不安の沼

 

 *


 あぁ、また夜が明けてしまった。


 カーテンの隙間から差し込む光が朝を教える部屋で、ぼんやりと二段ベッドの下段に寝転んだまま、大和は思う。

 僕はまた今日も、この苦みを抱えながら、代わり映えしない一日を過ごさなくてはならないのだろうか。


 結乃の霊感の強さを知ったあの夜から、気まずさを感じつつ何もできなかった。

 何もできずに時間だけが過ぎ、夏休みが終わって、九月が終わって、気がつけば十月になっていた。

 それはそうと、今日はいつもより少し目覚めがいい気がする。何となくすっきりしているような……そうか、目覚ましが鳴っていないからだ。あの騒がしい目覚ましが。


 ――ん? んん!? 目覚ましが、鳴って、いない!?


 それが示す恐ろしい事態に気づいた大和は、血の気が引く思いで壁の時計を見やった。

 七時、十分前。


「やっば……」


 幸いにも体内時計が働いてくれたようで、絶体絶命というほどではないが、二十分のタイムロスは大きい。

 ベッドから飛び起きると、滑るような勢いで階段をおり、ダイニングに駆け込んだ。


「あら、おはよう。もうちょっと遅かったら、叩き起こしに行こうかと思ってたわ」


 のん気にそんな挨拶をしてきた母に、「そういうことはもっと早くしてくれよ!」と嘆きの一言をぶつける暇もなく、とっくに冷めてかたくなったトーストと目玉焼きをお茶で喉に流す。

 そのまま大急ぎで歯磨きと着替えを済ませると、玄関で、すでに重たくなったスクールバッグを肩にかけ、靴を履いた。昨日のうちにちゃんと支度を整えておいた自分に感謝だ。

 無事に外へ出て、優しく顔を見せた太陽にホッと息をついたとき、


「よっ、おめでと!」


 いきなり慶太にひじで脇腹を小突かれ、大和は目を丸くする。


 おめでと……?


 状況が呑み込めずきょとんとしていると、志歩と声をそろえてころころと笑われた。


「今日は何日でしょう?」


 意図の分からない志歩の問いかけに、ますます首をかしげる。


「え、今日って……」


 六日、と言おうとした口は、寸前で「あっ」に変わった。そうだ。そうだった。


「あんた、その歳で自分の誕生日忘れてどうすんのよ」

「親におめでとうって言われてねぇの?」


 口々につっこまれ、「目覚ましセットしそこねてたみたいで、ちょっと寝坊してバタバタしてたから……」と苦笑する。

 もしかして、すぐに叩き起こしに来なかったのは、母からのささやかな誕生日プレゼントだったりして。

 なんて、都合のいい解釈だろうか。


 と、隣家のドアがあわただしく開き、結乃が姿を現した。

 目を合わせられない。視線に気づいたら、きっとそらされるから。


 居心地の悪さに顔を歪めたいのを意地でこらえながら、いつもの道を歩きだす。

 まるで気を紛らわすように、冷たい秋の風が吹き抜けていった。

 この前まで半袖を着て汗をかいていたのに、今では羽織るものがないと肌寒いくらいだ。


「帰ったら届いてるかもな」


 隣を歩く慶太に、にやけ顔で囁かれた。


「何が」


 前を向いたまま、無機質な声であしらう。噛みついてはいけない。絶対に。


「結乃ちゃんからの、誕生日プレゼント」


 語尾に星をつけたような彼の物言いに、意識して大きなため息をついた。

 夏祭りの夜の出来事を知られてしまってから、彼のいじりがエスカレートしたのは、気のせいではないだろう。

 おかげで、かわすすべもだいぶ上達したけれど。


「覚えてないって。僕の誕生日なんて」


 ――そうだ。きっと覚えていない。仮に覚えていてくれたとしても、何かあるとも思えない。


「わっかんねぇぞぉ」

「こらこら。ほどほどにしときなさいよ」


 見兼ねた志歩に、後ろからたしなめられる始末だ。これには、慶太もおとなしく口をつぐむしかない。

 カップルというより夫婦みたいだな、と大和は小さく笑った。



 こんなに憂鬱な誕生日が、かつてあっただろうか。


「えっと、あとは……そうそう、来週の実力テストですが――」


 教卓の前に立って話す女教師の声が、ひどく遠く感じる。

 テストなんてどうでもいいんです、先生。


 周囲と一枚のガラスで隔てられたような感覚の中、頭をよぎるのは、結乃のことばかり。

 今の危機的状況から脱するには、何をどうすればいいのだろう。


 もう一度、彼女のまっさらな笑顔が見たい。ちゃんと目を見て話したい。

 悶々としながら、ふと思い浮かんだのは、母の「男なんて腐るほどいる」というあの言葉だった。

 認めたくないけれど、本当にそうなのだと思う。実際、結乃に想いを寄せていた人物は他にもいたのだ。いや、なにを勝手に過去形にしている。今だっているかもしれない。

 もし、こうやってぎくしゃくしている間に、彼女が心変わりなんてしてしまったら――


 やけにリアルな不安の沼にはまりかけたとき、教室内が突然騒がしくなった。「疲れたー」「やっと帰れるー」などと、生徒たちの解放的な声が飛び交う。懊悩おうのうしているうちに、帰りのホームルームが終わったようだ。

 大和もはたと気を取り戻し、席から立ち上がった。


 他の生徒に紛れてロッカーからスクールバッグを引っ張り出す。それを手に再び自分の席に立って必要な荷物を押し込み、ひと息ついたところで、


「おっす!」


 誰かに肩を叩かれた。そのわんぱくな口調でだいたい予想はつくけれど。


「何だよ、辛気くせぇ顔して」


 慶太が、動作同様に軽々しくそう言って、背後からこちらを覗き込んでくる。

「別に」と不愛想に返して後ろを向いたとき、とある違和感を覚えた。――答えはすぐに見つかる。


「あれ、志歩は?」


 いつも隣にいるはずの彼女の姿がないのだ。


「あぁ、ちょっとな。『だいたい想像通りの台詞聞いた後、ごめんなさいって返事したらすぐ追いかけるから』だってさ」


 比較的長めの説明だったこともあり、言葉の意味をきちんと理解するのに時間がかかってしまった。けれど、その裏に隠された可能性に気づいた瞬間、思わず驚きの眼差しを向ける。


 それってもしかして。もしかしなくても。


 声にならない動揺を必死に伝えるが、慶太は特に気にする様子もなく、「先行ってようぜ」なんて言って、教室の出入り口へ歩きだす。

 彼は良くも悪くも楽観的だから、何も勘づいていないのだろうか? それにしても、あそこまで言われたら、事を告げたのも同然だと思うのだが。それとも僕の考えすぎ? でも……


「ほら、ボケっとしてると置いてくぞ」


 様々な疑問が浮かんでは消えたが、結局のところ、本人に直接尋ねる勇気もなく、急かされるまま慶太の背中を黙って追いかけた。

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