シンプルイズベスト

 

 *


 夏場の窓際は最悪だ。


 二時半下校の月曜日。五時限目の国語をどうにか眠らずに終えた慶太は、中央列の窓際にある自分の席に座って帰りのホームルームを待ちつつ、下敷きをうちわ代わりにしてあおいでいた。

 窓から注ぐ日差しが鬱陶しくて、眉間にしわを寄せる。七月も中旬に差しかかり、夏休みを目前に控えた今、暑さもいよいよ本格的になってきた。


「あっぢー!」


 喉の奥からしぼり出したような低い声でうめき、へなへなと机に伏す。暑さって、どうしてこう人の生気を奪うのだろう。


「慶太」


 ふいに頭上から降ってきた涼やかな声に、全身が元気を取り戻す。あわてて顔を上げると、視線の先には、やはり志歩がいた。


「ごめん。今日一緒に帰れない」


 さして申し訳なさそうでもなく、さらりと告げた彼女。突然のことに、慶太は「え、なんで?」とちょっと間抜けに首をかしげた。

 全校一斉二時半下校のときは、校内一のスパルタとして知られるサッカー部も放課後練習をしない。そのため、志歩と一緒に下校してふたりきりの時間を過ごすことがほとんどなのだ。

 楽をしたツケはその日の夜錬に回ってくるだけなので、慶太にとってそれは、貴重な「充電タイム」でもある。

 ポカンとした様子の彼に、志歩は窓際に顔を寄せて近づき、


「大和の元カノに相談持ちかけられた」


 と、聞き捨てならない一言を耳打ちした。


「は!? 何それ。超気になるんだけど」


 即座にそう返して、言外に「俺も聞きたい!」オーラを漂わせてみたが、


「ダーメ。男子禁制。っていうか、私と相談者以外禁制」


 志歩は両腕をクロスさせ、体の前で大きなバツ印を作る。

 全面的に仲間入りを拒否された慶太は、つまらなそうに頬を膨らませ、


「えー、でもさぁ……」


 幼い子供みたいに駄々をこねた。

 容赦ない厳しい練習と、理不尽な鬼コーチに真っ向から向き合うために、「充電タイム」はかなり重要な役割を果たしているのだ。


「今度なんか奢ってあげるから」


 志歩も、聞き分けのない幼児をなだめるように言い、また窓際に顔を寄せて近づいた。

 そして、慶太の左頬、耳もとに近い部分に――そっと口づける。

 それはほんの一瞬の出来事で、気がついたときにはもう、何食わぬ顔をした彼女が目の前に立っていた。

 しばらく呆然としたのち、気づく。


 人前でキスはしない。これはふたりで決めたルールだ。破った者は、罰として相手に何でも好きなものを奢ることになっている。欲に負けて、慶太が財布の中身を空っぽにしたことは数知れない。

 彼女は今日初めて、この約束を、なるべく人目につかないようにこっそりと、計画的に破ったのだ。

 わがままを受け入れてもらう代償だいしょうか、たった今口にした言葉を嘘にしないためか。あるいはその両方かもしれない。


「じゃあ、そういうことで」


 キスの余韻など微塵みじんも残していない顔で立ち去ろうとした彼女は、ふと、思い出したように足を止める。そうしてゆっくりとこちらを振り返り、


 ――やまとにも、ないしょ、だ、か、ら、ね。


 と口の形だけで忠告した。

 慶太がうなずくのを見届けると、黒板のほうへ遠ざかっていく。その背中に彼は、


「不意打ちの魔女だな」


 感心と恐怖の入り混じった一言を呟いた。


 *


 こりゃまた面倒なことになりそうだ。


 志歩は内心で頭を抱えながら、オレンジジュースが入ったコップをふたつ、食卓の上に置いた。ひとつは自分が座る席へやり、もうひとつはその向かい側へ。マナー的にはお茶菓子も出すべきかもしれないが、あえて飲み物だけにしておいた。


