目覚めの前に
*
けっして広いとは言えない子供部屋で、白い毛むくじゃらの動物が、とぐろを巻いた蛇のように丸くなって眠っている。何とも不思議な光景だ。
自分が捜しそびれたせいで長らく行方不明になっていた朝比奈家の愛猫が、今朝になって突然帰ってきたという。
これから結乃のところへ行くから少しの間だけ預かってくれないか、と志歩に頼まれ、悩んでいたところを、母のひと声で引き受けた。今までの事が事だけに、志歩もいろいろと不安になったのだろう。
しばらくは母に相手をしてもらいつつ一階を探索していたはずだが、階段を見つけて自らのぼってきたようだ。特に追い出す理由もなかったので、好きなようにさせていたら、知らぬ間に眠ってしまった。
――結乃のところへ。
先ほどの志歩の声が脳裏をかすめて、大和は重苦しいため息をついた。
分かっている。行かなければならないことは。
病み上がりではあるけれど、熱も下がり、生活に支障がない程度に回復した以上、もう体調不良を言い訳にはできない。
父の言葉だって、忘れたわけではない。
でも、あと一歩が踏み出せなかった。
もはやここまできてしまったら、彼女が
「……って、そういうことばっか考えてるからダメなんだよ」
独り言ちてもう一度ため息をつこうとしたとき、
「――」
甘えるような声がそれを押しとどめた。
視線を落とすと、ソルトが催促するように自分の足にその体をすり寄せている。さっきまで寝ていたのに。
これは、どうしてやればいいのだろうか。
別に動物が嫌いなわけではないし、こういうしぐさを見れば素直にかわいいとは思う。でも、実際に飼ったことがないから、接し方が分からないのだ。
洗い立てらしいふわふわとした毛は、上質な綿のようで指に心地いい。
すると、ふいに蒼い瞳がこちらに向けられ、視線がぶつかり合う。心臓が、小さく脈打った。
――まただ、この感じ。
数ヶ月前、夏の夜にもあった。この子の姿を見ていると、ふっと、切ないような、懐かしいような気持ちに、胸をしめつけられることがあるのだ。
この子に対して何か特別な思い入れがあるわけでもなければ、初めて触れ合うはずなのに、どうして。
それとも、
「……初めてじゃ、ないのか?」
無意識の呟きに対し、「なに猫に訊いてんだろ」と一笑しようとしたとき、
「その通りです。初めてじゃありません」
「へっ? ふえ!?」
どこからともなく聞き覚えのある声がして、素っ頓狂な反応をしてしまった。何だか、ずっと待っていた気がする。
――そうか。この声は。
突拍子もない出来事に、何も言えずに固まっていると、「もう分かったみたいだね。さて、私はどこにいるでしょう?」と楽しそうな声が室内にこだました。
座ったまま、きょろきょろと辺りを見回していると、
「もう、ここだよ、ここ。すぐそば!」
しびれを切らしたような声が飛んできて、急いで出どころを探す。
足もとには、おとなしく腰を据えてこちらを見つめるソルトがいた。
目を凝らすと、その体の輪郭がうっすら青みを帯びている。忘れもしない、死んだはずの栞奈が、初めて自分の目の前に現れたときと、同じ色。
「そうそう。その子」
集中して耳を傾ける。
たしかに、栞奈の声はソルトから聞こえているようだった。ただ、何かのアニメのように、声と口の形が連動しているわけではなく、ソルトの体内から響いてくる感じだ。例えるなら、テレパシーみたいに。
「……」
「おっと、まだ泣かないでね。今日は別に、お兄ちゃんと感動の再会をしに来たわけじゃないんだから」
こちらの心が切なく揺れたのを瞬時に察し、
感極まる前に、栞奈は落ち着き払ってそう制した。
少しばかり冷淡にも思える態度に、涙が引っ込む。
そして、
「今からあなたに、重大なミッションを課します」
続けられた意外な言葉に、大和は自然と正座していた。
「結乃ちゃんを、助けてください」
背筋に緊張が走る。
「どうすれば……?」
そんな一言が口をついた。
「まず、彼女のところに行かないことには、お話になりませんね」
