予期せぬ苦み
*
少しだけ――いや、虚勢を張るのはやめよう。かなり焦っていた。予期せぬ今の状況に。あの夜の幸せは、一体どこに行ってしまったのだろう。
「そういえば」
重く沈んだ気持ちを追いやるため、大和は無理やり意識を現実へと向ける。
今日、夏休みが始まって最初の登校日に、志歩の姿はなかった。
「志歩、なんかあったの?」
じりじりと照りつける太陽の下、自宅に向かいながら、隣を歩く慶太に尋ねる。
可能な限り一緒にいるふたりのことだ。きっと何かしら連絡を取っているだろう。
「んー、女の事情ってやつ?」
「女の……事情?」
小首をかしげると、慶太は「ほら、アレだよ。男には一生分からない
それで、ようやくピンとくる。
「ったく、ほんっと鈍いよなぁ、お前」
遠慮なくつっこまれるが、本当のことなので何も言えない。
そういう理由ならしかたないと思う。登校日といっても授業はないし、提出物のチェックと教室の掃除をするくらいなので、無理はしないほうがいいだろう。
「なんか、親はいつも通り仕事だし、結乃ちゃんも習字終わったらそのまま友だちんち遊びに行っちゃうとかで。誰もいないからお前が来い! ってさ。めんどくせぇ」
なんて言いつつも、その表情はどこか嬉しそうだ。
「ということで、今日はおうちまでお供しまーっす」
おどける慶太を見ていたら、やにわに嫉妬心が湧いてきた。
こちとら実りかけた己の恋の行く末が気がかりでしかたないというのに、それを尻目に、まあ幸せそうな顔をするものだ。……こんなの、彼からしてみれば、ただの八つ当たりでしかないだろうが。
「で? そっちはどうなん?」
突然の質問に、心を読まれたような気分になった。
「え、何が?」
目をそらしたいのをどうにかこらえて、平然を装う。
「しらばっくれんなよぉ。知ってるんだぞぉ」
にやにやと挑発的な笑みを浮かべる慶太。逃がさないとでもいうふうに、肩をがっしり抱かれる。
「『今、滑り台のてっぺんで、空がきれいだってはしゃいでる子のことが好き』」
雲ひとつない青空を見上げながら囁かれた一言に、耳を疑った。
「えっ!? ちょ……なんで、それ……」
「俺たちが見てないとでも?」
またも勝ち誇ったような笑みを返され、大和はむっとしながらそっぽを向く。今度はごまかせなかった。
「……そりゃ思うだろ。お前はお前でデートだったんだし」
「おっ? 今、お前はお前でとおっしゃいましたか? おっしゃいましたよねぇ?」
「あっ、ちがっ……そういう意味じゃなくてっ!」
「何が違うのかなぁ? 大和くん」
慶太はこちらの気も知らず、
いつものように帰り道が分かれなかったせいで、ずいぶんと長い間、いじり地獄でもがく羽目になった。
そんなこんなでへとへとになって家に着き、玄関を上がると、甘く優しい匂いが鼻孔をくすぐった。
何だか久しぶりのような気がする。
きっと隣に栞奈がいたら、餌を待ちきれない子犬のように、嬉々とした表情ですっ飛んでいったことだろう。あるはずのないしっぽをぐるんぐるんと回す様が想像できるほど。
「めずらしくない? オムライスなんて」
ただいまの代わりに、そう言いながらダイニングを覗くと、「あら、匂いで分かったのね」と母の微笑みが出迎える。 いつもは緩くおろしている栗色の髪を、後頭部でひとつにまとめていた。
テーブルに目をやると、すでに、ケチャップで彩られた明るい黄色の丘が、皿の上で湯気を立てて待ち構えている。
その傍らに添えられた赤いものの正体に気づき、大和は思わず眉根を寄せた。
「久しぶりでも抜かりなしですね」
「ミニよ。これでも手加減したほう」
さらりと答えて椅子に腰をおろした母に、「はいはい」と生返事をし、大和もテーブルを挟んだ向かい側に座り込む。
そばにあったアルコールタオルで手を拭くと、オムライスが乗せられたお皿を自分のほうへ引き寄せ、静かに手を合わせた。
苦手なものは先に片付けてしまおうと、独特な青臭さを放つ赤い球体にフォークを伸ばしたとき、
「……やっと作れたわ」
母が窓の外を眺めながら、ぽつりと呟く。
軽々しい響きとは裏腹に、そこにある苦労と切なさが伝わってくるようだ。「やめろよ、湿っぽくなるだろ」なんて茶化す勇気もなく、大和は曖昧に笑った。
