綱渡り(仮)

あしどいずみ

第1話

 色鮮やかで、刺激的な日々。長くは続かなかったけれど、それでよかった。周りより少し遅れてやってきた青春の煌き。その類の輝きは、人生の中のほんの一瞬だ。ほんの一瞬の、それは爆発。ダイナミックで、既成の観念的な諸々を一息に吹き飛ばし、更地にしてくれる。

 勢いだ。その勢いさえあればいい。どれだけ短かろうが構わない。あの頃僕が見ていた光景は、月日が経とうと色褪せることなく、僕の脳みその皺の一本一本に、丁寧に織り込まれている。

 僕は時々作業の手を止めて、瞼の裏に思い出を再生する。時にそれが僕を過去に引き戻しそうになることもあるが、たいていの場合、それは僕を前方に向き直させてくれる。思い出は自分ひとりでは完成しない。僕の思い出の、何人かの共同制作者に、彼らに出会えたことに、僕は感謝する。それらが無ければ、僕も無いのだから。


 2014年の10月、僕はただのクズだった。どこの国のどこの街にも一定数存在する、ありきたりの、どうしようも無い男だった。僕は県内の大学を卒業した後、地元の小さな会社に就職したが、僕みたいな男の典型的なパターンを踏襲するようにして、半年後には口うるさい上司との穏やかではない口論を経てから、まともな社会人生活から抜け出した。半年という期間を耐え抜いたのは妥当と言えるだろう。それより短いのは、先走りをし過ぎだし、それより長ければ僕はあの連中と同じように、社会への順応を始めざるを得なかっただろう。

 社会への順応。それは僕の個人的なテーマの一つだった。周りを見渡してみると、僕の友人や昔の恋人たちは、僕より遥かに早い段階で、その課題を処理していたようだった。しかも僕の見る限り、彼らにとってそれは課題とも言えないくらいに、当たり前のこととして受け入れているようだった。

 大学を卒業し、少しでも良い条件での就職を決め、社会の荒波に個性という殻を滅茶苦茶に押し潰させたら、そのあとはもう何も心配が要らないみたいだった。線路はどこまでも続く。レールから脱線しないようにほんの少しの注意さえ払っていれば、殆どの場合は無事に墓場まで運んでくれる。そういう制度は、ある点から見れば確かに、一定の種類の人間には魅力的に映るのだろう。

 僕だって一時は無邪気だった。小学生の頃は父親の本棚から、まだ課長だった頃の島耕作の活躍ぶりを学び、俺も将来は立派なサラリーマンになるのだ、と夢を見ていたこともある。普通に勤め、普通に結婚し、普通の幸せを手にする(島耕作の活躍ぶりが「普通」ではなかったことは、随分あとになってから気が付くのだけれど)ことが唯一の価値観だと思っていた。

 自分には特別な才能なんてない。音楽は好きだけど、音感はない。読書もするが、語るべきことはない。時折は映画館にだって足を運ぶが、何者かを演じるほどの顔は持ち合わせていない。僕は本当に、平凡な人間なのだ。


 会社を辞めてからしばらくは自由気ままに過ごした。かつての同期だった連中と飲みに出かけることもあったが、その席ではもう自分には無関係な人間関係の、無関係な愚痴しか話題に上らないことを発見し、こちらから連絡を取るようなことは無くなった。こちらから連絡を取らないと、あちらから連絡が来るようなことも無くなった。それなりに気が合うと思っていた連中も、所詮は同じコミュニティに属していないとろくに話すこともない。

 僕はレールから脱線した側の男で、連中は未だに乗客であり続けた。遥か彼方の終着駅に向かう連中と、早々と非常口を開け、田園風景の中に飛び降りた僕とでは、上手く会話が続かないのも当然だった。僕はポケットからハンカチを取り出し、彼らに向かってそれを振った。彼らがハンカチを目にしたかどうかはわからない。いや、おそらく彼らは、途中下車を決めた人間のことなど、気にかけていられる程暇ではなかっただろう。

