アイスと陽炎
ムラサキハルカ
アイスと陽炎
図書館の黄土色の壁にはクマゼミが張りついて絶え間なく鳴いている。この施設から出てきたばかりの鈴子は、頬から汗をたらしながら、借りてきたばかりの本で膨らんだ手提げ袋の重みを右手に感じていた。季節柄とはいえ、強い日差しにうんざりとさせられつつも、焦げ茶の煉瓦状のタイルの上をのたのたと歩いていく。
通り道にある自販機とその脇に添えられた薄緑色のベンチを横切る際、のどがしきりに水分を求めていたが、百円玉と何枚かの十円玉を細く狭い隙間に落としてまで買うものではないとわりきって、そのまま通り過ぎる。
図書館の脇に沿うようにして続く狭い道のうえを進んでいくと、帰ろうとしている鈴子とは逆の目的を持つと思しき母娘や老人、学生などとすれ違っていく。それらの人々を見送ったあと、鈴子は帰りたくないなと思う。
館内にいる時はいる時で、他の利用者の気配が気になりどことなく落ち着けなかったが、いざ家に帰るとなるとそれはそれで面倒になってくる。とりわけ、日光の下で数十分ほど歩くともなれば考えたくもなかった。事前に化粧室で日焼け止めこそ塗っていたが、直射日光はそれすらも貫いてしまいそうで気が滅入った。
クーラーと日陰を恋しく思っている間も、体は熱をたっぷりと吸いこんだ道路の上を歩きはじめている。胸の内になにを抱えこんでいようとも、身体の方は空想ではなく現実に即した動きをするものなのだとと半ば感心しつつも、嫌だなと思った。正面では陽炎が揺らめいていて、目と鼻の先にある電柱を微妙に歪めていた。そうしている内に、鈴子は身体がぐにゃぐにゃになっていく心地になる。いっそ、この場でバターみたいに溶けてじっとしていたら楽なんじゃないか。ふやけかけた頭でそんなことを考えるが、すぐにバターではなく干物になってしまうと思い直す。
いつの間にかさしかかったなだらかな上りになっている二車線道路脇の狭い路側帯を歩いていると、不規則な感覚で対面から走りこんできた車がすぐ傍を横切っていく。それを見て、すさまじい速さで近付いてくる重い鉄の塊がぶつかって自らの身体が宙を飛んでいく映像が頭に浮かぶ。高いところで風でも切れれば少しはこの鬱陶しい暑さもましになるのではないのかと思いかけたあと、車にぶつかったときと図書館方面のアスファルトに落下する衝撃を想像して身震いした。
現実というものにうんざりしながら視線を下げると、大きな氷が置いてある。足を止めるといつの間にか工場の前にいる。おそらく、この透明な塊は機械かなにかを冷やすためのものだろうと察しながら、鈴子はいますぐにそれに触れてみたいという欲求に駆られる。既に微妙に溶けだしている氷からは、薄らとした冷気のようなものが立ちこめている。きょろきょろとあたりを見回して誰もいないのを確認すると、休憩だと言い聞かせて屈みこむ。指先を氷の表面に這わせると、したたる水気がとても気持ち良かった。夢中になり手を押しつけていくと、体温のせいか気温のせいか、冷たい塊は溶けだし、徐々にではあるが液体へと変換されていく。
指の腹が霜焼けを起こしかけていたが、それでも氷から肌を離せずにいた。冷たさをともなって身体の先端からつたってくる小さくない不安に苛まれながらも鈴子はここにずっと座っていたかった。ひんやりとした冷気に身体中が包まれていく未来を想像すると、いつか母に連れていってもらった美術館で見た女性のブロンズ像が思い出される。その作品の表面にはどことなくごつごつとしていたが、ここで固まってしまえば、つるつるとした像になれるのではないのか。指の先には鈍い痛みのようなものが走りはじめていたが、自らがあの物体になれる未来を想像すればこのくらいの苦痛は安いものだった。不意に、横合いから強引に腕を引っ張られた。せっかく、別のものになれるはずだったのにと思っていた鈴子は、恨みがましげに自分の腕に触れている誰かを睨んだ。なに、やってるの、風邪引くよ。立っていたのは、心配そうな視線を向ける弟だった。鈴子は溜め息を吐きながら、別にそれでもいい、と言った。