真夜中の再会

  

 *


 ――咳、止まらないな。


 大和は、同じ布団の中で寄り添っていることよりも、結乃の容態が落ち着かないことに焦りを感じていた。

 咳き込むたびに背中をさすってやるのだが、そこにはしぼれそうなほどじっとりと汗が滲んでいて、パジャマの上からでも体が保っている熱を感じ取ることができる。胸もとにかかる吐息さえ熱い。


 こんな調子では、きっと眠りも浅いだろう。そんな結乃とは対照的に、志歩はすやすやと眠りこけていた。

 彼女も、夕方から慣れないことの連続で疲れがたまっていたのだろう。結乃の看病を引き受けたのは自分だし、文句を言うつもりはないけれど、その違いに心が痛んだ。


 何とかならないものかと思いながら、高熱のために潤んだ結乃の目尻を指先で拭う。――そのとき、ふと、眩しさを感じた。

 目を細めてそちらに視線をやると、宙で白く淡い雪玉のような光が踊りだし、舞い降りるようにひとりの少女が姿を現す。

 白いドレス調の服をまとい、あでやかな黒髪をなびかせる彼女は――

 叫ぼうとした寸前で唇に押し当てられた人差し指は、触れそうで触れない。よく見ると、顔も体も薄く透けている。


 こんな、こんなことって……


「ちっす! 久しぶり」


 驚きを隠せない大和をよそに、純白のドレス姿に似合わず軽々しい挨拶をした栞奈は、少し切なげにも見える苦笑を浮かべて、言った。


「びっくりしたのは分かるけど、あんまり大声出さないでね。みんなが起きちゃう」


 いろんな人に見られちゃうとまずいから、と囁いて、彼女は結乃の額に左手をかざす。

 そうか。もう忘れかけていたけれど、彼女は左利きだったのだ。


「うーん、これはかなり辛いねぇ。待ってて。今、楽にしてあげるから」


 そう口にした直後、自らの発言に問題を見出したのか、「あっ」と呟いてあごの下に手を当てた。


「自分が死んでるからって道連れにしたりはしないよ。ただ、熱下げてあげるだけ」


 ちょっとおどけた様子ではにかんで、大和に手振りでその場から離れるように指示する。

 状況が呑み込めないまま、言われた通り布団から出て、栞奈の傍らでひざを折った彼。

 死んでいる、と彼女は言った。それは理解している。数ヶ月前、儚い命が尽きる瞬間を、この目で見届けたのだから。

 じゃあ、今まさに目の前にいる彼女は、「幽霊」なのだろうか。というか、これは夢……?


「あの……」

「シッ! これから大事なとこ」


 緊張した面持ちで注意され、あわてて口をつぐむ。

 栞奈は再び結乃の額に左手のひらをかざすと、小さく息を吐いて、すでに冷たさを失ってしまっただろう冷却シートの上に、それを重ねた。

 そしてゆっくり目を閉じる。すると、彼女の身を包むドレスの輪郭や、周りでふわふわと踊る雪玉たちが、優しい青みを帯びた。

 その不思議な光に悪いものを吸い取られていくように、結乃の表情から、少しずつ険しさが消えていく。


 静かに目をつむりながらその様子を見守る栞奈の姿は、幽霊なんておぞましいものとは程遠い。今の彼女が人間でないとすれば、「天使」とでも言うべきだろうか。そんな形容が恥ずかしくないほど、上等な美しさと上品さを放っていた。

 青白い光の中で波打つ漆黒しっこくの髪も、閉じたまぶたから覗く長いまつげも、すべて生前のままで、この子は本当に死んでいるのかと疑いたくなる。


「……もう大丈夫だと思うよ」


 そう言って彼女が目を開けると、髪はなびくのをやめ、優しげな青色は薄れて、もとの落ち着いた雪色が彼女の周りに降りた。


「いやぁ、それにしてもびっくりだよね。来てみたらおんなじ布団で添い寝してるんだもん」


 楽しげに指摘され、初めて恥ずかしさが込みあげてくる。


「いや、これはその、何ていうか……」


 頭の後ろを掻きながら、言葉を濁す。曖昧な返答に、栞奈は「そんなに照れなくてもいいじゃん!」と鈴を転がしたような声で笑った。やっぱり、あの頃と変わっていない。何ひとつ。


「なんかさ、幸せじゃない? そういうのって」


 天井を見上げながら、そんなことをしみじみ呟く横顔も。

 たとえ遠くに旅立ち、触れられない存在になってしまっても、栞奈は栞奈なのだ。


「さーて、そろそろ戻らないと。あんまり長居してると怒られちゃう」


 怒られるって誰に、なんてさして重要でもない疑問が頭をよぎったとき、


「でーもその前にっ!」

 甘えるような明るい声とともに、ふわりとしたあたたかさに抱きしめられる。

 似ている、と思った。結乃に同じことをされた、あのときに。


「……じゅうでん」


 切なげな囁きが耳もとをくすぐる。

 背中に回された両腕は、やはり触れない。触れないけれど、そこには確かなぬくもりがあった。栞奈がいた。


「あっ、そういえばお兄ちゃん、私に対してアレルギー反応起こすんだっけ? こんなにくっついて大丈夫?」


「よく知ってるね」


 言うと、彼女は「今の私は何でも知ってるんです」と静かに笑う。

 大和も微笑み返して彼女の背中に腕を回し、ふたりはしばらく夜の静寂の中に溶け込んだ。

 きっと、このひとときを明太子模様が邪魔してくることはないだろう。

 拒絶する理由なんて何もない。むしろ、幸せだから。


 言いたいことならたくさんあった。助けてあげられなくてごめんとか、あの日――最期の朝に、結乃に何を告げ口したのかとか。

 でも、そのどれもが喉の奥に引っかかって、うまく言葉にならない。

 やっと声に出せたのは、


「……また、会える?」


 一番聞きたくて、一番聞きたくないことだった。


「……分かんない。お兄ちゃん次第かな」

「どういうこと?」

「フフッ、教えてあげなーい」


 茶化すようなその答えは、はっきりと否定されるよりも、はるかに救われた。


「私が風邪引いて寝込んだときも、『姿が見えるところにいて』ってわがまま言ったら、こんなふうに二段ベッドのそばに布団敷いて寝てくれたよね?」

「あったっけ? そんなこと」

「あったよ。さすがに添い寝じゃなかったけど」


 栞奈はまたからかうように言って、小さく笑う。


「ちゃんと生きなきゃダメだよ」


 唐突に告げられた一言が、別れの時を知らせる。


「見てるからね」

「うん」

「結乃ちゃんのこと泣かせたら、許さないからね」

「うん」


 力強い返答を聞き届けると、栞奈は安心したように吐息を漏らし、大和の右肩にあごを預けたまま、まばゆい光とともに消えていった。

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