兄と妹 ときどき逆さま

  

 *


 けたたましく鳴り響く目覚まし時計を、栞奈は手探りで止める。

 ゆっくり目を開けると、辺りの風景が眠ったときと少々違っていた――角度的に。掛布団は見事に蹴り飛ばされ、足もとで丸まっている。


「何とかしないとなぁ……」


 呟いてベッドからおりると、はしごをのぼり、大和を起こしにかかる。彼は超がつくほど朝に弱いのだ。


「ほら、さっさと起きる!」


 はしごを一、二段のぼったところで、顔だけ出してぶっきらぼうに言い、片手で掛布団をはがした。


「あと五分……」

「ダメ!」


 小さくうなりながら甘い声でねだる大和を、ピシャリと叱りつける。このときの五分ほど、当てにならないものはない。


「じゃあ三分……」

「短くしたってダメなものはダメ!」


 容赦なく掛布団を没収し、ひとまず床に落とすと、はしごからおりて拾い上げ、下段にある自分のものと重ねて置いた。

 次にカーテンを引いて、窓を開け放つ。眩しく室内を照らし出した朝の光に、栞奈は満足げにうなずいた。


「よし!」


 これで大和も、朝の冷気と、太陽の眩しさで目を覚ますだろう。このふたつから彼を守ってくれるはずの掛布団も、歩いて取りにいかなければ届かない場所にあるので、体を動かさざるを得ない。

 よって大和は、面倒な二度寝の準備をしている間に目が冴えるか、そこまでするならいっそ起きてしまうか、のどちらかを強いられるわけである。

 このシステムを生み出すまでに、栞奈は約五年の歳月を費やした。もう昔のように、優しく揺り起こすなんてことはしてやらない。そんなのは労力の無駄だと学んだ。


「先に行ってるからね」


 まだ動く気配のない大和を置き去りにして、栞奈は階段をおりていった。



 大和がようやく起きだしてきたのは、栞奈が朝食を終え、歯磨きに取りかかろうとしているときだった。ただでさえ、はね気味の黒髪が、大きく波を打っている。

 これも、いつものこと。大和の行動は、栞奈よりワンテンポ遅れるのだ。


「まったく。成長しないんだからっ!」


 わざと大声で叫んでやる。

 おかげで、着替えるタイミングが一緒にならなくて助かるけれど。

 歯磨きを済ますと、すっかり冷めきったトーストをかじる大和を横目に、栞奈はリビングへ向かう。

 タンスの上に畳んであるセーラー服に着替え、スカートをはくと、隣に置かれた大和の学ランだけがぽつんと寂しげに取り残された。

 そして、わずらわしく思いながら、複雑にうねった長いくせ毛をとかしている最中、ふとあることを思い出して、窓のほうへ歩み寄る。


「あっ、やっぱり」


 外を見やるとそこには、保育園以来の友人である吉川慶よしかわけいと、朝比奈あさひながいた。何やら、ふたりして楽しそうにじゃれあっている。

 邪魔しちゃ悪いかな、なんて思いつつも窓を開け、ふたりに向かって声を張り上げた。


「ごめーん! もうちょっと待っててー」


 栞奈に気づいたふたりが、同時に顔を上げ、にこりと微笑む。


「おー、分かってるって」


 慶太のやんちゃにはねた栗色の髪が、わずかに風に揺れている。天然とは思えない色合いだが、本人いわく、染めてはいないそうだ。

 校則で髪染めが禁止されているため、何人かの先生に疑いをかけられていたが、髪が伸びてもプリン頭にならないことを証明し、最近になってようやく信じてもらえるようになったらしい。


