恋は葛藤

 

 *


 入浴を終え、パジャマに着替えて子供部屋に向かうと、志歩が勉強机の上の問題集と睨めっこしていた。


「お姉ちゃん、お風呂空いたよ」


 後ろ姿にそう声をかけると、「んー」と生返事のついでに背伸びをし、それを閉じる。


「勉強?」


 入浴前に敷いておいた自分の布団に潜り込みながら尋ねたら、「まあね」とだるそうな答えが返ってきた。


「熱心だねぇ。推薦狙いなのに」

「まだ決まったわけじゃないもん。推薦でも三教科はあるし」


 もうちょっと早く生まれたかった、と椅子の背にだらしなくもたれてぼやく志歩。

 結乃はうつ伏せになりながら、そんな姉に同情の苦笑いを向ける。


 もともと、推薦は面接と作文や実技のみで受験できる、おいしい入試だったのだが、最近は学力調査を取り入れる学校も増えたようだ。志歩が志望している高校の推薦も、面接と作文の他に、英語、数学、国語のテストがあるらしい。


「受かったら遠距離かもなぁ……」

「あっ、同じ高校じゃないんだ?」


 ちょっと驚いて言うと、志歩は「まさか。あいつのレベルじゃ無理無理」と困ったように笑った。


「なんか、『仲いいヤツがいないと嫌だ』とか『軽音部あるから』とか言って、大和と同じとこ目指してるみたいだけど、そこも死ぬ気で勉強してギリギリってところかな」


 推薦入試まであと二ヶ月と少しなのに、彼氏の家庭教師までやっているとはお疲れさまだ。


「遠距離ってことは、お姉ちゃん、寮入るの?」

「家からちょっと遠いからね。考え中」


 そう返すと、志歩はようやく腰を上げ、風呂に向かい始める。

 通り過ぎざま、枕もとに置かれたスマホを手に取ったとき、画面を興味深げに覗き込まれた。片手でさっと覆い隠す。


「なによ」

「べつに?」


 大和と恋人同士になったことは、当日の夜、志歩だけにこっそり打ち明けた。彼と気まずい関係にあったとき、背中を押してもらった借りがあったから。それに、今後もいざというときに相談できるようにと考えてのことだったが、今となってはちょっぴり後悔している。

 報告して早々、「ま、大和が性欲抑えればいい話でしょ?」なんて涼しい顔で言われたときは、本当にびっくりした。慶太が言うならまだ分からなくもないが。恋人って、そんなに影響を受けやすいものなのだろうか。


 姉の後ろ姿を注意深く睨み続け、ドアが閉められたのを確認してから、結乃は再びスマホに触れる。

 大和と付き合い始めてからも、特に大きな変化が起きたわけではなかった。唯一、恋人らしいことといえば、就寝前のこのやり取りくらいだ。


 無料通話アプリを開くと、すでに一通のメッセージが届いていた。


【何してる?】


 何でもないような一文に、ふっと笑みが漏れる。


『今、お風呂入ってきたとこ。大和は?』


 送るとすぐさま既読がついた。心待ちにしてくれていたのだろうか、なんてつい舞い上がってしまう。


【一応、勉強?】


 どうして自信なさげなんだ、と苦笑しながら、


『さっきまでお姉ちゃんもやってたよ』


 と返す。


【志歩、もうすぐ推薦だもんな】


 うん、と打ったとき、ふと思い出した。

 もうちょっと早く生まれたかった――姉とは事情が違うけれど、大和に想いを寄せるようになってから、同じようなことを何度も考えたことがある。

 そしたら、この恋はもっと簡単だったのに、と。

 結乃の誕生日は四月なので、あと一ヶ月早く生まれれば、ひとつ上の学年だった。中学でも一年間だけ彼のそばにいられたし、小学生と中学生とか、性欲がどうとか、そんなことを気にしなくて済んだかもしれない。

 思わずため息をつきそうになって、あわてて頭を振った。


 打ちかけの返信に、『大和は志望校決まった?』と加えて、気持ちを切り替える。


【うーん、まぁ、だいたい】


 どこまでも曖昧な人だなと苦笑していると、


【どこになっても家から通うから】


 続けてそんなことが送られてきた。

 彼らしいこまやかな気遣いに、頬が緩むのを感じながら――結乃は、壁にかけられたカレンダーを一瞥する。


 間違いない。


『ちょっと、電話してもいい?』


 初めての緊張感を抱えつつ、その一文を彼のもとへ届ける。


 ……しばしの空白。


【うん。いいよ】


 彼も少なからず動揺したようだ。当然だろう。電話だとお互いに意識しすぎて会話が弾まないので、いつももっぱらチャットなのだ。

 でも今日は、どうしても言葉にして伝えたいことがあった。

 彼から連絡してくるなんてめずらしいから、もしかしてと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。

 無料通話アイコンをタップして耳に当てると、二回目のコールが終わる前につながった。


『もしもし? どうしたの?』


 彼の声が応える。心臓が、一気にスピードを速めた。


「え……っと」


 頑張れ、私。


「今日で……一ヶ月ですね」 


 もう一度カレンダーを見ながら微笑み交じりに言うと、大和はそこで初めて気づいたらしく、『あっ、そういえば』と無邪気な声を上げる。

 十一月六日。いろいろあったけれど、お互いの想いを確かめ合って、きちんと形にしてから、早くも一ヶ月が経った。


『そういうの、こだわるほう?』

「ううん、全然。ただ、付き合い始めたのが大和の誕生日だったから、忘れようがなかったっていうか。覚えてるなら、なんか言っときたいなって。今日が初めてだし」


 彼の反応が案外あっさりしていたことに、ほっとしたような、少し残念なような、複雑な感情を抱きつつも、素直な気持ちを口にした。


『ほんとだ。これならずっと忘れないね』

「忘れてたじゃん」


 電話越しに、くすくすと笑い合う。


 正直、この恋に対する不安が消えたわけではない。


 本当に私でいいのだろうか?

 同じ三歳差でも、二十歳と二十三歳と、十二歳と十五歳では、やっぱりわけが違うんじゃないだろうか?

 そもそも付き合うって何だろう?


 今の関係性にたどり着く前に感じていた、理想と現実の齟齬そごに対する恐怖だって、常に心のどこかにつきまとっている。

 一ヶ月前、積極的なアプローチに押されて新たなスタートを切ったものの、そんなふうだから、彼と結ばれたことを純粋に喜べない自分がいた。

 でも、


『これからも、よろしくお願いします』


 思いやりと幸せに満ちた彼の声を聴いていると、あれこれ悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

 もう後戻りはできないのだし、今という瞬間が幸せなら、それでいいじゃないか。


「こちらこそ」


 きっとこの葛藤こそが、恋をしている証拠なのだと思う。

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