背中合わせの誓い
*
結乃は誰もいない子供部屋で、カーペットに寝転がり、すり寄ってきたソルトの白い背中を撫でさすっていた。
「暇だねぇ……」
あくび交じりに語りかけると、ソルトは晴れた日の海を映し込んだような瞳をこちらに向ける。
「――?」
問いかけるような鳴き声がかわいらしくて、背中に添えていた手を移し、今度は喉もとを撫でてやった。すると、気持ちよさそうに鳴らす。その愛らしさにふにゃりとほころばずにはいられない。
夏休みが始まってしばらく。気づけば八月に入り、うだるような暑さが続いていた。日が沈んだ今はまだマシな気がするけれど、体にまとわりつくような熱気はしつこく残っている。
志歩を含める中三組は、先日無事に最後の大会を終え、部活を引退した。
慶太がキャプテンを務めるサッカー部は、全国大会の一歩手前までコマを進めたが、惜しくも決勝で敗退。
他のふたりはというと、人に話して聞かせられるような結果は残せなかったようだ。
真面目な志歩のことだから、ここから受験に本腰を入れるのかと思ったら、今夜は「あーもう、着付けめんどくさっ!」なんてぶつくさ言いながら、浴衣姿で近所の夏祭りに出かけていった。
たぶん、デートだ。慶太と一緒に、中学最後の夏休みを満喫するつもりらしい。
「夏祭りかぁ……」
結乃は人混みが苦手な
――ちゃんとするよ。結乃が、嫌じゃないなら。
突然、いつかの甘く男らしい声が降ってきて、頭からつま先までが一気に熱くなった。
するとその瞬間、自分から関心がそれたことを理解したのか、ソルトがその場を離れていってしまう。
「あぁー、いかないでー」
情けない声で引き止めてみるも、素知らぬ顔をして部屋の隅で丸くなる。猫はいつだって、自分のために生きる動物だ。
全身の火照りをごまかす方法がなくなった結乃は、小走りでカーテンのかけられた窓へ向かい、勢いよく開け放った。
生ぬるい風が頬をすり、室内へと流れ込む。
「きれい……」
外に目を向けたとき、自然とそう漏れた。
今日の空は、夏らしい濃厚な紺色。月も星も見当たらなくて、花火が映えそうだ。
――今日の夏祭り、花火の打ち上げはあるんだっけ?
そんなことを思いながら、窓際の勉強机に置かれたスマホを手に取る。連絡先を選び、耳に当てた。
コールが重なるたび、やけに胸が高鳴るのは、きっと相手が彼だからだ。
『もしもし?』
四回目のコールの後、鼓膜に届いた低く優しい声に、結乃は服の胸もとをきゅっと握りしめる。
「ねぇ、大和……」
くんは意識して呑み込んだ。
「空が、きれいだよ」
少しの間があり、『え?』と不思議そうな声が返ってきたとき、はっと目が覚めた。
「あっ、えっ……と、暇だったので電話してみました」
とっさに、当たり障りない言い訳が口をつく。
嘘だ。空がきれいだと、誰かに伝えたかった。違う。誰かではなく、彼に。
『今、ひとり?』
不思議そうなトーンではあるものの、先ほどの言葉を深く追及されなかったことにほっとしながら、「うん」と答える。
「親は仕事。お姉ちゃんはデート。さっきソルトにもフラれて、独りぼっちです」
ふて腐れたように言うと、彼はあららとでもいうように小さな吐息を漏らした。きっと、電話の向こうで微笑んでいるのだろう。
『暇なら行ってくれば? 夏祭り』
「人混みが苦手なもので」
苦笑すると、『あー、分かる。僕もそういうタイプだから』と納得したような声が返ってくる。声色に、自分と同じ困ったような雰囲気が滲んでいた。
「行ったらそれなりに楽しいんだろうけどね。人混みに揉まれて疲れるくらいなら、公園でゆっくりしたいかなぁ」
答えた後の、わずかな沈黙。
『じゃあさ……』
その慎重な響きに何かを予感するように、胸の奥が控えめに脈を打つ。
『行きますか、公園』
その一言は、穏やかなのに妙に力強い。別に深い意味などないはずなのに、そこには密かな決意が隠れている気がして、また全身が熱くなった。
*
約束の場所にたどり着くと、結乃は薄闇に隠れた滑り台のてっぺんに座り込んでいた。「きれー」なんて言いながら、藍色の空にスマホを向けている。
「めずらしいところにいるね」
お待たせと言うのは何だか違う気がして――気恥ずかしくて、そう声をかけた。
「空が近いから」
と無邪気な微笑みが返ってくる。
結乃がいる踊り場には、さすがにふたりがおさまりきれるスペースはないので、大和はうずく気持ちを抑えて、滑り台の傍らに腰をおろした。
あえて彼女に背を向けたのは、どういうわけか、心臓が今までにないほどおかしなリズムを刻んでいるからだ。
いや、本当は分かっていた。
夜はときに、独特な雰囲気と色彩で人を惑わせる。
「なんか最近、急に暑くなったよね」
「そうだね」
ごまかしのなんてことない一言に、彼女がなんてことない返答をしてくれる。たったそれだけで、自分の中の感情が好き勝手に暴れだすのだから、困ったものだ。
季節の移ろいとともに、少しずつ、けれど確実に変わり始めていた。
大切な人の死からどうにか前を向けたことも、今そばにいる彼女との関係も。空がきれいだなんて、他愛もないことで電話を寄越してくれるくらいには。
だったら、もっと大きな変化をもたらすタイミングは今なのではないか。電話越しに会話しながら、そんなふうに――思ってしまったのだ。
「大和はさ、好きな人、いる?」
「いるよ」
顔が見えないからだろうか。自分でも驚くほど素直に口にできてしまった。なぜだか分からないけれど、背中越しの彼女も、同じ気持ちで、次の言葉を待っている気がした。
「今、滑り台のてっぺんで、空がきれいだってはしゃいでる子のことが好き」
遠回しな言い方はやめよう。そう思って小さく息を吸ったとき、「私ね」と彼女がそれを遮る。
「……夏休み前に、ナオくんに告白されたの」
背筋が、とたんに冷たくなった。
「でも断ったよ。他に好きな人がいるからって」
あくまでも落ち着いた口調で言うと、彼女は滑り台を滑りおりて自分の後ろに回り、背中と背中をくっつけるようにして座る。
そのあたたかさに頬が熱くなるのを感じた。が、それもほんの一瞬のことで、「だけど」と続いた逆接に、また背筋が伸びる。
「その人のことは確かに好きだけど、付き合うとかカップルとか、そういうのはよく分かんないっていうか……それに、今付き合っても、いろんなこと我慢させちゃうだけだと思う。だから――」
心臓がじわりと引き締まるような感覚が苦しくて、両目をかたく閉じる。
「もうちょっと大人になるまで、待っててくれませんか?」
目を開く。
彼女が敬語になるのは、極度に緊張している証拠なのだと、最近理解した。
今の言葉が、歳のわりに大人すぎる彼女が考え抜いた末に出した答えなのだろう。
その決断に返せるものがあるとしたら、たぶん、ひとつだけだ。
「待ってる」
ただ、これだけ。
「いくらでも、待ってます」
誓うように繰り返すと、背中の向こうにいる彼女が、ふっと笑み崩れたのが分かった。
大和もつられて喜びの吐息を漏らす。
ふたりの心が通じ合ったことを祝福するかのように、遠くで花火の音が響いた。
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