奇跡みたいなもん


 *


「ほら見なさーい」


 勝ち誇ったような笑みを浮かべる慶太の頭を、大和は空いている左手で苛立ちのままにはたく。それだけではおさまらず、横目で睨みつけてやった。


「いってぇ。暴力はんたーい」

「あんたがうるさいからでしょ」


 幼稚な口調で抗議するが、すかさず志歩に叱られる。餌を詰め込んだハムスターのように両頬を膨らませる慶太。

 そんな彼の態度に呆れ果てながらも、大和はいつもと変わらぬふたりのやり取りに、どこかで胸を撫でおろしていた。


 志歩は事前の言葉通り、通学路をしばらく行ったところで追いつき、慶太とふたりで、「予定通り五分で終了―」「おー、よかったな。しつこいタイプじゃなくて」と意味深な会話をしていた。あのときの驚きはおそらく間違ったものではなかったのだろう。


 大和は思考を切り替えて、自分の右手を見やる。あらためて事実を確認した瞬間、安堵と動揺がない交ぜになって胸を押し潰した。

 小さな白いビニール袋に、かわいらしい黄色いギンガムチェックのテープで封をしてある。

 下校後、家に着いて中へ入ろうとしたとき、ポストの上にちょこんと置かれているのを見つけた。

 袋のサイズからして、そこまで大きなものが入っているわけではなさそうだ。これは――


「なあなあ、中身見てみようぜ」

「断る。絶対やだ」


 まったくりた様子のない慶太の提案を、即座に却下する。


「いい加減にしないと、お前だけ追い出すぞ」


 まったく、と立腹しながら、ふたりを先導して玄関を上がった。

 羽織っていた薄手のパーカーを脱いでスクールバッグと一緒にハンガーにかけ、そのまま連れ立って子供部屋へと続く階段をのぼる。

 部活を引退してから、三人は誰かの家に集まって勉強会をすることが多くなっていた。吉川家は他のふたりの家に比べて少し遠いし、朝比奈家には結乃がいるので、たいていは相馬家に集まる。


「えー、気になるぅ。なぁ?」


 まだ諦めきれない慶太は、前を歩く志歩に賛同を求めたようだ。


「いや全然。私、一緒に買いに行ったから中身知ってるし」


 思いがけない志歩の言葉に、ほんのちょっぴり心が揺らいだが、「何それ。なんか俺だけ取り残された気分ー」という鼻につく返答が後方から飛んできて我に返り、あわてて首を振る。


 子供部屋に着くと、まずは勉強机の引き出しを開け、大事なビニール袋をいつものノートの下に滑らせた。

 ここは、絶対に見られたくないものを隠しておく秘密の場所なのだ。誰かにバレたら一発で終わりだけれど。

 引き出しを閉めて後ろを振り返ると、ふたりはすでにスクールバッグを床に置き、この勉強会のためにと最近用意された小さな木製の円卓を囲んで座っていた。

 大和もスクールバッグから必要なものを取り出し、筆記用具や問題集を手に、ふたりのそばに腰をおろす。

 制服のままのせいもあってか、独特な緊張感が漂っている。これからこなす課題の多さを思うと、心も体も重かった。

 高校受験という試練を間近に控えた三年には、教科から出された宿題以外に、自主勉強最低一ページというノルマが課せられているのだ。毎日、何をすればいいのか悩んでしまう。


「何からやる?」


 大和が口を開いたとき、隣の志歩が、「ちょっとごめん。その前にトイレ借りるね」と立ち上がった。


「おっ、今日はお前か」

「めずらしいね」


 いつも、勉強を始めようとすると現実逃避でトイレに行きたくなるのは、慶太のほうなのだ。


「ずっと行きたかったんだけど、なかなかタイミングがなくて」


 何気ない一言が、彼女の身に起きた出来事を、なおさら証明している気がした。


「志歩なら安心だ」


 こんなふうに、内心でこそこそと探りを入れている自分に後ろめたさを覚え、大和はどうでもいいような一言を呟く。

 慶太の場合、親がいないとチョコやらスナック菓子やらを勝手に持ち出してくる可能性があるので、しっかり釘を刺しておかなければならないのだが、彼女なら心配ないだろう。


「早く戻ってこいよ、先生」

「はいはい、手のかかる生徒くん」


 彼氏彼女らしい他愛もないやり取りを残して部屋のドアが閉められ、慶太とふたりきりになる。


 ――どうせ訊くなら、今だろうか。


「あのさ、志歩って……」


 いざ切り出して、先の言葉を紡げずにいると、「そこまで言っといて、『やっぱ何でもない』とかナシだぞ」と逃げ道を絶たれる。


「誰かに、告白されたのか……?」


 やっとしぼり出した質問に返ってきた答えは、


「あぁ、そーみたいだな」


 実にあっさりしたものだった。まるで、「別に興味ない」とでも言わんばかりに。


「そういうのって、その……不安になったりしない?」

「そりゃ気にならないって言ったら嘘になるけどさ。俺ら、そこに関してはお互い様みたいなとこもあるし」


 言葉の端々から滲み出る余裕がねたましくなって、たまらず「自慢かよ」と漏らす。と、「違げぇよ」と間髪入れずに返された。


「元カノから顰蹙ひんしゅく買うの承知で言わせてもらえば、少なくとも俺は、ろくに喋ったこともないやつに好きとか言われても、全然嬉しくなかった」


 その快活でフレンドリーなキャラクターと、強豪サッカー部のキャプテンという肩書きも手伝ってか、慶太は俗に言う「モテ男」だった。

 あまり詳細なことは知らないけれど、それだけに、今の恋を実らせるまでには、彼なりの苦労があったようだ。


「ま、誰かに告られて揺らぐようなら、俺がその程度の存在だったってことだろ」


 その言葉に、一番触れられたくない部分にくいを打たれた気がして、大和は動揺を押し殺せなかった。もちろん、彼は無意識なのだろうけれど。


「んで、何があったんだよ?」


 己の心弱さを思い知らされていると、慶太が出し抜けに問いかけてきた。

 突然のことに、「ほへ?」と自分でも笑いたくなるような声を出してしまう。


「『ほへ?』じゃねぇよ。まだ付き合ってないのか知らねぇけど、最近のお前、彼女と喧嘩して落ち込んでるようにしか見えねぇっつーの」

「別に喧嘩ってわけじゃ……」

「分かっとるわ、そんなん。そういうことを聞きたいんじゃなくてだな」


 苛立ちを帯びた即答に、大和は肩をすくめる。

 しつこいくらいの冷やかしも、彼なりの気遣いだったのかもしれない。ようやくそこに考えが及んだ。


「壁を感じるんです……」


 情けないとは思いつつも、その圧に負けて本音を吐露する。

 するとすかさず、「は? そんなもんはぶち壊すんだよ」とまたバッサリ切られ、歯がゆい気持ちを吐き出すように、深いため息をつかれた。


「あのなぁ、お前はそんなに実感ないのかもしれねぇけど、両想いってすげぇことなの。ちょっとした奇跡みたいなもんなの」


 奇跡。

 息巻いた様子で告げられた言葉は、苦しくなるほどに大和の胸を打った。

 恋愛に至っては、酸いも甘いも噛み分けてきた彼。だからこそ、どこかで聞いたことがあるような白々しい台詞も、やけに切実に響いたのだろうか。


「……奇跡、ですか」

「おう。だからさ、のがすんじゃねぇぞ」


 少々呆れ気味にも聞こえるアドバイスに、今までにないほど力強く、でも気遣うように、背中を押された気がした。

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