5.
6月4日 午前11時40分
古いレコードからジャズが流れ、どこか温かみのある柔らかな空気を耳障りな電子音がかき乱した。
しかしそれはテーブルの上に置き去りにされた女のスマホが発したものではない。
「――ちょっ! なんでこんな時に電話がぁっ!?」
アリアは慌てて制服のスカートに手を突っ込み、また画面を確認もせずタップした。
『あ、もしもし? 探偵さん?』
〈――って、またアンタかい!?〉
せっかくのシリアスな雰囲気を台無しにする、のほほんとした声にアリアはおもわずアイフォンをテーブルに叩きつけたい衝動に駆られた。そんな事とはつゆ知らず、九野創介は気の抜けた炭酸飲料のような声がスピーカーを通して聞こえてくる。
『ゴメン、探偵さん。約束の時間に少し遅れそうなんだけど……もしかして、もうお店に着いてる?』
「――べ、別にっ、九野さんとの約束を律儀に果たそうとしたとかで断じてはなくてですねっ、単に暑いからお茶がしたかっただけです!」
と、アリアは訊かれてもいない動機を反射的に答えていた。
『それは良かった。そのお店、変わった紅茶を出すって、最近、ウチの大学の女子の間でもちょっとした話題になってたんだ』
「変わった紅茶?」
〈変わったラテアートの次は紅茶か……〉
嫌な符合にウンザリしつつ、創介の話に耳を傾ける。
『なんでも、茶葉に高温の水蒸気を当てて香りや風味だけを抽出した透明な紅茶を出してくれるそうだよ』
「ああ、それで理科の実験で使う蒸留装置みたいなのが置いてあるんですか」
アリアはスマホに耳を傾けたまま、カウンターの奥で蒸気を吹き上げているサイフォンをチラリと見た。
透明なミルクティーだけでなく、透明なコーヒーに透明なコーラ……最近はやたら透明な飲み物が流行っているらしい。アリアのクラスにも水と偽って味付きの飲み物を持ち込んでいる生徒も居るくらいだ。
しかしアリアはそんなミーハーな人たちと一緒にされるのは心外だった。
「……はぁ、この前の被害者じゃないんですから、わざわざインスタ映えする店を選んでもらわなくても――」
そこまで口にしかけたアリアの頭の中で何かがカチリとハマった気がした。
〈そうだ……昔、家族で桃狩りに行った時に姉さんの口が大変な事になって……〉
静かな湖面に石を投じることで波紋が広がるように、意識の深層からいくつかの情景・状況が浮かび上がる。
それは店内に居る客の様子だったり、ここへ来る途中のアーケード街だったり、あるいは先週歩いた山の手の並木道だったり、一見するとなんの脈絡も意味も無いような些末な事柄の数々……。しかしその一つ一つが知識と結びつき
〈でも、最後のピースが足りない……〉
青写真は描き上がったものの、現実に組み立てるには補強するための材料が必要だ。そしてアリアにはその材料を持っているであろう相手にも心当たりがあった。
『――それで、そこのマスターっていうのがウチの大学のOBで、コーヒーや紅茶を入れる器具も自作してるんだってさ。そこまでいくともう調理と言うより、科学の実験に近いよね』
その相手はアリアが推理を組み立てている間も呑気に店の話をしていた。
〈なんか、素直に訊くのは癪だなぁ……〉
とはいえ、別な方法を当たっている時間もない。アリアの推理によれば、被害者の命はこの瞬間も死に傾きつつあるのだ。
それでもアリアは逡巡に逡巡を重ねて、ようやく創介に訪ねた。
「……九野さん、一つ聞きたいんですけど透明なトマトソースの作り方って知ってますか?」
『えっ?』
アリアの唐突な質問に最初は面食らったものの、創介はアリアの期待したとおりの情報を提供してくれた。
〈やっぱり、犯人はあの人か……〉
分かってしまえば、まるで全てのピースが始めからあるべき場所に収まるために存在していたかのような錯覚を覚える。それは今日に限ったことではない。事件に巡り会い、その謎を解くたび、被害者も犯人も最初からそうなるように決められていたのではないかと思う時がある。
殺める者は殺し、死せる者は死ぬ……。
〝
『……探偵さん?』
スピーカー越しに聞こえてきた創介の声でアリアは我に返った。途中からほとんど耳に入っていなかったが、その間も創介はアリアの質問に丁寧に答えてくれていたらしい。
「あ、スイマセン。急にヘンな質問をして……」
物思いからまだ完全には立ち直っていないような声で謝ると、創介がおどけるような調子で返した。
『謎はすべて解けた……かな?』
どうやらこの普段はぼんやりしているクセに妙に鋭い所のあるこの大学生は、アリアの声の調子や質問の内容から、電話の向こうで何か起きていると勘付いているようだった。
創介のおちゃらけた台詞のおかげでアリアの調子もすっかり元に戻っていた。
「うるさい……私が推理を騙り終える前に九野さんが来なかったら、帰りますから」
字面ほど強い調子を込めずにそう告げると創介の優しく励ますような声が耳に届いた。
『ああ、それは急がないと……何せ自分を助けてくれた〝名探偵〟ならあっという間に事件を解いてしまうだろうからね』
その言葉を最後にアリアは電話を切った。
ずっとスマホを押し当てていたせいか、耳が熱い。
アリアは俯いたまま顔の火照りが引くのを待って、やがて顔をあげる。
「……無論、謎解きはディナーどころかランチの前に、です!」
現役JK探偵はお気に入りのベレー帽を被り直すと、深く濃いコーヒー色の瞳で犯人を見据えた。
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