どこかの偉い教授のような口調で、痛いところを刺される。
大和は少しためらった後、「……はい」と頭を下げた。
「そしたら、ふたりきりになって、ベッドのそばで眠ってください。結乃ちゃんと一緒に、夢の中で待ってますから。詳しい話はそれからです」
教授キャラを崩さず言われた要望に、思わず顔をしかめる。
「夢の中って……それに、そんないきなり寝ろとか言われても」
「大丈夫です。そんなときのために、結乃ちゃんの右頬にキスをすれば、嫌でも眠れるようになっていますので」
「キ、キキキキ、キ!?」
今、「キス」って言いましたか、先生。
「な、なんで……」
「言ったきり保留になっている甘い約束を果たすための、
死後に初めて再会した夜も、「今の私は何でも知ってるんです」と笑っていたけれど、当の本人すら忘れかけていたそんな情報を握っているなんて。もしかしたら、今の栞奈は神にも等しい存在なのかもしれない。
「不慮の事故で深い眠りについた姫は、愛する王子の頬キスで目覚めるのです」
なんというか、もう唖然として、「はあ……」としか返せなかった。
「ほらほら。早くしないと、間に合わなくなっちゃうよ?」
そこでようやく口調を崩した彼女に急かされ、立ち上がった大和。だが、最後にもう一度だけ、栞奈――ソルトに不満げな視線を投げた。
話があまりにも突飛で、結局何ひとつ理解できていないような……
というか、すっかり雰囲気に呑まれてしまったけれど、こんなことは普通ありえない。猫から亡き妹の声が聞こえるなんて。
「詳しいことは後でって言ったでしょ? とりあえずいってらっしゃい。あっ、もしかしてソルトの心配してる? なら絶対に逃げないから大丈夫。だって今は私に乗り移られてるようなものだもん」
謎は増える一方だが、「ほら、結乃ちゃんアレルギーになる前に、ね?」と半ば押し切られる。
大和は、結乃と指切りをしたあの日と同じパーカーに袖を通し、走って病院へ向かった。
*
涙を止めるまでに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
いったい、どれだけ泣けばいいのだろう。
結乃の顔を見た瞬間、自分に対する不甲斐なさや、彼女がまだ生きているという安心感が体の内側から込みあげてきて、膨らみすぎた風船みたいに爆発した。
――待ってましたよ、みんな。
大和は、涙に濡れた顔を服の袖で荒っぽく拭うと、さっきまで直人が座っていた丸椅子に腰をおろす。
「ごめん、結乃。ずっと……来なくて」
まだ座面に残っている直人のぬくもりに背中を押されるように、眠り続ける彼女にゆっくりと頭を下げた。
来られなかったのではない。来なかったのだ。
自分次第で、彼女に毎日話しかけることも、その手を握り続けることも、できたのに。
「今、助けるから」
そう言うと、大和は静かに結乃を見つめた。
窓から伸びる光に白く照らされた、彼女の横顔。
主な損傷を受けたのが脚だからだろうか。ガーゼで保護された額の一部分以外、事故に遭ったなんて信じられないほどきれいだった。
しばらくそうしていたが、眠気が訪れる気配はない。
「……やっぱ、するしかないのか」
半信半疑で呟く。
悩む大和を後押ししたのは、ここへ向かう直前に栞奈から告げられた、「間に合わなくなる」という警告じみた一言だった。
結乃の頭の位置からして、ちょうど今いる廊下側が右になっている。
そりゃ緊張はするけれど、仮にも相手は恋人だ。ちょっとした練習だと思えば、なんてことはない。
大和はそう自身を説得して軽く腰を上げ、前屈みになる。
目を閉じた。
酸素マスクのチューブに当たらないよう気をつけながら、結乃の頬に――そっと口づける。
すると、瞬く間に強い眠気が襲ってきて、まるで空気が抜けるように、全身に力が入らなくなった。
抗うことなく再び丸椅子に座り込む。そして、ベッドの脇に体重を預け、そのまま深い眠りに落ちた。
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