乙女の秘め事
*
栞奈は、大和が下校の準備をしているだろう教室の前で、小さく息を吐く。
今から、ちょっと意地悪をしてやるつもりだった。今朝は、大和のせいで遅刻寸前だったのだ。
結乃と喋っていた自分にも多少の非はあるかもしれないが……あれはまあ、しかたない。一刻も早く伝えてやらなければならないことだったから。
そう言い訳をして罪悪感を消し去り、深呼吸する。
勢いよく出入り口の引き戸を開けると、教室中に響き渡る声で、力いっぱい叫んだ。
「なっちゃんの代わりに、来てあげたよー!」
生徒たちの呆けた視線が、一斉に栞奈へと集まる。
中央列の一番廊下側の席で帰り支度をしていた大和は、一時停止。のち、目にも留まらぬ速さで残りの荷物をスクールバッグに押し込み、荒々しい足音を立てて詰め寄ってきた。
そのまま栞奈をぐいぐいと押しやってふたりで廊下に出ると、勢いよく引き戸を閉める。
「バカ! なに考えてんだよ!」
「だって本当のことだもーん」
あっけらかんとして言うと、大和は諦めの滲んだ深いため息をついた。
「……別にいいんだけどさ。隠してたってしょうがないし」
こうやって何でも許してしまうところが、彼の長所でもあり、短所でもあるのだろう。
「あの~、どういうことでしょうか?」
突然の声にふたりが後ろを振り向くと、引き戸の隙間から慶太が顔を覗かせていた。
「どうもこうもないよ。昨日の帰りに手紙渡されてあっけなく終わり!」
半ばやけになって答えた大和に、彼は「マジで!?」と
「こらこら、あんまり大声出さないの」
騒ぎ立てる男子たちを、志歩が背後から小声で注意した。彼女もちゃっかりくっついてきたようだ。
「そんな狭いところから顔出してないで、廊下出なさいよ」
志歩に押し出されて慶太が廊下に立つと、彼女も後に続いて引き戸を閉めた。ふたりもスクールバッグを提げているから、帰り支度は済んでいるようだ。
この三人が同じ教室から出てくるところを見ると、自分だけ仲間外れにされているようで、ちょっぴりむなしくなる。
「だーってさぁ、まだ一ヶ月も経ってないんじゃね?」
ふいに、慶太が昨日の自分と同じことを言うので、思わずクスッと笑ってしまった。
「そうだけど……事実ですけどっ! そこにいるお方と一年も続いてるお前に言われるとなんか腹立つ!」
志歩に視線を向け、食ってかかる大和を
「ざんねーん。夏頃からなのでまだ一年経ってませーん」
「細かいわ!」
「こんなの細かいうちに入りませーん」
くだらない会話に、志歩とふたりで笑い合う。こんなにささいなことで幸せを感じられる自分は、きっと恵まれているのだと思った。
今日は先生たちの会議があるとかで放課後の部活がないので、久々に四人でのんびり帰ることになった。
二組のカップルが誕生してからというもの、栞奈はクラスの女子たちと下校することが多くなっていたが、このメンバーのほうが断然気楽である。女には女にしか分からない複雑で面倒な世界があるのだ。
午後から雨を降らせるはずだった空は、雲行きこそ怪しくなってきたものの、今のところしずくを落としてはいない。
いつもは夕日がきれいな時間帯なのだけれど、今日は灰色に覆い尽くされてしまっている。
「そういえば栞奈、お前さ」
ふと、前を歩く大和に話しかけられ、栞奈は小首をかしげた。
「今朝、結乃になんか吹き込んだだろ?」
その言葉に、内心で勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「教えてあげなーい。自分で考えれば?」
答えると、彼は、
「何だよ。ふたりでこそこそしちゃってさ」
と、つまらなそうに俯いた。
「あっ、何なに? もしかして寂しいの? 結乃ちゃんが昔みたいに『お兄ちゃーん』って甘えてくれなくなったから?」
ちょっと吹っかけてみたら、「は? そんなんじゃないし」と見事なくらいに引っかかってくれる。
「結乃が髪切ったとき、『もう双子みたいに見えなくなっちゃったぁ』ってぐずってたのはどこの誰だよ。実の双子の兄を差し置いて……」
小声で囁かれた嫉妬に、
「なんだ、やっぱ寂しいんじゃん」
こらえきれず失笑してそう返せば、
「違う!」
また噛みつく。
いじけた保育園児みたいに不機嫌な大和をいじって楽しみつつも、栞奈はため息を飲み込んだ。
彼は乙女心に
話の内容を知らないにせよ、あの、喜びにきらきらと輝いた表情を見たら、何かしら感じ取ってもいいのでは?