 しばらくの自由を満喫してから、僕は重い腰を上げ、現実に向き合うことにした。銀行口座の残高はほとんどゼロに近かったし、早急に現金を手にする必要があった。

 インターネットで日払いのアルバイトを検索していたら、とあるデリヘル店が運転手の募集をしていた。時給は千円だったが、自分の車を持ち込めばガソリン代もしっかり支給されるとのことで、悪くない条件だと思った。電話を掛けると若い男が対応してくれた。予想外に丁寧な受け答えだったので、僕の中の多少の不安もどこかへ消え去ってしまった。まるで一般企業に電話を掛けたみたいだった。そうして僕は無事に、デリヘル店の運転手になった。


「今から降りる子ね、業界未経験の新人だから、わからないことがあったら丁寧に説明してあげてね」

「はい、オーケーです。それで、自宅ですか?それともホテル?」

「ホテル。隣県のホテルサンシャイン。予定時間はまだ先だから、そんなに急がなくてもいいよ。高速で行けば一時間くらいだから、女の子が怖がらないように安全運転でお願いね」

「ホテルサンシャイン、オーケーです。じゃあ下につけてますんで、いつでもどうぞ」

 事務所の従業員からの電話を切り、僕は待機所のあるマンションのエントランス前に車を移動させた。しばらくすると女が一人出てきて、少し警戒するような顔つきでこちらを見た。僕が口元だけで微笑み、手を上げて合図をすると彼女は小走りでやってきて、するりと後部座席に収まった。

「初めまして、運転手のナカイです。よろしくお願いしますね」

 僕が後ろ向いて挨拶をすると、彼女は僕を見極めるような目つきで見つめながら挨拶を返した。

「初めまして、リサです。よろしくお願いします」

 リサと名乗った女は二十代前半に見えた。全体的に小柄だが、その分顔も小さかったので、小さいながらもそれなりのスタイルの女だった。少し幼げな顔はしかし、意思の強さを演出するように真っすぐ引かれた眉毛や、80年代すら思い起こさせる派手な目元のおかげで、気の強さが見て取れた。

「何かわからないことがあれば何でも聞いて下さい。僕もまだこの仕事をしてから数か月だけど、ある程度のことは答えられるから。じゃあ早速車を出します。最初の仕事はラブホテル。隣の県にあるホテルサンシャインっていうところ。ちょっと距離があるから高速で行きます。それでもまあ、一時間もあれば着きますから、適当にくつろいでいて下さい。ちなみに、煙草は吸いますか?」

「一時間ですか、いきなり遠いところなんですね。でもラブホテルでよかった。最初の仕事が自宅だったらどうしようかと思った。インターネットで色々調べてたんだけど、風俗嬢を自宅に呼ぶような男って少し変わった人が多いって聞いたから。ほら、部屋がすごく汚かったり、変な臭いが充満してたりって書いてあった。煙草は吸います。車内は禁煙?」

「そうですね、ホテルで良かったかも。でもまあ、うちは客層がそれほど悪くないから、自宅でも比較的清潔にしている人が多いみたいですよ。それに、新規のお客の場合は僕らドライバーが同行するから、安心して下さい。あんまり非常識なお客だったら、こちらから断ってるんで。この車は煙草オーケーです、どうぞ気兼ねなく吸って。というより、僕が吸いたかったんです。だからよかった」

「煙草を吸わない女の子を乗せる時は、我慢するんですか?」

「そうですね、やっぱり閉鎖空間だし、女の子に接客以外で余計なストレスを与えたくないじゃないですか。一応僕たちも同じ店に属している仲間なので、互いに気持ちよく仕事がしたい」

 僕はジャケットの胸ポケットからアメリカンスピリットを取り出し、火を着けた。窓を少し開けると、リサも自分の煙草を取り出して火を着けた。ルームミラー越しに見てみると、銘柄はラッキーストライクだった。可愛い子ぶりたい女が吸うような煙草ではない。少しずれたメイクといい、そこらへんのつまらない女とは、少し違うタイプなのだと思った。

