悪夢の傍観者

 

 *


 ――さて、これからどうするか。


 だいぶ落ち着いてきた志歩の背中をさすりながら、慶太はうまく回らない頭で考える。

 まずは彼女の家に連絡しなければ。この様子からして、どうせ勢いで飛び出してきたのだろう。今頃、お父さんが青ざめているかもしれない。

 なぁ、と声をかけようとしたとき、


「今日、ここ泊まる」


 泣きじゃっくりの合間から、予想もしない台詞が聞こえてきた気がして、耳を疑った。


「は、はい?」


 間抜けな声で訊き返すと、


「……ダメ?」


 志歩は、すがるようにくっつけていた体を離し、濡れた瞳でおねだりする。あくどさなんて微塵もないから、余計にやられてしまった。


「ダメ、ではない……けども」


 まぁ、さほど問題はない。ついさっきまでそれぞれの自宅で寝ていたわけで、お互いにパジャマ姿だし、場所が変わっただけと言えばそれまでのこと。が、唯一の問題はその場所なのだ。


「ここ、シングルベッド一個あるだけなんですけど……?」

「大丈夫でしょ? ギュッてすれば」


 あっけらかんと言ってのけた志歩に、「いやいや、そうじゃなくて」とつっこみたくなる。でも、その純粋な一言に、自分はなんてことを考えているんだ、と恥ずかしくなって、呑み込んだ。

 彼女の口から、そんなかわいらしい言葉が聞けるとは。


 どうしたものかと、片手で頭の後ろを掻きむしっていると、ベッドの上に放置していたスマホがメッセージの着信を知らせた。

 アプリを開いて確認する。


【今、志歩と一緒にいたりする?】


 誰かと思えば、彼女のお父さんからだ。


『正解です。すみません。家の中あげちゃいました』


 三十秒と待たずに既読がつく。


【よかった】

【今回ばかりは完全に僕が悪いので、迷惑じゃなければそのまま一緒にいてあげてください】

【母親も夜勤でいないし、僕とふたりなんて嫌だと思うから】


『いいんですか?』


【はい。こんなクソジジイの代わりに……】


 自虐的な返信に、一瞬首をかしげたが、すぐに悟った。どうやら、相当な雷が落ちたらしい。

 付き合い始めた頃は、ろくに会話もしてもらえないほど警戒心むき出しだったのに、ずいぶんと信頼してくれるようになったものだ。交際一年半ともなれば、当たり前なのかもしれないが。


