夢なら覚めて

 

 *


「けっこう降ったな……」


 大和は文庫本を片手に、白く曇った窓を見て呟く。

 その日は、五十四年ぶりに東京都心で十一月の初雪が観測された。異例の早さだという。

 下校する午後四時頃には徐々に止み始めたが、ものの数時間で街をすっかり白く染め上げてしまった。


 異常現象に便乗してか、放課後、志歩と慶太は息抜きにおデートをするらしかったので、勉強会は休止。

 ひとりでやってもはかどる気がしなかったから、たまにはいいだろうと、大和も子供部屋の隅で読書にふけっていた。父はまだ仕事だし、母もさっき夕飯の買い出しに行ってしまったので、完全に自分ひとりだ。こういう時間は嫌いじゃない。

 他愛もないことに思いを巡らせながらページをっていると、カーペットの上に置かれた、空と桜のしおりが目に入る。

 小さなプラスティック版の中に描かれた、外の景色とは正反対の光景。それを眺めていると、愛しい笑顔と、甘くほろ苦い出来事の数々がよみがえり、無意識のうちにとろけてしまう。

 これを見たいばかりに、以前より本を開く回数も多くなった気がする。


 志歩と慶太がデートをすると聞いたとき、ひょっとして自分も結乃と「恋人らしいこと」をできる絶好のチャンスなのでは、と思った。が、あいにく今日は彼女が学校帰りに習字へ行かなくてはならない日だ。

 事前に伝えておけば休んでくれたかもしれないが、さすがに当日では遅いだろう。忘れかけていた無念さが、再び心を暗くする。

 壁の時計を見やると、六時半を過ぎていた。もうそろそろ帰ってきているだろうか。


 と、しおりと一緒に手もとに置いていたスマホが、電話の着信を知らせた。

 名前を確認する。――結乃だ。

 何だか想いが届いたような高揚感に満たされ、本を閉じることも忘れてその電話を取ると、スマホをあごと肩の間に挟んだ。


「もしもし?」


 弾んだ声で応えるが、かすかな雑音と沈黙が流れるだけ。

 怪訝に思ってもう一度問いかけようとしたとき、


『よかった……』


 と今にも消え失せそうな声が聞こえてきた。


「結乃……?」


 胸の奥で、何か不吉なものがうごめき始める。


『――ル、持ってきて……』


 タオル、と言ったか。


「今、どこに?」


 落ち着け。落ち着くんだ。

 そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと言葉を続け、彼女の返事を待つ。


『家の前に、いる……から』

「分かった。すぐ行く」


 答えるや否や、大和は通話を切り、スマホと文庫本をほっぽって階段を駆けおりた。

 詳しい状況は分からないが、ただ事でないのだけは確かだ。

 無我夢中で、リビングにあるタンスから厚手のタオルを二枚引っ張り出し、靴も履かずに雪景色の中へ飛び出す。


 朝比奈家のほうに視線をやると、一台の車が停まっていて――その数メートル先に、横たわる人影が見えた。


「結乃っ!」


 タオルを片手に彼女の名前を叫び、一心不乱に駆け寄って……

 絶句した。


 彼女の左脚は、元とは似ても似つかない形でとめどなく黒ずんだ赤を流し、降り積もった白銀をみるみるうちに塗り潰していたのだ。  

 そしてその様を、顔面蒼白の女性が、抜け殻のような目をして眺めていた。

 衝撃に押されるようにして全身の力が抜け、大和は冷たい雪の上にくずおれる。


「――て」


 しかし、蚊の鳴くような結乃の声に、はっと我に返った。


「巻いて……早く……っ」


 叫びにならない叫びの意味を、一瞬遅れて理解した大和。

 残酷な姿と色に成り果てた脚のほうへ、這うようにして近づくと、傷口を、持っていたタオルできつくしぼるように締め上げる。

 一枚だけでは止まらず、予備にと思っていたもうひとつでさらに患部を覆いながら、


「救急車は!?」


 半ば怒鳴るように女性に尋ねた。

 と、女性は体に電流が走ったかのようにピクリとこちらを振り返り、


「もっ、もうすぐ来ると思います!」


 とおびえた声色で言う。


 応急処置を終えると、今度は結乃の上半身側に回ってひざの上に彼女の頭をのせ、抱き寄せるようにした。

 傷のためには体を動かさないほうがいいのかもしれないが、そんなことを気にしている場合ではない。恐怖に凍えた小さな体は今、何よりも誰かのぬくもりを求めているだろうから。


