季節外れの桜
*
一時間ほど勉強して、慶太たちを見送った後、大和は玄関前で一度ゆっくりと深呼吸する。
――大丈夫だ。
覚悟を決めて子供部屋に戻り、再び勉強机の引き出しを開けた。
ノートの下からビニール袋を取り出し、丁寧にテープをはがす。
中には、青空に舞う桜の花びらが描かれた、プラスティック製のしおりと、小さなメッセージカードが入っていた。
ひとまずしおりを机の上に置き、ふたつ折りにされたカードをそっと開くと、見慣れたきれいな文字が姿を現す。
『ハッピーバースデー! 空が高く見える季節ですね。結乃』
たったそれだけで、幸せが押し寄せてきて、泣きたいような気持にすらなった。
どこか心地いい苦しさを抱えながら、カードを机に戻そうとしたとき――光の加減で、メッセージの後ろにおぼろげな影が浮かび上がる。裏側にも何か書かれているようだ。
怪訝に思って裏返すと、
『いろいろごめんなさい。でも、嫌いになったわけじゃないの。これだけは信じてください。』
表のものより、はるかに
そんなこと言ったって……と彼女を
それを追いやるように思い出される、慶太の言葉。
結乃は、もうちょっと大人になるまで待ってほしいと言ったけれど、そのタイミングはいつなのだろう。距離を置かれている理由は、一体何なのだろう。
僕たちに足りないものって、たぶん――
ぐずぐずしていても、何も変わらない。大和は、突然芽生えた確信と決意が消えぬうちに、至福を運んできたカードを、制服の胸ポケットにしまい込んだ。
そして、すぐそばにあったスマホを手に取り、結乃にメッセージを送る。
『いきなりごめん。今から会える?』
五分も経たないうちに既読がつき、
【いいけど……どこで?】
と、戸惑いの感じられる控えめな返信がきた。
『じゃあ、近所の公園で待ってるね』
『話したいことがあるんだ』
既読がつき、【OK】のスタンプが返ってきたのを確認してから、大和はスマホを片手に階段をおりる。
小走りで玄関へ向かうと、先ほど脱いだパーカーにもう一度袖を通して――気づいた。
誰もいないダイニングを覗き、
「おめでとう」
卓上の栞奈にそう微笑みかける。
木枠の中の彼女は、いつもより穏やかに笑っている気がした。自分の気持ち次第で、けっして変わらないはずの表情が違って見えるのだから、不思議なものだ。
ひょっとして、また突然現れたりするのだろうか。そんなことを思い、ひとりで笑みをこぼす。
そういえば、もうずいぶんと明太子模様は現れていない。
「ちょっと行ってくるから、留守番よろしく」
軽く右手を上げて言い残すと、パーカーにしっかりと身を包み、大和は公園へ急いだ。
壁を、壊しにいこう。
自分には少し小さなブランコを漕ぎながら、夕と夜が混ざり合った空を見上げる。するとふいに、隣で同じように揺れているそれが鈍く甲高い音を立てた。
「似合わないね」
その一言で声の主を確信し、ほっと胸を撫でおろす。
「うん。ちょっと
空を見上げ、ブランコを漕いだまま答えると、彼女も真似て漕ぎ始めた。
「しおり、ありがと。大事にするね」
「うん」
ささやかな会話を交わした後、しばらく待ってみたが、彼女が言葉を発する気配はない。
大和はブランコをさらに大きく漕ぎ出す。そして、夜に呑まれつつある陽暮れの空気を、そっと吸い込んだ。
「ごめん。もう待てない」
放った瞬間、また隣で鈍く甲高い音がする。
足を止めて振り返ると、彼女が目を見開いてこちらを見つめていた。ただ、その驚きの中に、今までのような拒絶がないことを悟り、安堵の笑みが漏れる。
「結乃って、僕から見たらもう充分大人だし」
そう言うと、彼女は言葉を探すように俯いてしまう。
「好きだよ」
