初めての懐かしさ


 *


「帰ろっか」


 花火の音が止んでしばらくした頃、先に立ち上がってそう言ったのは結乃だった。


「うん」


 後ろ髪を引かれる思いで、大和も腰を上げる。

 ふたり並んで歩きだすと、ふいに自分より一回りほど小さな手が、自分のそれに触れた。

 当たってしまっただけかと、特に気にせず流そうと思ったら――また触れた。


 ――もしかして、そういうことですか……? 


 と目で問うと、彼女は照れくさそうにうなずく。


 ……うろたえながらも、要望に応えるべく、ぎこちない動きでその手を取り、包み込むようにして握った。


 これは練習だ。そう、練習なのだ。


「緊張しすぎだよ」


 微笑交じりの指摘にますますかたくなり、ロボットのような足取りで、一歩ずつ、一歩ずつ前へ進む。

 おかしいな。一応、何度か恋人つなぎを経験した身なのだけれど。


 そう思ったとき、千夏からもらった手紙に書かれていた、辛辣な意見がぱっとよみがえってきた。

 頼りがいがないって、こういうところだろうか。

 さっきだって、事の流れとはいえ、一番大切な言葉を伝えられないまま終わってしまった。なんて情けないんだろう。

 自分自身に落胆していると、


「あっ、後ろ」


 結乃が唐突に呟いて、後ろを振り返る。

 大和も反射的に同じ動きをするが、誰も、見当たらない。


「ちょっ、え? 何なに、何なの? やめてよ、急に」


 明らかにおびえた大和をもてあそぶように、結乃は、


「私さぁ、強いんだよね。れ、い、か、ん」


 と、自分の頭の右端あたりを人差し指でつついた。


「ほっ、本気で言ってる……?」


 大和の声が震え始めても、「嘘ついてどうするの?」なんてあっけらかんとしている。


「大丈夫だって。悪霊じゃないから。髪の毛ふたつ結びにしたちいさい女の子。もう私の声にびっくりしてどっか行っちゃった」


 具体的な説明にいっそう怖くなりながらも、


「いつから見えるの?」


 好奇心が先立って質問を重ねた。いや、「冗談でした」の一言がほしかっただけかもしれない。


「うーん、物心ついたときには見えてたかなぁ。最初はみんな見えるもんだと思ってたくらいだから」

「マジか……」


 動揺するあまり、言葉を選べなくなる。


「幽霊っていうと、みんな無条件に怖がるけど、全部が取り憑いたり、悪いことしたりするわけじゃないんだよ? っていうかむしろ、そっちのほうが少ないんじゃないかな?」


 幽霊についてこんなに熱く語るところからしても、どうやら本当に「見える」ようだ。


「じゃあ……」


 何の気なしに呟くと、結乃は瞬間的に察したらしく、少し驚いた様子でこちらを振り向いた。

 けれど、すぐにそれを微笑みに変え、「うん。まあ、そういうことになるだろうね」と答える。


「あのときは、大和――も見えたんだよね?怖くなかったでしょ?」


 あ、今「くん」って言いかけてこらえた。

 小さくても確かな変化に喜びを噛みしめながら、うなずく。


 間違っても怖くはなかった。恥ずかしげもなく、天使だなんて思ったくらいだ。


「何もおびえることなんてないんだけどね。いつかみんながいく場所に、ちょっとした事情でいきそびれちゃっただけなんだから」


 結乃の言葉に、大和はくいと首を持ち上げ、夜空を見つめる。つないだ手のやわらかさにも、だいぶ慣れてきた。


「みんながいく場所……」


 ぽつりとこぼして、思う。


 自分の目の前に、あんな姿で現れたということは、栞奈も、いけなかったのか。嘘か本当か分からないけれど、この空の上にあるという世界に。


 夜がその濃さを深めたからか、先ほどまで何もなかったはずの群青には、点々と星がきらめいていた。



 自分たちの家が並ぶ敷地へと足を踏み入れたとき、ある違和感を覚えた。

 暗闇の中に、丸い光がふたつ、浮いている。


 あれは……


 思考の隅をつついた答えは、「あっ!」という結乃の叫び声に消えていった。


「もー、またなの? ソルト」


 手をつないだまま、半ば結乃に引きずられるようにして、光のほうへ向かう。

 ソルト? あぁ、たしか朝比奈家で飼っている猫が、そんなちょっと変わった名前だったか。そういえばさっき、電話でも「ソルトにフラれた」とか言ってたっけ?

 距離が縮まるにつれ、ぼんやりとうごめいていた影が、徐々に輪郭を帯びていく。

 はっきりとその実体を確認できる位置までくると、結乃は軽く息を切らしながら、足を止めた。


「よかった……道路、出てなくて……」


 呼吸を整えながらそう言う彼女の足に、ソルトは許しをうようにすり寄ってくる。


「甘えたってダメなの。もう」


 彼女は幼い子供を叱るような口調で言うと、ようやくつないでいた手を離し、小さくて真っ白な体をひょいと抱き上げた。

 と、闇に浮かんだ蒼い瞳がこちらを見つめ、


「――」


 か細い声でひと鳴きする。シルクのように艶やかな白い毛は、対照的な夜の闇によく目立った。


「最近、脱走するようになっちゃってさ。困るんだよねぇ」


 苦笑交じりで言う結乃の表情は、呆れ果てたようだけれど、どこか幸せそうにも見える。


 ねぇ、どこから出たの? 私、勝手口の鍵ちゃんと閉めたよね? まさか自分で開けた?

 胸に抱いたソルトと目を合わせ、問いかける結乃。


 まるで人と猫とが会話しているようなその姿は、初めて見る光景なのに、ひどく懐かしい気がして、笑みがこぼれた。

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