 高速の入り口に入ると、ETCが反応してゲートが開いた。ETCは店のもので、いちいち面倒な清算をする必要がないのがありがたかった。料金所の冴えない中年に愛想を振りまく必要もない。

 例外もあるが、今日みたいに平日であまり忙しくない日は、こうして遠方の客が入った場合、ドライバーは嬢が仕事を終えるまで現地で待機をすることになる。これがこの仕事の旨味だった。待機中は事務所からの連絡を無視さえしなければ完全に自由で、腹が空けば適当に牛丼屋でもカレー屋でも行けばいいし、退屈であれば雑誌でも適当に買えばいい。同僚のドライバーは携帯用ゲーム機を持ち込んでいると言っていた。この店は60分が最短のコースなので、最低でも一時間は休憩が確保される。勿論、その間もしっかりと時給は付けてくれている。今日は何をして時間を潰そう、読みかけの本でも読もうか。

 ちょこまかと車線変更を繰り返し、呑気な車を避けながら運転していたら、後部座席からリサが話しかけてきた。

「ナカイさん、さっきから流れてる音楽って、CD?」

 掛かっていたのは、チックコリアのアルバムだった。

「うん、そうですよ、CD。ラジオか何かに変えます?」

「ううん、大丈夫。ただ誰の演奏か気になって」

「これ、チッコリさんですよ。ジャズは好きですか?」

「チッコリさん……まさか、チックコリア?」

「その通り」

「古い音楽を聴くんですね。それにしても、チックコリアをチッコリさんって呼ぶ人、初めてです」

 リサは可笑しそうに笑っていた。笑顔が思いの外無邪気だったので、僕はルームミラーから目を剥がすのが遅れてしまった。車がセンターラインを少しはみ出し、隣の車線を走っていたドイツ車が短くホーンを鳴らしてこちらに抗議した。

「そりゃあ、僕が付けたあだ名だから、初めてでしょう。リサさんはどんな音楽を聴くんです?」

「私は何でも聴きます。ロック、ジャズ、ラテン、トランス、アイドル、Jポップ、クラシック、ソウル、ファンク、フュージョン……でも一番好きなのはやっぱりロックかな」

 リサの声の調子は先ほどより打ち解けていて、親密な響きさえもっていた。

「音楽が好きなんだ、僕もです。ちなみに僕が一番好きなのもロックだ」

「じゃあ一番好きなバンドは?」

「ビートルズ。ビートルズはやっぱり偉大です。あの人達はロックンロールをロックに昇華させた。それに、何年聴いていても全然飽きない」

「やっぱりビートルズなんだ」

「やっぱり?」

「ほら、車のステッカー。リアガラスにビートルズのロゴが貼ってあった」

 僕は笑いながら感心していた。この女は僕の車に乗るまでの一瞬の間に、しっかりと情報を収集しているのだ。

「あはは、ちょっと恥ずかしいですね。それで、リサさんのお気に入りのバンドは?」

「クイーン」リサは即答した。「フレディみたいに歌える人ってこの世に二人と居ないよ。フレディは私の永遠の憧れなの。あんなに大胆さと繊細さを併せ持つなんて、信じられない」

 僕はクイーンは専門ではなかったが、いくつかの有名な曲はもちろん知っていた。

「僕はSomebody to loveなんか好きです。クイーンも素晴らしいですよね。フレディもジョンレノンも、若くして亡くなってる。スターの宿命なんでしょうね」

 リサは僕の返事を受けて少し意地悪そうな顔をした。

「Somebody to loveもいいけど、まだまだだね。クイーンの真骨頂はもっとマイナーな曲にあるんだよ。今度お勧めの曲教えてあげる」

 リサはいつの間にか敬語を辞めたようだった。お互い思いもがけず趣味の話ができて、車内の空気が変化していた。

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綱渡り(仮) あしどいずみ @ashido_izumi

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