 と、今度は電話がかかってくる。

 親子のやり取りに水を差してはいけないだろうと、あらかじめ音量を下げてから、スマホを隣に立っている志歩に向けた。


「ほら、心配してるぞ」


 画面を覗き込んで言葉の意味を理解した彼女は、あからさまに顔をしかめて体をのけぞらせる。


「この電話に出てちゃんと了解を取らないのなら、今夜はお帰りください」


 わりに真剣なトーンでそう言うと、いかにも渋々といった様子でスマホを受け取った。


「……もしもし」


 ぶっきらぼうながらも電話に出たことを見届け、一応背を向ける。


「……私もごめん。言いすぎた」


 彼女の声が、ほんの少し優しくなった。面と向かって話すよりは、多少素直になれるのかもしれない。


「でも今日は帰らないから」


 と思ったら、またとげとげしくなる。


「は? バっ……なに考えてんの!? この変態!」


 そして突然、それは怒りの混じった羞恥を帯びた。

 思わずクスッと笑う。男はたいてい、そういう方向に頭が回ってしまうようだ。

 きっと電話の向こうのお父さんは、今返ってきた言葉が、「クソジジイ」ではなかったことに、心底ほっとしているだろう。


「うん。じゃあ、おやすみ」


 比較的穏やかにそう言って、電話を終えた志歩は、ゆっくりと振り返る。そして、無言のままスマホを差し出してきた。


「お前、やっぱ床に布団敷いて寝る?」


 冗談半分に提案すると、嫉妬するような目でねめつけられる。


「嘘だっつーの。ほれ、先に寝ろ」


 もう長年使い続けているそのベッドは、右側の壁にくっつける形で置いてあった。柵がないので、万が一のことを考えて彼女が壁側だ。

 指示通り志歩が右側に寝転がってから、隣に寄り添うように横になる。

 と、彼女が間隔を詰めようと近づいてきたので、もう少し下がるように手振りで促した。

 身長差がわずかしかないので、足の位置をずらさないと、頭をぶつけ合うことになってしまうのだ。


 志歩の体が下りてくると、目が合い、どちらからともなく、短いキスを交わす。

 しばしその余韻に浸った後、彼女がこんなことをぼやいた。


「悪かったわね、結乃みたいにちっちゃくなくて」

「なんも言ってないじゃん……」


 いつだったか、大和が結乃と添い寝している写真が送られてきたときに、『横からでよく分からんけど、結乃ちゃん、ちっちゃいな』と返したことを、いまだに気にしているらしい。

 たしか、『たぶんこれ、添い寝の理想の形』とも送った気がする。――俺のバカ。


 しばらくふて腐れたように頬を膨らませていた志歩だったが、やがて、何の前触れもなくこちらの胸に顔をうずめてくる。


「あーもう、泣きすぎて頭いたい」


 いつになく甘える彼女に、よこしまな気持ちが膨らむことはなかった。


「結乃、いつまで寝てるんだよぉ、このぉ」


 いつまでんだ。

 うっかり聞き流してしまいそうな言葉の中に、彼女の葛藤がうかがえて、ただただ切なかった。


「お前さ、さすがに『クソジジイ』はひどくない?」


 少しは気が紛れるだろうかと、彼女を抱きしめながら、努めて軽い口調で振ってみる。


「だってクソなんだもん。酒に逃げるとか」


 どこかおどけていて幼げで、いじけたような返事。けれど、残念ながらそれが、笑みにつながることはなかった。


「男は弱いからなぁ、そういうの。俺だって、お前にもしものことがあったら、平常心でいられる自信なんかねぇもん」

「……うん。だから、大和はすごく頑張ってるなって思う」


 意外な返答に、一瞬、息を呑む。


「大和は弱いけど、でも、頑張ってるよ」


 繰り返され、今度は「そうだな」と微笑んで、波打つような癖のある髪を、そっと撫でてやる。


 大和はたしかに弱い。何かの壁にぶち当たったとき、彼はそれを目の前にしてあれこれ考えすぎてしまうから、突破するまでに時間がかかる。けれどけっして、その壁に背を向け、逃げているわけではない。

 嫌というほど向き合っているから、悩み、苦しんでいるのだ。


「お母さんがね」


 慶太は、相変わらずこちらの胸に頭を預けたまま静かに話し続ける志歩の声に、黙って耳を傾ける。


「加害者の人が初めてお見舞いに来て、『どんな罰でも受けますから』って土下座したとき、言ったの」

 朝比奈家は事故以来、加害者の女性と様々な問題が生じているようだった。

「『あなたが罰を受ければ、この子の意識が戻りますか? 新しい脚が手に入るんですか? 違うでしょ? 結局は自分が楽になりたいだけなのよ』って」


 また、志歩の声が震え始める。


「だからってわけじゃないけど、私が泣いたところでどうにもならないんだから、結乃と――ソルトが帰ってくるまでは絶対泣くもんかって思ってた。思ってたのに……」


 そこで、その震えは、複雑に感情が入り混じった嗚咽に変わった。悲しくて泣いているのか、悔しくて泣いているのか分からない、そんな泣き方だ。

 たぶん、彼女自身も分かっていないだろう。


 たとえなぐさめでも、「もう泣くなよ」とは言えなかった。

 きっと今はその言葉が、弱りきった彼女の心を、何よりも痛めつけてしまう。


 ――泣いて戻ってきてくれるんだったら、一日中でも泣くんだけどね。


 夕方、帰り道での言葉を思い出す。彼女の願いを叶えるなんて、とうてい無理だ。でもせめて、限界を迎える前に、その苦しみを、少しでも軽くしてやりたい。

 こんな状況に置かれてもなお、彼女が驚くほど平然と振る舞っていたのは、きっと壊れてしまう寸前だからこそで。


 嗚咽を漏らしながら、「嫌だよ」「怖いよ」と訴える彼女の背中を、泣き疲れて眠るまで優しく叩き続けた。

 この悪夢の傍観者にすぎない自分には、それくらいのことしか、できなかった。

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