それに、現実では少数派かもしれないが、女の子が突然髪を切る理由なんて、漫画の世界ではお決まりなのに。
自分の真似をして彼のことをお兄ちゃんと呼ばなくなったのも、彼女なりの精一杯の努力なのに。
慶太だって志歩だって、みんな知っているのに、なぜ当の本人が気づかないのだろう。
鈍感な大和に呆れる一方、
――ごめんね、なっちゃん!
栞奈は胸の内で、大の親友である千夏に深々と頭を下げた。
昨日は迫真の演技をしたものの、栞奈の気持ちは、そちらのほうに大きく傾いているということだ。
口で教えてやるのは簡単だし、何度そうしたいと思ったか分からない。
それでも、こういうものは自然と
彼が彼女の気持ちに、そして自分の本当の気持ちに気づく、その日まで。
*
公園近くの曲がり角で慶太と別れる頃には、辺りは雨とともにすっぽりと闇に包まれ、徐々に日暮れ時のあたたかさを奪い始めていた。
といっても、弱々しい小雨で、傘に世話になるほどではないけれど。
日没までにはまだ少しの間があるはずだが、すでに夜の雰囲気になってしまっているのは、空を覆い隠す厚い雲のせいだろう。
大和はそんなことを思いながら、目の前に立つ慶太と志歩を見やる。
「じゃあ俺、こっちだから」
「うん。また明日ね」
答えた志歩の声が、いつもより甘い気がした。慶太も、茶色がかった優しげな瞳で彼女を見つめている。
……何だろう。この、ふたりだけで通じ合っちゃってる感じ。
「人前でいちゃいちゃしないでくださーい」
さっきの腹いせにと思い、茶々を入れてやると、「はぁ!?」とふたりそろって顔をしかめられた。
「これのどこがいちゃいちゃしてるっていうのよ」
「お前なぁ、自分がフラれたからっていつまでも拗ねてんじゃねぇぞ、カッコ悪い」
「べっ、別に拗ねてなんか……」
――そのときだった。何か不吉な物音が、雨のにおいの漂う静かな空間を切り裂いたのは。
一瞬にしてその場の空気が凍りつき、音に引き寄せられるようにして、全員がそちらに目を向ける。
そこには、
「……栞奈?」
薄暗闇の中、三人より少し離れたところで、うつ伏せに倒れた栞奈がいた。
その事実に気づいたとたん、どこか遠い世界に放りだされたように、一瞬、何もかもが遠ざかる。
「栞奈ちゃん!?」
志歩の悲鳴に近い呼び声が闇に消えたと同時に、さっと血の気が引いていくのを感じた。
「ねえ、どうしたの!? しっかりして!?」
喉の奥が一気に潤いを失う。じっとりとした汗が全身から噴き出す。ナメクジが這うようにゆっくりと、肌をつたっていく。
「おい! 何ボーっとしてんだッ!」
慶太の怒鳴り声で、はっと我に返る。直後、自分だけが取り残されていることに気づいた。
ふたりはすでに栞奈を取り囲んで濡れた歩道に座り込み、心配そうに彼女を見つめている。
やっと思考が追いついて、足が動いた。栞奈のそばまで駆け寄って屈むと、青白く苦しげな顔が目に入る。
「栞奈……」
志歩が、緊張した面持ちで彼女を仰向けにし、その右手を取った。脈を測っているのだろう。母親が看護師だから、こういうことには詳しいのかもしれない。
しばらくすると、志歩の表情がさらにかたく強張った。
「弱い……」
唇の隙間からこぼすように、かすれた声で呟く。それから彼女は素早く周囲を見渡したが、人影はない。
雨も次第に強くなり、アスファルトを黒く染めあげていく。
「大和、救急車呼んで。それから親に連絡して」
「え、でも携帯……」
学校帰りなので持っていない。
「公衆電話」
苛立ったような慶太の低く静かな声に、公園のほうを見る。と、隅っこで雨に打たれる電話ボックスがあった。この公衆電話は、今このときのためにあったようなものだろう。
うなずくものの、焦る気持ちとは裏腹に、足は壊れてしまったかと思うほど激しく震え、力が入らない。
「……もういいよ。俺がやるから」
いてもたってもいられなくなったのか、慶太がそう呟いて腰を上げた。
「救急車は俺が呼ぶ。でも金持ってないから、お前は家まで走って親呼んでこい」
大和をまっすぐ見つめる薄茶色の瞳には、強い意志が宿っている。先ほどの甘くて優しげなそれとは、まるで別物のようだ。
「頼んだぞ」
力強い一言に、託されたと感じた。悩んでいる暇はない。
へたり込みそうになるのを必死にこらえ、大和は冷たい雨の中を走りだした。
夢なら覚めてくれ、と願いながら。
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