なんで、と聞き返してくる弟に、このままでいたいから、と答えた。理解してもらうつもりもなければ、理解してもらいたくもなかった。弟は首を捻りながら、ずっとここにいたいの、と不思議そうに問いかけてきた。早く手を離して欲しいと思いつつ頷くとと、年下の男の子は、でも、と躊躇いがちに口にする。ここにいたらずっとひんやりとしてるけど、もう、ぽかぽかはできないんだよ。たいした考えもなしに口にされたとおぼしき言葉を鈴子は一笑に付そうとしたが、どうしてもできなかった。不意にこれから先、というものが全身に圧しかかってくるような感覚とともに、おもむろに理解する。このままでいると、なにもかもが途切れてしまうのだと。だから、行こうよ。鈴子の気持ちを読んでいるのかいないのか、弟は腕を引きながらそう促す。ひんやりしたいんだったら、家でアイスを食べようよ、ぼくも食べたいし。呑気な言葉に抵抗する気力もないまま、鈴子は引きずられていった。視界の端に映る氷の塊に小さな未練を覚えつつも、それがどんどん遠ざかっていくのを見ていた。
鈴子はゆっくりと指を氷の上から離した。一分かそこらという短い間ではあったが、工場の突き出た天井が小さな日陰になっていたのもあり、この暑さの中では比較的過ごしやすい環境だったなと振り返る。これ以上、座りこんだままでいれば、通りがかる人間に見られるかもしれず、この氷の持ち主である工場の方々にも怒られるかもしれない。折り合いをつけるとともに、氷に背を向けて歩き出す。再び、肌を突き刺すような日の下に身を置くのには抵抗があったが、かといって暗くなるまでじっとしているわけにもいかない。そう考えて、路側帯の内側を歩きつつも、まだ、家に帰るのに抵抗があった。
坂を登り終えたあと、右折をして歩道に入る。目の前にはやや山なりに湾曲したように見える橋があり、両端をガードレールに挟まれた二車線道路の上を絶えず車が行きかっていた。先程の坂を登っていた時よりも多い交通量と、鼻につく排気ガスを煙く感じながらも、手提げをぶらつかせて、橋へと向かっていく。老人の乗ったゆらゆらとかしぐ自転車を避けて通ったあと、石造りの欄干が見えはじめた。ほどなくしてその手前に辿り着くとともに、道にしたがって進んでいく。続いてやってきたキャップ付きの帽子を被った薄汚い老人とすれ違ってから数歩進むと、ちょうど橋の真ん中の辺りにつく。鈴子は息を吐き出したあと傍にあった欄干に寄りかかり、静かに水辺を見下ろした。微妙に緑色によどんだ川は微かな異臭を放っており、水面には餌取りをしているとおぼしきアオサギやぷかぷかと浮かぶ二匹の亀などの姿がある。日の光をたっぷりと吸いこんだ石に乗せられた両肘は焼き鏝を当てられたかのような痛みを訴えていたが、それを無視しながらぼんやりと微妙に揺れる川面を眺める。その間も、日差しは容赦なく頭頂部に照りつけており、足元からも熱気が立ち上ってきていた。火にかけられたフライパンになってしまったみたいだと思いつつも、再び動くのが面倒になってじっとしていた。
欄干の上に座った弟がソーダアイスの袋を差し出してくる。鈴子はここに来るまでに費やした時間から中身が溶けているのではないのかと疑いつつも、おずおずと受け取った。それを確認した弟が手元にある同じ種類のアイスの袋を開けると、棒の先についた水色の四角い氷菓の表面がべちょべちょになっている。しかし、弟は取り立てて気にした様子もなく、真っ赤な舌を大きく動かしていく。まるで桃色の太った魚が泳いでいるみたいだと思いつつ袋を開くと、やはり、アイスは液体のようになっていた。そのべちゃべちゃになったものを舐めるのに多少の抵抗を覚えながら、ぎらつく太陽に当てられた鈴子は一刻も早く身体を冷やしたかったのもあり、今にも垂れ落ちそうになっている水色の塊の先端部分にかじりついた。半ば液状化したアイスの中途半端にじゃりじゃりとした触感が気にはなったが、痺れを含んだ甘さと冷たさが口内を満たしていく。その間も、欄干に座る弟を見つめて、後方に落ちないかどうか気が気ではなかった。フライパンの上みたいに暑いし、いっそ川に飛びこんじゃおうか。