遅いよ、バカ


 *


 目覚まし時計のアラーム――ではなく、重なるコールで目が覚めた。

 志歩は、まだ眠気に引きずられながら、重い体をもぞもぞと動かして、電話に出る。


「もしもし……?」

『おう、おはよ』


 寝起きでエンジンがかかっていないこちらとは対照的に、慶太の声は、やたら元気に響いた。


「どうしたの? こんな朝から」


 あくびを噛み殺しながら問うと、『いや、別に用はないんだけどさ』とやっぱり明るい声が返ってくる。


『ちょっと声が聞きたくなったっていうか』


 ふうん、と無関心そうに答えて笑いを隠すつもりだったけれど、隠しきれなかった。


 ――何をおっしゃいますか、お兄さん。


 これでも伊達だてに恋人をやっているわけじゃない。彼がそんな理由でモーニングコールを寄越してくるような、女々しい男ではないことくらい、知っている。


「で、ほんとは?」


 冷静に尋ねると、彼は『いやいや、ほんとだって!』と明らかにあわてふためいた。


「本当は?」


 スマホを耳にしたまま、布団から体を起こし、あらためて問いただす。すると、彼は観念したようにため息をついた。


『……だってお前、最近ひとりだろ?』


 ゆっくりと紡がれたその言葉に、心のどこかを射抜かれたような気がした。


 部屋の中を見回してみる。

 ひとつしかない布団。電気が消され、カーテンも閉められた薄暗い部屋。

 両親はとっくに仕事に出ている。もちろん、結乃もソルトもいない。

 誰もいない、日曜の朝。 


 ――そっか。私、ひとりなのか。

 

