切らない反応に、小さく笑った。


 靴ひもを結び終えて立ち上がると、大和はふたりより一足先に家を出る。

 静かな雨に打たれながら、自転車にまたがり、結乃のもとへ急いだ。



 様々な薬品の臭いが蔓延まんえんした、不気味なほど白い部屋に、今日も結乃はいた。


 ベッドから上半身を起こし、雨に濡れる窓を、ぼんやりと眺めていた彼女。

 ドアを開けた音に気づくと、静かにこちらを振り向いた。

 その下半身は厚い掛布団に隠されていて、一見しただけでは健常者のそれと変わらない。

 自分を映しているはずの瞳はひどくうつろで、どこを見つめているのか分からなかった。


 一度開放したドアをゆっくりと閉め、歩み寄ろうとすると、「……私」と彼女が口を開いた。

 大和はその場で立ち止まり、次の言葉を待つ。


「リハビリのとき、どうしてもダメなの。他の人たちが、自分の足で歩いたり、ストレッチしたりしてると、思っちゃうんだ」


 その声はかすかに震え、自身に対するものなのか、他人に対するものなのか分からない、憎悪感に満ちていた。


「この人たちは、自分が脚を失ったときのことなんて、考えたこともないんだろうなって。指の一本でも切ってみればいいのに、って」


 低い声でそう言い放った彼女は、それきり俯いてしまう。


 ――これは、いけない。


 大和は、一歩一歩踏みしめるように結乃のもとへ向かい、その小さな頭を、両手で包み込むようにして抱き寄せる。

 彼女はそのまま、そっと顔をうずめた。大和の腹部が、かすかな重みを受け止める。


「ひっぱたかれるかと思った……」

「まさか。そんなこと」


 ふふっ……と返ってきた微笑みは、切なげに揺れている。


「私、治療費とか慰謝料とか、そんなの、どうだっていいんだ」


 また、低くなる。


「欲しいのは脚なの。なくなっちゃった、左脚」


 また、揺れる。

 彼女が顔をうずめている部分が、少しの温かみを持って、濡れていくのが分かった。


「……結乃」


 彼女の指通りのいい髪を、上から下へ撫でながら、大和は語りかける。それは肩につくまでなめらかに伸びていて、春頃に比べると、ずいぶんと長くなった。


「いいんだよ、それで」


 言い聞かせるように呟くと、彼女ははっと顔を上げる。色白の肌には、いくつもの涙跡が残っていた。

 見開かれた両目から、同時に大粒のしずくがこぼれ落ちる。頬をつたって、また悲しみの跡を描いていった。


「大丈夫。誰も悪くない。何もおかしくなんかない」


 軽く屈んで、人差し指で潤んだ目尻を拭ってやる。


「約束しただろ?」


 ふっと微笑んでそう言った瞬間、結乃の顔がくしゃりと歪んだ。

 そして、強く肩にしがみついてきたかと思うと、大声を上げて泣きだす。

 まるで、それまできつくしめていた栓を抜いたかのように。

 なんで、どうして私なんだと叫び、それ以外言葉にならない感情を、ひたすらに吐き出し続ける。


 そんな彼女を、大和はただ黙って抱きすくめていた。

 それは、彼女が初めて、自分の前で子供に戻ってくれた瞬間だった。

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