姉の思考を読んだかのように、アイスの三分の二ほどを食べ終わった弟は、そんなことを口にした。一回やってみたかったんだよね、気持ち良さそうだし。話しぶりからは、冗談か本音なのか読み取れず、鈴子は胸の中をスクランブルエッグみたいに掻き回された気分になる。やめなよ、ここの水はそんなに綺麗じゃないし。欄干の隙間越しに見えるやや緑に染まった水面を目に映しながら、なんとかして弟に意見を変えるようにと促そうとする。それに、こんな高いところから落ちたらきっと怪我するよ。口にしてから、怪我じゃすまないかもしれない、と思ってから、すぐにその考えを振り払おうとする。たしかに痛いのは嫌だな。弟はどこかぼんやりとした目付きで告げてから、大口を開けて残っていたアイスを齧りとる。その直前、柔らかそうな唇の間で、桃色の太い魚が踊り泳ぐ。口が閉じられて魚が消えたあとも、その影は見えないところで動き回っているのだと想像することができた。橋の真ん中の空間を占有する姉弟の後ろを、名も知らぬ人々が通り過ぎていっては、不思議さや迷惑さなどの感情がこめられた目で一瞥していく。鈴子は弟を見張りながら、自分の手元で液体と化した氷菓が、掌にたれるのをもったいない、と感じていた。やっぱり暑いよね。アイスを食べ終えた弟がそうぼやくのを耳にして、それなら欄干に座らなければいいのにと思い、空いている手を差し出す。そろそろ、行こう。もしも、弟が川に落ちそうになった時は、すぐにでもその細い腕を掴めるようにと心掛けながら、細い木の棒を持っていない手に触れた。弟は姉の指示に抗いもせずに、静かに下りてくる。汗でべたべただね。素直な感想を返す弟に、あんたも同じでしょ、と応じたあと、一人静かに胸を撫で下ろした。これから先も、弟は変わらずにいてくれる。そんな当たり前なことが鈴子には素直に嬉しかった。
ぐったりとしかけていた身体を起してから、鈴子はおもむろに腕を伸ばした。午後になってもなかなか弱くならない日差しの下で、熱中症になってしまいかねないと危惧しながらも、暑さやなんとはなしに帰りたくないという思いのせいか、両肘を欄干の上で焼き続けるのをやめられない。それでも、後方を人や自転車が何回か通り過ぎると、肌を通して伝わってきた熱と振りかかる日射に挟まれた身体が膿んだ火傷に似た痛みと干からび割れた土のような渇きを訴えはじめたので渋々身を起こして、再びのろのろと歩き出す。未練がましくよどんだ川を見ていた横目は、アオサギが大きく羽ばたく姿を映しこむ。いっそのこと、どこかに飛んでいってしまいたい、と鈴子はぼんやりと思った。
橋を渡り終えてすぐ、下り坂に差し掛かる。すぐ傍に立っている大型のスーパーマーケットによってできた陰のおかげで、幾分か歩くのが楽になりはしたが、歩幅を広くすることもなければ足を速く動かす気にもなれず、なめくじが地を這うような心持のまま身体を引きずっていく。傾斜を下っていく間、名も知らぬ人々とすれ違っては、逆方向へと引き返していくその姿を羨ましがった。しかし、鈴子には鈴子にしかなれず、他の人になり変わることなどできはしない。帰る場所は、自分の家しかないのだと言い聞かせながら、気のすすまないまま進んでいるうちに、いつの間にか道は真っ平らになり横断歩道を渡りはじめていた。白と濃い鼠色の線で彩られた足場を踏みしめている間、どうにかして家に帰らなくていい方法を考えようとする。遠回り、宿泊、旅。漠然と思い浮かべた案は、どれもこれも魅力的だったが、最後には家に帰らなくてはならないという結果を覆せなかったため、お蔵入りとなった。青信号が点滅し始めたところで横断歩道を渡り終えると、目の前には長い道が伸びている。なだらかに傾いたそれを見つめながら、足を止めるとともに、鈴子はなんだか、気が遠くなりそうになった。
