わがままを言える存在

 

 直後、緊張感が滲む志歩の声に、大和は突き動かされるように飛び起きた。


「どうしたの?」


 口ではそう尋ねつつ、脚はすでにベッドからおりている。

 真夜中の電話。しかも開口一番にこれだ。結乃に何かあったことは明らかである。詳細なんか後でいい。とにかく行かなくては。


『詳しいことは後で話す。鍵開けとくから、とりあえず来て』


 どうやら、志歩も同じ気持ちだったらしい。その事実に安心する反面で、恐怖にも似た不安が押し寄せてくる。


「……分かった」


 それだけ言って電話を切り、スマホをベッドの上に戻すと、大和は足早に階段をおりた。


 姿が見えれば親にひと声かけていこうと思い、辺りを見渡す。と、ダイニングのほうから何かが落ちたような物音がした。

 怪訝に思って様子を見に行くと、テーブルの上に、背面を見せて栞奈の写真が倒れていた。換気のためか、暑さ対策のためか、窓が開いている。風に煽られたのだろうか。

 急いで立て直すと、いつもと同じように、やわらかな微笑みをたたえた彼女と目が合った。

 けれどその瞳の奥が、ほんの少しだけ悲しげに曇って見えるのは、結乃に対する不安が生み出した錯覚なのか、それとも……


「……早く行かないと」


 馬鹿な考えを脳の隅に追いやるように声に出し、大和はダイニングから立ち去った。

 両親は寝てしまったのか、近くにはいないようなので、諦めて玄関で靴を履く。

 ドアの鍵を開けて外に出ると、夏の熱気を含んだ生ぬるい夜風が顔に吹きつけた。

 小走りで朝比奈家に向かい、ドアノブを引く。先ほどの言葉通り、鍵はかかっていなかった。


「志歩?」


 わずかに開けたドアの隙間からそう呼んでみるけれど、返事がないので、ひとまず家の中へ上がらせてもらう。

 子供部屋に行くべきかと、そちらに足を向けたとき、


「大和、こっち」


 それとは反対の方向から、囁くような志歩の声が聞こえた。振り返ると、トイレの前で不安げに眉を歪ませて、しゃがみ込んでいる。

 そのそばでフローリングに横たわる結乃の姿が、あの日の栞奈と重なって、心臓が妙に跳ねた。


「――どうしたんだよ」


 電話と同じ問いかけを繰り返して駆け寄ると、志歩は、苦しげにあえぎつつ時折咳き込む結乃の背中をさすりながら、答えた。


「トイレ行ったらそのまま動けなくなっちゃったみたいで。熱も上がってるっぽいし。シャワー浴びたのがよくなかったかな……」


 その言葉に、右手の甲でそっと結乃の頬に触れてみる。熟したりんごのように強く赤みが差したそこは、夕方とは比べものにならないほど、はっきりと熱を帯びていた。


「とりあえず」


 大和は言いながら、結乃の体をゆっくりと仰向けにし、その脚と背中に手を回して抱き上げる。


「うちに行こう」


 立ち上がってそう促すと、志歩は少しばかり戸惑いの表情を浮かべた。


「いいの? こんな夜中に……」

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ? どのみち、このままふたりで置いておくわけにはいかないよ」


 まだ悩んだ様子ではあったが、それでも志歩がうなずいたのを見届けると、結乃の熱い体をもう一度しっかりと抱き寄せ、大和は朝比奈家を後にした。


 *


 久しぶりに訪れた大和の部屋は、栞奈がいた頃のままだった。奥にふたつ並べられた勉強机に、微笑ましいような、切ないような気持ちになる。


「三十九度超えてたら、そりゃ辛いよな……」


 大和は気の毒そうに呟いてひざを折ると、お母さんが用意してくれた布団の上に、結乃を寝かせた。

 いつの間にそんなに上がったのか、彼女は今、三十九度三分の高熱に苦しめられている。やはり、シャワーで湯冷めしてしまったのだろうか。


 結局、双方の親同士で相談した末、明日の朝まで相馬家でお世話になることになったのだが、リビングには布団を二枚敷けるほどのスペースがない。かといって両親の寝室を借りるわけにもいかないので、二段ベッドがあり、かつ一枚なら布団を敷ける子供部屋で眠ることになったのだ。