 あまり長居されるとこちらが困るのだ。おそらく、恋愛――大和絡みと思われるこれからの話題は、結乃が帰ってくる前に終わらせなくてはならない。タイムリミットは一時間ほど。今日が二時半下校でよかった。

 それに、何しろナイーブな問題だ。人目と集中力を配慮して自宅に呼んだのだが、子供部屋にはテーブルがないので、ダイニングに落ち着いた次第である。

 両親はいつものごとく仕事に出ているし、ここなら赤の他人に聞き耳を立てられる心配もない。


「座って?」


 少し困ったような顔をして目の前に立ち尽くす少女――千夏にそう促すと、彼女は「ごめんなさい、突然押しかけちゃって」と椅子に腰をおろす。

 その髪色は、おぼろげな記憶の中に残っていた、金に近い薄めの栗色から、主張の強い人工的な黒色に変わっていた。それなりに長さもあるらしく、頭の後ろでポニーテールに結われている。


「髪染めるのやめたの?」


 っていうか校則で禁止されてるから染めちゃダメなんだけどね、と思いながら、志歩も向かい側の椅子に腰かける。


「はい。シマウマは、シマウマらしく生きることにしたんです」


 彼女の意味深な答えに、志歩は小首をかしげたが、どこか切なげな微笑みが返ってきただけだった。

 それから彼女は、「あっ、そういえば」と少しわざとらしく手のひらの上でこぶしを打つ。


「あの、すみません。もしかして彼氏さんと何か約束とか――」

「あー、いいのいいの。あんまり一緒にいすぎると、お互いにウザくなって喧嘩するから」


 早く話を終わらせなければ、という焦りもあり、言い終わる前に言葉をかぶせる。そんな志歩に、千夏は気分を害した様子もなく、「そうなんですか」と苦笑いを浮かべた。


「でも、喧嘩できるって大事なことだと思います」


 その一言で、予想が一歩正解へと近づいた気がした。と同時に、ある違和感を覚える。一刻も早く本題に入りたいところだが、これだけは訊いておこう。

 オレンジジュースに口をつけてから、志歩は「あのさ」と口を開く。


「千夏ちゃんって、クラスは違うけど同い年だよね? なんでさっきから敬語なの?」


 すると彼女は、「そりゃあ……」と妙にもったいぶった後、


「志歩ちゃんは、恋愛の大先輩ですからっ!」


 やたら熱意のこもった眼差しで言い放つ。

 訊いただけ時間の無駄だった、などという身も蓋もない感想はどうにか呑み込み、志歩は曖昧な笑みを返した。


「で、ご相談は?」


 本題に移るよう促すと、千夏は急に真面目腐った顔をする。苦笑したり、熱く見つめてきたり、忙しい子だ。


「……未練を断ち切るには、どうしたらいいですか?」


 こちらをまっすぐに見据え、重々しく紡がれた言葉に、やっぱりな、と思う。


「まだ、好きなんだ?」


 単刀直入に尋ねると、彼女はゆっくりと深くうなずき、


「っていうか、惚れ直しました」


 なんて言って、かわいらしく照れ笑いをする。


「うーん……」


 良案を探すように頬杖をついて天井を見上げた志歩だったが、答えはすでに出ていた。


 恋愛の大先輩、というよく分からない理由は抜きにしても、千夏が相談相手に志歩を選んだということは、彼女もある程度察しがついていると思っていいだろう。

 そんな状況の中、この方法を選択するのは少々こくかもしれないが、下手にこじらせて、最近ようやく「いい感じ」になってきているふたりの妨げになってもらっては困る。


「だったら――」


 お互いが納得のいく形で決着をつけるためにも、やはりここはシンプルイズベストでいくべきだ。


「もう一回告白してみたら?」


 そう投げかけたときの千夏の表情には、驚きも、戸惑いもなく、ただ、大きな決意だけがうかがえた。

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