 そんなの、考えたこともなかった。考えないようにしていたのかもしれない。


『だから、その……大丈夫かなって』


 そう重ねた慶太の口調には、こうなるから言いたくなかったんだという、拗ねたような後悔が滲んでいた。

 彼の胸にすがって泣きながら夜を明かしたのは、つい一昨日のことだ。心配するのも無理ないだろう。


「……ありがと。大丈夫」


 胸の内側がじわりとあたたかくなるのを感じながら、強く、伝えた。


「大丈夫だから」


 最愛の妹が長い眠りについてしまってから、不安が消えた日はない。

 でも、どうしようもなくなったとき、黙って震える肩を抱き寄せてくれる人がいるから。ひとりじゃないんだって、そう思えるから。

 私はまだ、頑張れる。


『……泣いてる?』


 彼の唐突な質問に、今度は遠慮なく笑ってやる。


「なんで泣く必要があるのよ」


 ほんの少し、本当にちょっとだけ、感傷的になったことは認めるけれど。


「じゃあ、切るよ?」


 意識してやわらかく言うと、彼も『うん。じゃあ』と優しげに答えた。


 志歩は電話を切って立ち上がると、


「よしっ!」


 颯爽さっそうと歩きだし、窓にかけられた厚いカーテンを開け放つ。室内に細く差し込んだ朝日の眩しさに、思わず目を細めた。


 残酷だと思う。今、世界の誰がどんな苦境にあろうとも、太陽はこうして規則正しく昇り続けるのだから。


「――」


 と、聞き覚えのある、か細い鳴き声が、耳に届いた気がした。志歩ははっとして、意識を研ぎ澄ます。

 幻聴、だろうか。


「――」


 いや、違う。

 玄関のほうからだ。

 間違えるはずが、忘れるはずがない。この声は――


 志歩は大急ぎで走りだすと、滑るように廊下を渡って、裸足のまま玄関のドアを押し開ける。


「――」


 か細い声に誘われて視線を落とすと、薄汚れた白い毛が飛び込んできた。自分をまっすぐに見つめるのは、海を思わせる蒼い瞳。

 それらは、目に熱く薄い膜が張るような感覚とともに、切なさと嬉しさで滲んだ。


「ばかっ! どこ行ってたの!」


 かすれて震えた声で叱りつけると、志歩は崩れるようにしゃがみ込み、小さな白い体をそっと抱き上げる。

 そして、泥がつくのも構わずに、何度も何度も頬ずりした。

 ちゃんとやわらかくて、あたたかかった。

 目尻にたまった涙を人差し指で拭うと、あつい眼差しで、


「結乃が帰ってきたら、ちゃんとありがとうって言わなきゃダメよ」


 胸の中のソルトに、そう言い聞かせる。


「――」


 ソルトは、返事をするようにひと鳴きした。

 夢ではないことを確かめるため、今度は強く抱きしめる。


 ――結乃に伝えなきゃ。ソルトが帰ってきたんだよって。だからあんたも早くしなさいよって。


 志歩はそんなことを思いながら、すぐさま風呂場へ。嫌がるソルトと格闘しつつ、その汚れた体をきれいに洗う。

 そして餌を与えてから、もしものことを考えて相馬家に託し、自転車で結乃のもとへ向かった。



 ここに来ると、どうしたって苦しくなる。


「ねぇ、結乃」


 志歩は窓際に置かれた丸椅子に腰かけ、今日も、酸素マスクと点滴でどうにか命をつないでいる妹に話しかけた。

 この姿だけ見れば、一般の個室にいられるのが不思議なくらいだ。

 救急搬送されてすぐに、左脚のひざから下を切断する手術を受け、一度は集中治療室に入ったが、二日後の朝には一般病棟に移った。

 重篤患者が多いから、半ば追い出されたのかと疑ったけれど、家族以外との面会も許されている。状態は安定しているということなのだろう。


「ソルトがね、帰ってきたんだよ。泥だらけだったけど、私のことひっかき回すくらい元気でさ。だから結乃も――」


 そこまで言って、涙に詰まる。悪夢の日から、本当に泣いてばかりだ。


 壊れかけのスマホを握りしめて大切な人にSOSを求め、彼と最後になるかもしれない会話をした結乃。そのとき、彼女はどんな思いだったのだろう。

 そう考えると、涙が止まらなくなる。


「ダメだなぁ、もう」


 目もとを拭いながら、濡れた声で漏らした直後、病室のドアがノックされる。丁寧に、一定のリズムで、三回。

 振り向いて「はい」と返事すると、ゆっくりとドアが開く。

 そこには、いつもの彼が立っていた。


「あら、今日も来たのね。メガネくん」


 ちょっとからかってみせると、彼は大袈裟にため息をついた。


「いい加減、名前……」

「分かってるわよ。新垣直人くん」


 さらりとかぶせる。

 すると、しかたないなというふうに微笑み、廊下側にあるもうひとつの丸椅子に腰をおろした。


「また、泣いてたんですか?」


 出し抜けに言われ、ドキリとする。


「……バレたか」


 少し舌を出してごまかすように笑うと、「目、赤いです」と直人も含み笑いを漏らした。


「なんかさ、自然と流れちゃうんだよね。いろいろ考えてると」


 空に浮かぶ雲を眺めながら、ぼんやりと呟く。


「そんなつもりなかったのに、気づいたら思わぬ行動をしてることって、ありますよね」


 と、何やら意味深な言葉で、彼が同情してきた。


「ただ、かわいいなって思っただけで、キスなんて……」


 消え入りそうな声でこぼしたかと思えば、


「まあ、結乃ちゃんには、それすら感謝されてるみたいなんですけど」


 それを吹っ切るかのように、ことさらに明るく続ける。


「『ナオくんとのことがなかったら、自分の本当の気持ちにも気づけなかったから。だからありがとう』って。皮肉な話でしょ?」


 自虐するような物言いに、志歩は曖昧な微笑みを返すことしかできなかった。


「でも、そんな彼女だから、どうしようもなくかれたのかもしれません」


 聞きもしないことを一方的に暴露し、苦笑いする彼。そんな姿を見て、思った。

 少し立場は違うけれど、かつて自分と同じひとりに想いを寄せ、自分が向き合えないものと向き合い続けている人の言葉なら、たとえありきたりでも響くかもしれない。

 志歩はひざの上に置いていたバッグの中を探り、「ねぇ」と直人に投げかけた。


「ちょっとお願いがあるんだけどさ」


 喋りながらスマホを見つけ、連絡先を選ぶ。そして、ベッドを挟んだ向こう側できょとんとしている直人に差し出して、言った。


「大和に、一発かつ入れてやってくんない?」


 すると眼鏡越しの瞳が大きく見開かれ、しかしすぐに細められる。


「無理です。っていうかダメです」


 どうして、と訊く前に彼は続けた。


「そりゃ、言いたいことはいっぱいありますよ。なんで来ないんだとか、いつまでもウジウジしてんなとか。でも、それってたぶん、」


 そこで一度、曇りのない眼差しでこちらを見据える。


「全部、無責任だから言える言葉です」


 ――あぁ、そっくりだ、と思った。普段は弱々しいくせに、ふとした瞬間に見せる、この燃えるような意思と表情。


 何もおかしくなんてないのに、ふふっと小さく笑ってしまった。


「君ってなんか――」


 大和に似てるね。


 そう言おうとしたとき、病室のドアが大きな音を立てて開く。

 直人とそろってそちらに顔を向け、


「大和……」


 目を疑った。視線の先には、額にうっすらと汗をかき、肩で息をつく大和の姿があったから。


 薄い水色のパーカーに身を包んだ彼は、ゆっくりとドアを閉めた。

 そして、一歩一歩確かめるように、結乃のほうへと歩み寄る。

 立ち止まり、


「――結乃」


 ぽつりと彼女の名前を呼んだかと思うと、そのままベッドにすがるようにして泣き崩れた。

 静かなすすり泣きだけが、室内を包む。


 しばらくふたりして呆気に取られていたが、やがて――直人が、静かに嗚咽を漏らす大和に何かを語りかけ、椅子から立ち上がって出入り口へ向かう。

 志歩も彼の背中を追うように立ち上がり、


「遅いよ、バカ」


 去り際に、それだけ言い残して病室を後にした。

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