廃線路の上を弟の後ろをついて歩いていた。錆びついた鉄を踏みしめつつも、すぐ後ろについていく。いつの間にか弟の背丈は姉を上回っており、鈴子は時の流れというものを漠然と感じていた。陽炎によって、先を行く後ろ姿は大きく歪み、日中の日差しに当てられた鈴子自身もふらふらになっている。地図も調べずにやってきたこの線路がどこまで続いているのかわからない以上、この旅はいつ終わるとも知れなかった。少なくとも、当分はかかるだろうと思うと鈴子の気力は早くも削がれはじめていたが、ぐいぐいと先へ進んでいく身内を一人にしておくわけにも行かず、できるだけ足早について行こうとした。幸い、弟が歩幅を調整してくれているせいか、着いていくのはそれほど苦ではなかった。次第に上がっていく気温の中で、目の前の風景の歪みが大きくなっていくのを目にしながら、棒のようになりはじめている足を機械的に動かしていく。延々と焼けた線路を歩きつつ、常に弟が倒れないかどうか注意して見守っている。鉄の道の中や脇に不規則に生えしきった雑草は、この場所に長年人の手が入っていないことを窺わせた。汗が頬を絶えず滴り落ちていくのとともに、身体からなにかが徐々に抜け落ちていっているような気がした。強く照りつける日差しに当てられるにつれて、目の前が覚束なくなっていき、腕で両目を覆う。熱の籠った肌の温さを気持ち悪く思いながら、足を止めていた。こうしている内にも、弟は先へ先へと行ってしまうかもしれないと理解しつつも、一歩も動きたくない気分になりはじめていた。下着に沁みこむべったりとした汗の感触に、鈴子は自分自身が溶けていっているような心地になりかけた。額にひんやりとした固いものが当てられ、思わず仰け反る。腕をどけてから、目を開けると、いつの間にかすぐ傍まで引き返してきた弟が水筒を片手にしかめっ面を浮かべていた。休憩するなら、先に休憩するって言えよな。口ぶりこそ荒ぽっかったが、それほどの怒りは感じられない。鈴子は頷いてから、小さく、ごめんね、と呟き、無造作にその場に座りこんだ。ジーンズ越しに伝わってくる日射に照らされた鉄と土の熱に火傷しそうになりながらも、差しだされたステンレスのコップを受け取り、口を付けた。二人とともに日の下に晒されたとは思えないほど、容器に入っている水は冷たく美味しかった。ありがとう、と答えたあと、コップを返した。弟は無言で水筒に水を入れながら、同じように座りこむと、容器を半回転させてから上下の唇で挟む。喉仏がごくりごくりという小気味の良い音を鳴らすのを耳にしつつ、額から玉のような汗が滴り落ちるのを目におさめていく。弟は小さく息を吐きだしたあと、面倒くさそうな眼差しで鈴子を見た。姉貴が無理についてくる必要はなかったんだよ、こんなのただ苦しいだけなんだし。姉貴という使われはじめたばかりの響きに、違和感とおかしさを覚えつつ、小さな胸を張る。私が決めたんだからいいの、それに弟だけを危ない場所に行かせられないし。それは廃線路を歩いてみたいという話を弟から聞いた時から、思っていたことだった。鈴子が付いていってどうにかなるというものではなかったが、少なくとも自分の目の届かないところで弟がどうにかなってしまう可能性の芽だけは摘んでおきたかった。そういうのって普通は男の方が気にするもんなんじゃないのか。呆れ顔で告げる弟に、鈴子は自分の頬をたれ下げる。もう少し頼りがいがあるようになってから気にしてよ。途端に弟は目を僅かに吊りあげ、苛立ちを露にした。しかし、そのまま怒りをぶつけるのは大人げないと思ったのか、コップに残っていた水を一気に飲み干した。その後、挑むような目で真正面から姉を見つめる。どうなったら、頼りがいがあるって言えるようになるんだ。鈴子はその質問の答えを考えてから、唇の端を緩める。自分で考えなさい。姉の言葉に、弟は不満気な表情をしながら、空を仰いでみせる。同じように上を向くと、雲の少ない透きとおった青い空が広がっており、ぎらついた陽が目に痛かった。先程と同じように腕で視界を覆いながら、鈴子は果たしてこれは休憩になっているのだろうかと疑いはじめる。なあ、姉貴。すぐ傍からかかった声は、こころなしか低く響き渡る。すっかり声変わりしてしまったのだなと感慨深くなりながら、なに、と聞き返した。これからも、こういうのがずっと続いていくのかな。弟の台詞は著しく主語を欠いており、なにを言っているのか不明瞭だった。