「いつものことでしょー?」


 はしゃぎすぎて乱れたのか、頭の後ろで結ったお団子を直しながら、志歩が楽しげな笑い声をあげた。彼女もまた、栞奈と同じく、くせ毛に悩まされているお仲間だ。


「ほんと仲いいよねー」


 ちょっぴりからかいたくなって、そんなことを言ってみる。


「まあねー」


 と、自慢げに答えた慶太の顔面を、志歩がスクールバッグで思いきり叩きつけた。


「もう! すぐ調子乗るんだからっ!」


 怒ったような口調とは裏腹に、彼女の頬もほんのり赤く染まっている。


 そう、ふたりは恋人同士なのだ。


 朝比奈家と相馬家はお隣さんということもあって事情が丸分かりなのだが、毎朝一緒に登校するために、慶太が志歩を迎えにくるというわけである。

 なんて微笑ましいことだろう。誰かさんにも見習っていただきたかった。

 心の広いふたりに甘えて四人で登校するのが日課なのだけれど、大和のせいで長時間待ってもらうことが常だ。

 でもまあ、いつもこうしてふたりきりの時間を満喫しているようだから、それはそれでいいのかもしれない。


「お兄ちゃん早くしてー。慶太くんたち来てるー!」


 窓を開けたまま、ダイニングに向かって叫ぶと、


「んー、今行くー……」


 いかにも、のん気そうな声が返ってくる。「まったくもう……」とため息をつかずにはいられない。

 もう何度、同じやり取りを繰り返したことか……


「ごめんね、いつもこんなんで」


 数メートル下で自分を見上げながら苦笑を浮かべるふたりにそう詫びて、窓を閉める。そして、髪を整えて玄関へ。

 前日に用意を済ませ、バッグハンガーにかけておいたスクールバッグを取り上げる。右肩にげたら、しゃがみ込んで靴を履いた。

 栞奈にとって大和は、「世話の焼ける弟」ではなく、「頼れる兄」であることは確かだ。けれど、ときどき、


「何だかなぁ……」


 生まれる順番を間違えたのではと思ってしまうのは、こういうときである。

 栞奈は再びため息をついて、ひと足先に家を出た。


 *


 玄関を出て、ひんやりとした風が頬を撫でると、少しだけ眠気が飛んでいった気がした。


「おはよー……」


 あくび交じりに挨拶したら、栞奈に鋭く睨まれる。


「もー、何なの! 毎日毎日」


 頬を餅のように膨らませて憤慨する栞奈に苦笑しながら、慶太が口を開いた。


「たしかにお前、このところますます遅くなってねーか?」


 軽い口調で指摘され、


「春は眠いんです。春眠あかつきを覚えずってやつです」


 頭の後ろを掻きつつ答えると、彼はハハッと小さく笑う。


「何だよそれ。っていうか、もうすぐ五月だぜ?」

「全然上手くないからっ!」


 栞奈の機嫌は悪くなる一方だ。


 口々につっこむふたりを、志歩が「まぁまぁ」となだめる。


「もう行くわよ。時間ないんだし」


 彼女に促され、そろって歩き出そうとしたそのとき、


「お姉ちゃーん!」


 突然、叫び声が飛んできた。


 声のしたほうを振り返ると、志歩の三歳下の妹、結乃ゆのが走ってくる。


「傘! 傘忘れてる!」


 彼女は息を切らして立ち止まると、志歩に、水色の生地に白いドット柄が描かれた、ポップな折り畳み傘を手渡す。


「あっ、ごめん。ありがと」


 礼を言いながら受け取って、それをスクールバッグのポケットにしまう志歩。


「今日、ほんとに降るのかよ。こんなに晴れてんのに?」


 慶太の言葉につられて、大和も空を見上げると、抜けるような青が広がっていた。雨の気配なんてどこにもない。


「午後から崩れる予報だったし、一応ね」

「えー、俺、持ってきてない。降ってきたら入れ――」

「はい!? なに言ってんの? 嫌だからね、相合傘なんか! 男は濡れて帰りなさい!」


 志歩と慶太のいちゃついた会話を聞き流しながら、結乃のほうに目をやる。何やらこちらも栞奈につかまっていた。


「ねぇねぇ、結乃ちゃんさ、やっぱ絶対ロングのほうが似合うって!」

「見慣れてるからそう思うだけだよ……」


 困ったように言いながら、結乃は右サイドの髪を耳にかける。

 そうなのだ。もともとは彼女も栞奈と同じくらいのロングヘアだったのだが、何を思ったのか、一週間ほど前にばっさり切ってしまった。

 結乃のショートヘア姿には、大和もまだ違和感を覚える。


 ――と、栞奈が彼女にそっと耳打ちした。


 次の瞬間、結乃の表情がぱっと明るくなる。そして、喜びと期待に満ちた、あどけない眼差しをこちらへ向けてきた。

 怪訝に思って、視線で「なに?」と問うと、はっと我に返ったのか、悪いことでもしたかのようにあわてて目をそらす。


「じゃ……じゃあ、私もそろそろ行くね。バス来ちゃう」


 それだけ言い残して、バス停のある方向にそそくさと走り去っていった。


 やっぱり、女の子ってよく分からない。

 小さくなっていく背中を見つめながら、あらためてそう思う。


 桜色のランドセルは、低身長で、別段顔立ちがませているわけでもないのに、なぜだか大人びて見える彼女の雰囲気に、ひどく不釣り合いだった。

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