ダメ押しのつもりで素直な想いをぶつけたら、髪の隙間から覗く彼女の小さな耳が、ポッと真っ赤に染まった。
こんなふうに、自分でも驚くほど迫れるのは、今なら、そこに確かなものがあると信じられるからだ。思い切って飛び降りても、死ぬことはないと思えるから。
「――コン」
耳を赤く染めたまま、ようやく返してくれた言葉が聞き取れず、「うん?」と問い返す。
「……ロリコンって言われない?」
予想もしなかった一言に、たまらず噴き出してしまった。
すると彼女は、「もうっ! 笑いごとじゃない!」と羞恥の残る顔で憤慨する。
「私、まだ小学生なんだよ!? どれだけ大人っぽく見えるのか知らないけど、まだ小六!」
笑いながら、「そんなこと気にしてたの?」と言いたくなったが、ますます怒られそうなのでやめておいた。
彼女は、拗ねたようにぷいっとそっぽを向いて、こう続ける。
「それに、知ってるから。ほんのちょっとしたきっかけで、あることないこと言われて、勝手に噂されるのが、どれだけ辛いか」
そう言われたとき、いつだったか、結乃が熱に浮かされた勢いで暴露してしまった、衝撃の事実を思い出す。
たしかに、彼女の言い分も分からないではなかった。小学生と中学生が恋愛関係にあるというのは、人によってはあまりいい顔をしないかもしれない。ときには、心ない偏見の眼差しを向けられることもあるだろう。
今の自分たちにとって、この歳の差は、たかが三つ、されど三つなのだ。
でも、あの日、熱っぽい手を握り合いながら、君は言ってくれた。僕だって同じ気持ちだ。
「結乃は、噂されて嫌だと思うような相手じゃないよ」
言った直後、彼女が胸を打たれたように振り返った。その瞳に語りかけるように、問う。
「小三と小六が付き合うのは、アリだと思う?」
これには、少し考えるような素振りをして、「分かんない」と答えた彼女。
「じゃあ、二十歳と二十三歳」
「それは、まぁ……」
今度は即答。「でしょ?」と食いつきたくなるのを、ぐっとこらえた。
「僕らにだって、いつかそうなるときが来るんだよ。カッコつけてみたけど、僕はそのときを待てるほど辛抱強くなかった。ごめん」
それでもなお、彼女は「でも……」と口籠る。
「きっと私、大和が思ってるほどいい子じゃないよ?」
重々しい口調から、彼女の悩みの種――拒絶の要因はそこにあったのだなと、ようやく
「怖いんだ。
「そんなの、当たり前だよ」
ぽつり、ぽつりとこぼされた心配を拭い去る気持ちで告げる。
彼女は再びはっと振り返り、続きを待つようにじっとこちらを見つめた。
「相手のこと全部分かってる人間なんていない。どれだけ分かってるつもりでも、きっと分かってない部分はあると思う。関わってるうちにいろんな面が見えてくるなんて、当たり前のことだよ」
そんな当然のことに落胆を覚えてしまうのは、きっと、相手に対して過度な期待や理想を抱いているからだ。でも――
「僕は、君が理想の女の子だから好きになったわけじゃない」
必死な想いは、少しでも届いただろうか。こちらを見つめ続けていた瞳が、希望を見出したように揺らいだ。しかし、まだ悩みの色は消えない。
彼女は静かに、言葉を紡ぐ。
「……どんな私でも、受け入れてくれる?」
「もちろん」
「絶対に?」
「絶対に」
強く繰り返して、小指を差し出した。するとそこに、白くか細い小指が触れ――
お互いの意思を確かめ合うように、ゆっくりと、それを絡めた。結乃は強張っていた顔を、花がほころぶようにふわりと優しく緩める。
ふたりに春を連れてきたのは、季節外れの桜だった。
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