だが、鈴子にはそのなんとなくが、漠然とではあるが、伝わってくる気がした。こういうのって、なんのことよ。それでも、なんとなくはなんとなくでしかなかったので、念のため聞き返してみる。それは、だからさ。言いたいことがわかっていないのか、もしくは言葉にしにくいことなのか、弟の声には迷いのようなものが混じっている。熱をはらんだ腕で作られた擬似的な闇の中で思考がぼやけていくのを感じながら、鈴子はただただ答えを待った。俺も姉貴も、生まれてから、色々とあったけど、この年まで、なんとなく続いてきたわけで、それが、これからも、続いていくのかなって、思っただけなんだけど。ぽつりぽつりとした語られた内容は、やはり曖昧なものであった。それでも姉である彼女には、弟の抱く感覚が流れこんできたような気がした。きっと、続いていくんじゃない。思った通りのことを口にしながら、腕をゆっくりとのけていく。今まで延々と昨日を積み重ねてきたみたいに、今日や未来を同じように昨日にして積み上げて、たぶん、それをずっと続けていくんじゃないの。そんな当たり前を積み上げてきたのだと考え、腕をのけきる。青空のまんなかには先程はなかった、大きな綿飴のような雲が浮かび、ゆるやかに流れていた。俺も姉貴も、ずっと続いていくんだな。弟の声にはやはり力がない。そう、昔の自分の続きとしてずっとね。年下の少年の言葉を肯定しながら、鈴子はずっと前から、自分はそれを実感していた気がした。また、線路を歩きはじめなくてはならないと思った。
強く手を引かれるのとともに、鈴子はすぐ後ろで車が通り過ぎていく音を聞いた。心臓が痛いほどに鳴っているのを感じつつ、慣れ親しんだ固く弾力にとんだものの中に飛びこんだのだと理解する。なにやってんだよ。視線をあげると、これから帰ろうとして家で待っていたはずの男が、呆れ顔で鈴子を見下ろしている。どうして、ここに。状況が飲みこめずに質問に質問を返すと、男は目を尖らせた。遅いから迎えに来たら、倒れかけたお前が車に轢かれそうになってたんだよ。声を荒げる男は珍しく本気で怒っているようだった。ようやくおおまかな状況を呑みこんだ鈴子は、こうなってしまった以上はなんとかしてなだめなくてはならない、と頭を回転させる。いくら遠いっていったって、何時間も待たされたら心配するんだよ、せめて連絡くらいよこせ。口を開いていない間も、苛立ちを露にする男を見ながら、鈴子は微笑みを繕う。ごめんなさい、あんまりにも暑かったものだから、道の途中でぼんやりとすることが多くて。その答えに、男は大きく溜め息を吐く。だったらもっと気を付けなくちゃダメだろ。いつの間にか声にこめられている感情は、怒りよりも呆れや心配の方が大きくなりはじめている。鈴子は胸を撫で下ろしながら、ごめんなさい、と言いながら頭を下げる。次からは気を付けてくれよ。男はそう答えて背をむけると、掴んだままの手を引いてゆっくりと歩き出す。鈴子はそれに従ってついていきつつも、先を行く大きな背中を複雑な目で見る。結局、今日というのは今まで選んできた昨日の続きでしかない。この男と愛を育み同棲しているのも、知り合いに縁のない町で暮らしているのも、離れようと思ってすぐにどこにも行けないと諦めてしまうのも、そういう昨日を生き続けてしまったからにほかならない。そして、これからも昨日と同じような今日をいくつも積み重ねっていって、さほど変わりのない日々を過ごしていくという確信があった。なあ、鈴子。名を呼ばれるのに合わせて、きょろきょろと辺りを窺った。その後に、唇に人差し指を当てる。外では名前で呼ばないでって何度も注意したでしょ。そう口にしつつも、鈴子の中にあった大切な部分は、長年抱き続けた後ろめたさという名の熱に晒されてもうどろどろに溶けきっていて跡形もなくなっている。それはおそらく、男の方も同じなのだろうと思った。
アイスと陽炎 ムラサキハルカ @harukamurasaki
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