辛さ比べ

 

 *


 見覚えのある場所に立っていた。辺りを見渡せば、どこもかしこもうっすらと雪化粧している。

 ふと、何かの気配を感じて後ろを振り返ると、蒼い目をした白猫がこちらをじっと見つめていた。


「お前……」


 その猫と視線がぶつかり合ったとたん、なぜか、つかまえなければという使命感に駆られる。

 そっと猫に近づこうとしたとき、目の前の家から、ひとりの少女が急ぎ足で現れた。


「もう、また!」


 少女の叫び声に小さく耳を動かした猫は、挑発するように一瞬だけ視線を送り、自分と同じ色をした景色の中を、身軽そうに走り始める。


 逃げる猫。それを追いかける少女。

 僕は、僕は――この先を知っている気がする。


 そう思った刹那せつな、断片的な記憶の数々が、フィルムを巻き戻すように脳裏を駆け巡った。


 そうだ、これは――


 はっとして顔を上げたときには、金属の塊が、斜めに滑るようにして、ひとりと一匹に迫ってきていた。


 危ない! そう叫ぼうとしても、声にならない。

 飛び出して押しのけようにも、足が動かない。


 焦りばかりが募っていく。

 そのとき、視界の中の少女が白猫をさっと抱き上げる。けれどすぐさま、なるべく遠くへ投げ飛ばすようにした。

 彼女も急いで車の外側へ逃れようと駆けるが、そのときすでに、彼女と車との距離はわずか数センチほどで。

 血の気が引くような光景と、鈍く耳障りなブレーキ音に、たまらず目を閉じた。



「――と、大和」


 聞き慣れた声に恐る恐るまぶたを持ち上げると、父が凛々しい眉を心配そうに下げていた。

 こんな顔もするんだな、とまだ半ば眠っている頭で思う。


「大丈夫か? うなされてたぞ」


 父の問いかけに、「あぁ……」とはっきりしない返事をしたとき、左腕に違和感を覚えた。

 見ると、そこには何重にも白いテープが巻かれ、長いチューブが上へと伸びている。そしてその先には、何やら液体の入った袋があり、そこから規則正しく水滴が垂れていた。

 そこでやっと思い出す。自分は今、病院のベッドに横たわって点滴をしているのだと。


 昨日――金曜に、帰宅してから突然の発熱。先日と同じく、激しい吐き気と頭痛に苦しめられた。その上、喉の痛みがひどく、食べることはおろか、水分補給すらろくにできない。一晩様子をみたが、体調が回復する兆しはなかった。


 今朝になって病院へ行ったところ、軽い脱水を起こしているので点滴をしましょう、という話になったのだ。終わるのをぼんやり待っているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。


「悪い夢でも見たのか?」


 丸椅子に腰かけた父が、こちらに目を向けたまま尋ねてくる。普段は、週末でも勤務している中学の男子バスケ部の指導に追われている父だが、この土曜はたまたま休みだったようだ。


「うん。まぁ……ちょっと」


 曖昧に答えながら、考える。


 たぶんあれは、夢だけれど夢ではない。

 眠りが浅かったせいもあるだろうが、現実と空想が入り混じったような、あの感覚。おそらく夢に見ていたのは、結乃が事故に遭う直前の出来事だったのだろう。

 彼女はああやって愛猫を守り――


 これ以上考えると、点滴のおかげで少し楽になった体調がまた悪化しそうな気がして、痛々しい左腕に視線をやり、現実へと意識を戻した。

 そこに、例の明太子模様は現れていない。これは、まだ希望を捨てていない証か。それとも、そんな拒絶反応を起こす気力さえもないのか。

 まあ、理由なんてどうでもいい。この上、あのかゆみに襲われようものなら、本当におかしくなってしまいそうだった。かつてそれを支えてくれたはずの存在は今、死の淵に立たされているのだから。


 それにしても困った体だ。体調不良の原因は、とうの昔に分かっていた。

 昨日の夕方、突如襲ってきた衝撃。結乃が脚を切断したという、くつがえりようのない事実。

 栞奈を失った頃からうすうす気づいてはいたが、どうやら自分は、心の変化がストレートに体へ影響してしまう質らしかった。


 結乃の意識が戻る気配は一向になく、いまだに見舞いへも行けていない。胸が張り裂けるほど会いたかったけれど、どうしても行けなかった。

 見たいのは、元気な姿だから。たくさんの管につながれてどうにか生きている彼女じゃない。花のつぼみがほころぶように優しく笑ってくれる彼女だから。


「……弱いよなぁ、僕って」


 相変わらず腕に視線を向け、大和は呆れ気味に吐き捨てた。

 自分より辛い人はもっと他にいるはずで、その人はとても気丈に振る舞っているのに。

 それなのに……


「別にいいじゃないか」


 思いもよらない言葉に、驚きつつ顔を上げる。椅子に座った父は、遠く、窓のほうを眺めていた。


「これまで結乃ちゃんに関わってきた人たちは、多少なりともみんな辛いんだ。そんなに卑下ひげする必要はない」

「でも――」

「志歩ちゃんは、事故の現場にいたわけじゃないだろ?」


 静かに否定を遮ったその一言に、息が詰まる。


「それぞれ置かれた状況が違うんだから、辛さなんて比べようがないさ」


 どことなく優しさを含んだ声でそう言うと、父は、「ただ、唯一言えるとすれば……」と続けた。


「誰よりも苦しいのは、事故にあった本人だろうけどな」


 瞬間、どうしようもなく苦い感情が、心臓の奥深くをえぐるように迫ってくる。


「結乃ちゃんが現実と向き合わないといけなくなったとき、しっかり支えてあげられるように、今のうちに苦しんでおきなさい」


 父の言葉ひとつひとつは、乾ききった心に、ほんの少しの勇気をくれた。

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