彼女の選択
*
『明日だけでいいんです。私と一緒に帰ってくれませんか?』
昨日の夜、彼女から送られてきたよそよそしい一文が、今の状況を作りだした。
大和は夕暮れに照らされながら、ぎこちない様子で隣を歩く千夏を見やる。
頭の後ろでひとつに結ばれた長い髪は、やはり真っ黒だ。
「そういえば、髪染めるの、やめたんだね」
黙っているのも何だか気まずくて、そう言うと、千夏は短く「あっ、うん」と答えた。
照れ隠しなのか、さっきから右サイドの後れ毛を人差し指にくるくる巻きつけている。
「シマウマは、シマウマらしく生きることにしたの」
言葉の意味するところが分からず、きょとんと首をかしげたら、なぜかプッと噴き出された。
「似合ってるよ、黒髪」
と声をかける。
すると、彼女はピタリと笑うのをやめ、「ありがと」と控えめな笑みを返してくれた。
「私ね、ものすごく弱い人間なんだ。いじめられても、ただ黙ってることしかできないような」
彼女は、夕焼け空を見上げ、昔を思い起こすように、ゆったりと話し始める。
「小学生のとき、栞奈に話したことがあるの。この世界をサバンナに例えるなら、自分は隅っこで草食べてるシマウマみたいなものだから、ライオンに食べられないようにおとなしくしてなきゃいけないって」
なるほど、と先ほどの言葉に納得しつつ、今度は大和が笑ってしまった。相変わらず発想がユニークだ。
「そしたら栞奈、不思議がるどころか、『じゃあ私は?』なんて言って目キラキラさせて」
「で、なんて答えたの?」
楽しそうな横顔に尋ねると、彼女はこちらに目を向け、「キリン」と一言。これはまた意外な動物が出てきた。
「基本的に優しいけど、怒ると怖いくらい強いから。普段は穏やかに見えるキリンが、襲いかかってくるライオンを蹴落とすみたいに」
傍から聞けばちょっと引いてしまうような理由かもしれないが、大和には何となく分かった。ふっと胸をかすめた懐かしさに、口もとが優しく緩む。たしかに栞奈は、そんなふうに正義感の強い女の子だった。
「中学になって栞奈とクラスが離れてから、独りになりたくないなって思ってるうちに、面倒な女子グループに引きずり込まれちゃってさ。離れたくなったときには、もう手遅れで」
初めて耳にする事実に、ふと、いつか千夏を
あのときのただならぬ雰囲気には、部外者であるはずの大和も背筋が凍る思いだった。
彼女たちの間に、何かしらの
千夏はそこで再び夕空を見上げ、「でも、栞奈が助けてくれた」と切なげに呟く。
「付き合ってた頃、こうやって大和と一緒に帰れたのも、栞奈が私の身代わりをしてくれてたからなんだよ」
けっして届かない空に向かって話し続ける彼女に、大和は何も言わず微笑みを返した。
詳しい事情は分からない。けれどきっと、彼女にとって栞奈は、戦隊もののヒロインのような、憧れの存在だったのだと思う。
「約束したばっかりだったのにな、あの日。自分に正直に生きようねって」
あの日という言葉が、小さなとげになって胸の奥を痛めつけた。栞奈が、突然遠くにいってしまった日、彼女たちは、一体どんな言葉を交わしたのだろうか。
「私、栞奈みたいな人になる」
千夏は、自分の中でくすぶっている何かを吐き出すように、清々しく断言した。
「栞奈みたいに、いつも誰かのために優しくて、誰かのために強い人」
その宣言に、またふっと笑みを漏らしたとき、彼女の家が見えてきた。ほんのわずかな期間、恋人らしく手をつないで送り届けた家。
「着いたよ」
足を止めて告げる。と、隣の彼女が、小さく息を呑んだ気がした。
そして、こちらをじっと見つめたかと思うと、淡い紅色の唇が開き――そのまま閉じてしまう。まるで何かをためらうように。
でも、
「……ここでいい?」
戸惑いを隠しながら口にした問いかけに、彼女は強く、
――僕の予感は、思い過ごしだったのだろうか。いや、
「じゃあ……また」
大和は短くこぼし、家の前に立ち尽くす千夏を残したまま、自宅に向かって歩きだす。
数歩進んだところで、ふいに思い出して腕を見てみる。けれど、いつもと同じ肌色が西日に照らされているだけだった。
家に帰ると、大和はスクールバッグをおろすことも忘れ、足早に子供部屋へ向かった。
いつもはダイブするベッドを素通りして勉強机の前に立ち、引き出しを開けると、一冊のノートの下を探る。
姿を見せたのは、しわくちゃになったふたつの手紙。
――元カノちゃん、大事な話があるみたいよ?
昨夜、志歩から送られてきた、からかうようなメッセージ。
その数分後に送られてきた、よそよそしく、緊張の滲んだ文章。
水玉模様の薄い紙に残された、丸っこい文字をあらためて追いながら、大和は考える。
勘違いなら恥ずかしい話だが、事の流れから推測するに、千夏には、自分に伝えたい想いがあった。けれど最終的に、伝えないという選択をしたのだ。
別れ際の、ひどく思い詰めた表情が、彼女の
ベッドの中で何度も練習した、ありふれた台詞は、幸いにも出番がなかったということだ。
もしかすると彼女は、この胸の中にある本当の想いに、とうの昔に気づいていたのかもしれない。だから、不毛な恋に自らピリオドを打った。
今からでもいいから、情けない彼氏で悪かったと、謝るべきだろうか。
違う。
彼女が望んでいるのは、そんなことじゃない。ここに書いてあるではないか。
「……僕も、変わらないと」
大和はスクールバックを床におろしながら、自身に言い聞かせるように呟く。そして、便箋をそれぞれの封筒に戻し、そのひとつを片手に、部屋の隅に置かれたごみ箱の前へ立った。
封筒の端に指の力を集中させ、縦に引くと、鈍い音とともに
長い間引き出しの奥に眠っていたそれは、しわくちゃなのに、まるで彼女の意思のようにしっかりとしていて、とてもかたかった。
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