「もっと早く言ってくれればよかったのに」


 気遣うように笑って、大和のお母さんは結乃の額に冷却シートを貼る。その優しげな笑みに、ほんの少し涙腺が緩んだ気がした。

 両親が仕事だからと、姉妹と猫一匹で夜を明かすことなど、今となってはめずらしくも何ともない。でも、こんなアクシデントに見舞われたのは、今日が初めてかもしれない。

 心細くなかったと言えば嘘になる。苦しさに眉を歪ませ、ときどきうなりさえする結乃の姿が、栞奈の最期さいごと重なって、不安がにじり寄ってくることもあった。頼れる隣人がいてくれて本当によかったと思う。


「じゃあ、一階にいるから何かあったら呼んでね」


 そう言って部屋を去ろうとしたお母さんに、結乃のそばでひざをついて心配そうに見つめていた大和が、


「え、行くの?」


 と驚きと困惑の眼差しを向けた。


「だってまだやることあるんだもの」

「もうこんな時間なのに? っていうか、さっきまで寝てたんじゃ……」


 時刻はすでに深夜の十二時を回っている。


「父さんは爆睡してるけど、私は寝室そこで布団しまってただけ。主婦は忙しいのよ?」


 お母さんはちょっぴり楽しそうに笑い、「たまに様子見に来るから」と残して、一階へおりていった。


「なんかごめん。これじゃあ、あんまり意味なかったかな……」 


 申し訳なさそうに苦笑され、志歩はあわてて顔の前で両手を振る。


「ううん。全然そんなことない。いざってときに頼れる大人が近くにいるだけで、安心感が違うから」


 ほっと表情を崩した大和に、志歩もやわらかな微笑みを返した。ついでに、ちょっとお願いをしてみる。


「ねぇねぇ、私、二段ベッドの上で寝てもいい? いっつも布団だから、うらやましくて」

「あぁ、うん。疲れてるだろうし、もう寝てもいいよ。結乃は僕が看てるから」


 何かあったら起こすかもしれないけど、と言い添えて、彼はまた不安げに、荒い呼吸を繰り返す結乃を見つめる。その表情が、志歩のいたずら心を刺激した。


「そんなに心配なら添い寝してあげれば? 苦しそうにしてるし」

「は!? ちょ……何をっ!」


 見事なほどに、戸惑いと羞恥で顔面を赤く染める彼。期待を裏切らない反応にくすくすと笑いながら、お言葉に甘えて、慣れないはしごを注意深くのぼり始める。


「大丈夫。我慢できなくなったら、私がすっ飛んでって取り押さえるから」

「どういう意味だ!」


 憤慨しつつも、志歩が無事ベッドに入ったのを確認した大和は、そのまま部屋の電気を消した。

 薄暗闇の中で壁のほうに寝返りを打ち、志歩は静かに口を開く。


「結乃と、なんかあった?」


 こんな訊き方をすると、まるで喧嘩した理由でも尋ねているみたいだ。ふたりの間に起きた変化は、きっと喜ばしいことだろうに。


「……別に、何もないよ」


 返ってきた声は落ち着いていたけれど、あらかじめ用意していたような、拭いきれない不自然さがあった。

 嘘だぁ、とからかう代わりに、少しばかり愚痴をこぼすことにしよう。


「結乃ね、全然言わないの。自分からこうしてほしいとか、ああしたいとか、全然。何言われても反抗しないし、面倒くさい頼み事も最終的には引き受けてくれる」


 おそらく、結乃の辞書に「わがまま」という言葉は載っていない。ずいぶん幼い頃に消してしまったのだ。


「親が共働きで、一緒にいられる時間も少なかったからかな? いい子にしなきゃ、我慢しなきゃって、そればっかり覚えちゃったみたい」


 もちろん、父も母も幼い娘にそんなことを言って聞かせるような、無情な人ではなかった。けれど、きっと言外げんがいに感じ取ってしまったのだろう。多忙な両親の重荷になってはいけないと。


「なんかさ、悲しくなるよね。家族の前でもそんなふうだったら、どこでどうやってストレス発散してるんだろうって。まあ、家族が一番信頼できるとも限らないか……」


 何も言わない大和に、志歩は「でもね」と続ける。


「そんな結乃が助けを求めたのよ。『大和くん……』って」


 そのとき、暗闇の中、後ろで布と何かがこすれ合うような乾いた音がした。

 今の話に心を動かされたのか、あるいは苦しむ結乃を黙って見つめているのが忍びなくなったのか、大和が一歩踏み出したようだ。

 志歩は口もとに笑みを浮かべて、ゆっくりと目を閉じた。


「結乃が唯一わがままを言える存在は、大和なのかもしれないね」

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