4.

6月4日 午前11時37分



〈あれれぇ? あのヒト、何で手ぶらのままトイレに……?〉


 女の人が『化粧を直しに行く』という場合、額面通りに受け取れないことは校則でリップクリーム以外のメイク道具の所持が禁止されている女子高生でも知っている。


 それに――。


 同伴者が居るから貴重品を席に置きっぱなしにしていても不自然ではないが、その相手とはたった今まで壮絶な喧嘩をしていた間柄だ。

 心理的にも身の回りの物は持っていくんじゃないだろうか?

 しかもよりによって槍玉に上がっていたスマートフォンを忘れていくとはどうしても考えにくい。

 

〈もし、あの女の人がわざとスマホを置き忘れていったとしたら……?〉


 アリアの頭の中で、入店してからこれまでの二人の行動、台詞、表情が高速で再生される。まるで細胞が分裂するように一つの記憶が異なる予測を生み出し、数多に枝分かれし、絡み合うニューロンの束がこれから起ころうとしている事件のラフスケッチを描き出した。

 

 以前から恋人の浮気に気付いていた女は復讐する機会を窺っていたのだろう。

 だからあえて大勢の人が見ている前で恋人を非難し、煽り、『浮気』と『スマホ』という言葉を強く印象づけた。


〈その上もし今、彼女のスマホに見知らぬ名前の男性から着信があったとしたら……?〉


 心にやましい事、負い目を感じている人間は相手にも同じ所が無いかと粗探しをするものだ。

 そうでなくても鳴り続ける電話のコール音というもの耐え難いものがあり、かなりの確率で男は恋人のスマホを手に取るだろう。


 だが、それこそが彼女が仕掛けた恐るべき殺意の罠だ――。


 電話をかけているのは他でもない、トイレの中の彼女自身だった。

 別のスマホ、偽のアカウントを用意しトイレに行くフリをして自分のスマホに電話をかけ、自分の彼氏が勝手にスマホに触るように仕向ける。


『それ見たことか、アイツだって俺に隠れて知らない男とやり取りしているじゃないか!』と、鬼の首を取ったように、スマホに触れたら最後、塗ってあった毒が男の指に付着するという寸法だ。


〈使うとしたら、この場合、猛毒のストリキニーネか……〉


 小さじ半分の量でも人を死に至らしめるこの毒素は一方で強烈な苦味があり、舌が鋭敏な人なら百万分の一の希釈液でも気付くという。

 しかし彼氏が食べているのは辛子たっぷりのタコサンドだ。舌が麻痺していて味の変化に気付かない可能性が高い。

 毒が付着した手でタコサンドを食べた男は15分ほどで全身の筋肉が痙攣し、重篤なショック症状を起こす。だが、ストリキニーネは中枢神経や循環器系には作用しない。不幸にも男は意識を保ったまま、全身の筋肉という筋肉が捻じ切れるような激しい痛みと呼吸困難、死の恐怖を感じながら、それでも表情筋だけは引きつった笑顔で死んでいくだろう。


 アリアは狂気に彩られた男の死に顔をリアルに想像してしまい、慌てて頭を振った。


〈でも凶器はどうするつもりだろ……?〉

 

 上手い具合に男が死んだとしても、スマホに毒がべったり着いたままでは警察の捜査で一発でバレてしまう。

 アリアは女の姿をもう一度思い浮かべると同時に、自分が犯人になったつもりで考えてみた。


〈何か……何か見逃している……〉


 甲高い罵声……こぼれた水……置き去りされたスマホ……ヒールの音……キツめの香水……。

 その時、アリアはシナプスの閃きが光の線となって一本に繋がるような感覚を覚えた。


〈そうだっ……!〉


 スマートフォンには大抵、画面保護のためのシートが貼ってある。毒を塗るのはその部分だけにして、警察が来る前に剥がして適当な本の間に挟んでしまえばいい。いくら警察でも店にある大量の蔵書のたった一ページに凶器が隠されているとは思わないだろう。あとはほとぼりが冷めた頃に回収して、燃やすなり刻んで海にまくなりすれば、凶器は永遠に見つからない。

 今にして思えば、女の長い付け爪はシートを剥ぎ取りやすくするためのものとも考えられる。


〈わざわざ凶器を用意するんじゃなくて、普段使ってる身近な道具で人を殺しちゃうあたり、女性っぽい犯行だなぁ……〉


 アリアがそこまで推理した時、けたたましい着信音が店内に鳴り響いた。

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