ひとりひとりのSOS

 

 *


 不快な高笑いで目が覚めた。


 ダイニングのほうからだ。母は夜勤で家を空けている。そうでなくとも考えられるのはひとりだけか。――このトーン、かなり回っているようだ。

 こういうことは、今までもままあった。仕事で上手くいかなかったときや、夫婦喧嘩をして、母に口を利いてもらえないときなんかに。


 でも、今日はきっと、そのどちらでもない。

 とても過保護で、弱い人なのだ。


 こんなときはいつも、掛布団を頭までかぶって、「これだから男は」なんて結乃と愚痴をこぼし合ったり、ソルトを抱き寄せて癒しを求めたりするのだけれど、今やそれも遠い夢のようになってしまった。


 最初こそ、まぶたを閉じたり、寝返りを打ったりして、聞こえないふりをしていた志歩。だが、そのうちどうにも見過ごせなくなって、布団から飛び起きた。

 苛立ちのこもった足音を響かせながらダイニングに向かい、力任せに扉を開ける。


「ねえ、何やってんの?」


 おどしつけるように低い声で、問いただす。

 突然やって来た娘の剣幕に、父ははっと息を呑み、言い訳を探すように目を泳がせた。

 その顔面は天狗のように赤くなり、右手には缶ビール。テーブルの上には、空になった同じものが三、四本転がっていた。

 小型テレビの中で騒ぎ立てるタレントたちの声が、耳に障る。


 弱い人なのは知っている。知っているけれど、今回ばかりは許せない。


 志歩は食卓の上にあったリモコンを取り上げると、黙ってテレビを消した。

 心を掻き乱すざわめきが消え去り、強すぎる白だけが照らす部屋。その狭い空間に、一本の糸のように張り詰めた沈黙が降りる。

 父は静かに、飲みかけの缶を食卓に置いた。


「大事な娘が生死をさまよってるっていうのに、よくテレビなんか見て大笑いしてられるよね?」


 バカじゃないの? と暗く沈んだテレビ画面に向かって小声で吐き捨てると、その中の父は、しゅんとしおれたように俯く。


「そういうの、ずるいと思う」


 今度は本人を見据えながら、突き放すように重ねる。父は自分のひざに目を落としたまま、何も言い返さない。その態度が、怒りとむなしさを限界まで這い上がらせた。


「――のよ……」


 冷たいフローリングが、布団の中で中途半端に温まった裸足に、痛いほどみた。


「何なのよ……」


 心の中だけで処理しきれなくなった感情は、しずくとなって頬をつたっていく。


「何とか言いなさいよ、このクソジジイ!」


 涙で震えた声を押し隠すために放った言葉は、自分でも耳を疑うものだった。

 泣き顔を見られたくなくて、とっさに後ろを向く。ほぼ同時に、父が驚きと焦りの音を立てて椅子から立ち上がる。


「ついてくんなっ!」


 あふれだすままに叫び、志歩は玄関を飛び出した。


 *


 遠くで、音がする。

 その音は、だんだんと意識の中に潜り込んできて――


 重たいまぶたを持ち上げ、天井から音のするほうへ視線を移すと、枕もとでスマホが鳴っていた。

 手に取り、目をこすりながら確認する。――志歩から電話だ。


「……もしもし?」


 慶太は通話をつなげてそう応えながら、これまた枕もとのデジタル時計を見やる。深夜二時。


『会いたい』


 こりゃなんかあったな、と寝ぼけた頭で思った。

 普段耳もとでこんな甘い言葉を囁かれたら、鼻血でも噴いて倒れそうなものだが、今は眠気が興奮を抑制してくれているようだ。


「今、どこ?」


 もしかしたら、この問いかけも、彼女にはものすごく不愛想に聞こえているかもしれない。


『あんたんちの前』

「……えっ!?」


 一瞬にして眠気が吹っ飛んだ。


 すぐさま電話を切って足早に階段をおり、玄関のドアを開ける。――そこには、本当に志歩が立っていた。

 目が合った瞬間、その瞳がみるみる切なげに潤んでいく。言葉でなぐさめている余裕はなさそうだ。


「ちょっ……」


 慶太はとっさに志歩の肩を抱き寄せると、まぶたを閉じ、彼女の唇を自分のそれで塞いだ。


 ――泣くのはいい。ただ、もうちょっと待て。


 ゆっくりと、ゆっくりと時間をかけて重ねる。途中、彼女の目尻にたまった涙が落ち、ほんのかすかな悲しみの味を残していった。

 まさかこんなタイミングで、今までにないほど深いキスをすることになるとは。

 数秒してそっと離れると、思いが伝わったのか、あるいは単に驚いたのか、ひとまず涙は止まったようだ。


 その隙に腕を引き、階段を駆け上がる。そのまま自室へ入ると、一度彼女から離れて、半開きのドアをしっかりと閉めた。

 やっと訪れたふたりきりの静寂の中で、志歩はまだ呆気に取られたような顔をしている、

 慶太はそんな彼女に微笑みかけ、再びふわりと抱き寄せた。


「ごめん。もう、いいよ」


 その言葉を合図に、すすり泣きだす彼女。最初は控えめだった嗚咽も、次第に大きくなり、室内はあっという間に悲しみに包まれた。

 小刻みに肩を震わせて泣きじゃくる彼女を、ただ静かに受け止める。


 泣きながら、「ほんと何なのよ、もう!」「あのヘタレ!」と憤っていたから、おおよそ父親絡みだろうと推測はできた。だが、いつもの親子喧嘩とは、いささかわけが違うようだ。

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