 少し離れた場所に停められた車の餌食えじきとなってしまったらしい左脚は、目も当てられない、痛みに泣き喚いてもおかしくないような状態だ。なのに、彼女は叫び声のひとつも上げない。ただ懸命に、浅い息を吐き続けるだけ。それが一番、怖かった。


「ねぇ、大和――」

「ダメじゃない、死なない、死ぬわけない!」


 額からも赤を流し、自分を見つめながら彼女がようやく漏らしたひと声を、自ら最悪の言葉で遮ってしまう。その可能性を否定しなければ、狂ってしまいそうだった。


「まだ何も言ってないよ……」


 弱々しく微笑んだ彼女の白い手がすっと伸びてきて、頬に触れる。氷のように冷たいのは、きっと雪のせいだ。


「ソルトを、捜してくれる?」


 彼女は、かすれた声でゆっくりと言う。


「ソルトって……」


 彼女がかわいがっていた、あの白猫のことだろうか。

 どうして今それを――と思ったとき、夏の夜に彼女が言っていたある言葉が、頭の奥でこだまする。


 ――最近、脱走するようになっちゃってさ。


 自分でも分かるほど大きく目を見開くと、結乃は黙ってまぶたを伏せた。


「脱走して捕まえようとしてたら、車がスリップしてきたの。ギリギリで抱き上げたんだけど、これじゃあ一緒に――と思って、とっさに逃がしたんだ。そしたら急ブレーキの音にびっくりしてそのまま……」


 よく見ると、その腕には細い引っかき傷が残されていた。


「あの子、家猫だし、そんなに遠くには行ってないと思うから」


 彼女は頬に手を添えたまま、懇願こんがんするような眼差しを向ける。


「どうして……っ」


 そんな疑問を投げてしまう自分が悔しかった。


 栞奈を失った悲しみに暮れていたときも、背中合わせで言葉を交わした夜も、彼女はいつだって、自分の痛みや想いに寄り添ってくれた。

 それが相手のためになるのなら、たとえ己を犠牲にしても構わない。

 そんな強い意思を、事あるごとに感じ取ってきたのに。そんな彼女だから、ずっとそばにいたいと思ったのに。


「あの子は……絶対死んじゃ……ダメなの。だって……」

「もういい、もういいよ」


 結乃の呼吸が急激に浅くなったことに危機感を覚え、あわてて押しとどめる。今はただ、生きることだけに、意識を集中させてほしかった。


「救急車乗るまで見届けたら、ちゃんと捜すから」


 その言葉に安心したのか、彼女はふっと弱々しい笑みを残し、意識を手放す。閉じた瞳から、一筋のしずくがつたった。

 頬から離れていった手を、大和はとっさにつかまえ、強く握りしめる。そうしなければ、本当に遠くへ行ってしまう気がして。

 彼女の口もとに浮かんでは消える、白いもやが、まだ命が続いていることを証明していた。


 それでいい。それで。


 そう思いながら、雪と多少の赤を吸ってぐしょぐしょになった、自分の靴下を見やる。

 すぐそばには、液晶がひび割れ、赤にまみれたスマホが転がっていた。彼女の手もとにあったものを、知らぬ間に蹴飛ばしてしまったのだろうか。

 どうしようもない苦しさが胸に迫ってきて、声の限り吠えたい衝動にかられた、そのとき――


「……や、いやぁ――!」


 それまで死んだように何も言わず、ただ自分たちの様子を眺めていた女性が、突然何かにとりつかれたように泣き叫び始めた。 私、これから警察に行くの? 罪に問われるの?

 そんなふうにただひたすら、自らの未来だけを悲観したような泣き方。それがますます心を掻き乱して、


「あんたじゃないだろっ!」


 気がついたら、言葉で殴っていた。


 すると女性は、親に叱られて驚いた子供のように、反射的に泣き止む。

 頭の後ろでひとつに結った黒髪は、みすぼらしく崩れ、顔は青白く、瞳には、恐怖と焦りの色だけが浮かんでいた。

 ふと、栞奈が倒れた雨の日を思い出し、


 ――僕も、慶太に怒鳴られたとき、こんな顔してたのかな。


 なんて、ぼんやり思う。


 雪で冷え切った空気が、囁く悪魔のように体を撫でては、体温を奪っていく。誰よりも大切な人を抱きしめながら、大和はあの雨の日と同じことを願った。


 夢なら覚めてくれ、と。

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