すると、母が「あっ」という顔をしたので、瞬時に察し、あわてて口を開く。
「大丈夫。もうほとんど克服したから」
以前、結乃にも同じような顔をさせた覚えがある。
厄介な拒絶反応のせいで、周りに相当な気を遣わせていたのだとあらためて痛感し、心苦しくなった。
「そう。言われてみれば最近、薬飲んでないもんね」
ほっとしたように答えた母にうなずき、木枠の中の栞奈に目を移す。
その前には、自分のものと同じように作られた、黄色い丘がひとつあった。お供え用に小さくしたわけでもなく、ちゃんと一人前。
そしてその傍らに、オムライスにはちょっと不釣り合いな茶色が添えられている。
母のお手製オムライスは、子供たちの大好物で、特に栞奈に至っては目がなかった。しかしそこには、必ずふたりの嫌いなものが付け合わせとして盛られたのだ。
大和には、乱切りにしたトマト。栞奈には、細切りにしたしいたけ。
オムライスの隣にあるそれは、なぜかおいしそうに見え、最初の一回だけはふたりとも騙されて口に入れた。おそらく母もそれが目的だったのだろう。
でも、おいしいものと同じお皿に乗っているからといって、味が変わるはずもない。二回目以降は、母の目を盗んで、お互いが相手の付け合わせを処理したものだった。
さすがに今はやらない――できないけれど。
無意識のうちにそんなむなしい変換をしてしまった自分に、嫌気がさす。気を紛らわそうと、一度フォークを置いてお茶の入ったコップに口をつけた。
「そういえばあんた、結乃ちゃんと話すとき『大和くん』から『大和』って呼び捨てに昇格したわよね? いつだったか添い寝してたし」
ちょうどお茶を含んだタイミングで、母がそんなことを言うものだから、危うく噴き出しそうになる。
慶太といい、母といい、今日は周囲から冷やかされる運命にあるらしい。というか、昇格って……
むせながら、近くにあったティッシュを手に取って口を拭い、「何だよ、突然」と受け流そうとした。
しかし、母は「何かあるなら白状しなさい」と言わんばかりに、挑むような眼光を飛ばしてくる。
決定的な証拠を握られてしまったことだし、ここは負けを認めるしかないようだ。
「何も……なくはない」
そう。今は良くも悪くもいろいろある。
すると、その瞳がますます強い光を帯び、
「けど、付き合ってはない」
そう続けたら、今度は落胆のため息とともに消えていった。
「なーにその中途半端ぁ」
「だ、だって……」
そんな子供みたいにぐずられても、彼女たっての希望なのだからしかたない。ちゃんと想いを伝えたのかと言われたら、微妙なところではあるけれど。
「何ていうか……あんたは父さんに似て、慎重すぎるのよねぇ。たまには清水の舞台から飛び降りるつもりで、思い切ってアタックしてみたら?」
それができれば苦労しません、なんて言い訳はぐっと呑み込む。
だが事実、今飛び降りても溺れるだけだろう。
「相手が想ってくれてるからって油断してると、誰かにとられちゃうわよ? この世に男なんて腐るほどいるんですから」
男なんて腐るほど、という言葉に、なぜかガリ勉眼鏡くんの顔が思い浮かんだ。大和はそれを掻き消すように、ミニトマトをフォークで突き刺し、噛み潰す。
比較的厚い皮を破った次の瞬間、中から酸味のある液体が飛び出し、青虫を想像させる臭いが口内に広がる。やっぱり苦手だ。
何だか、とっても苦い。口の中も、心の中も。
「まあ、前の彼女とは長続きしなかったみたいだし、今度はうまくやりなさいよ」
予期せぬ忠告に、またむせそうになる。
――どうしてだ? なんでだ!?
ほんとにすぐ別れたのに。栞奈とのつながりはともかく、恋人として家に連れてきたことなんてないのに。
絶対バレてないと思ったのに!
混乱して声にならないそのすべてを悟ったように、母は意地悪な含み笑いを浮かべる。
母親という存在に、説明のつかない恐怖心を抱いたのは、これが初めてだ。
その威圧に、「そんな簡単じゃないんです」と今度こそ泣き言を垂れたくなった。
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