3.

6月4日 午前11時30分


 アリアがまず違和感を覚えたのはカウンター席に座る年配の男性客だった。


〈あのヒト、?〉


 カウンターチェアは元来、座面が腰よりも高い位置にあり、フットレストに足を掛けて座るものだ。

 中学、高校と全校集会では決まって最前列に居るアリアはもちろんのこと、が好んで座る席ではない。

 それに男性客は先ほどから熱心に本を読んでいる。

 つまり、わざわざ店の奥まで一旦本を取りに来てから、杖をついて再びカウンターまで戻ったということになる。


〈怪しい、どう考えても妙だ……〉


 男性は何か別の意図があって、あえてあの席に座っているとしか考えられない。

 アリアの灰色の脳細胞が警告を発していた。

 年配の男性客が真犯人だったとして、起こり得る状況を考えてみる。


〈足が悪いフリをしているだけで、あの杖は何か別の意図があってあそこに立てかけられているとしたら……?〉


 カウンター席の背後の通路は狭く、人ひとりがやっと通れるくらいの道幅しか無い。

 もし誰かがそこを通りかかった時、何かの弾みで杖の先がはみ出してきたとしたら、きっとつまずいてしまうだろう。

 年配の男性はその人物に平謝りしつつ、怪我をしなかったかとしきりに確認しようとする。

 一方、被害者は足に痛みを感じるものの、相手が年配ということもあって強く抗議はせずにそのまま店を出ていくかもしれない。

 

 杖の先に毒針が仕込んであったとも知らずに……。


 ドクツルタケやマゴテングタケに代表されるアマトキシン系の遅効性毒物がゆっくりと被害者の体内に回り、自宅などの現場から遠く離れた場所で死体となって発見される。

 実際の犯行現場から時間的・空間的に離れれば離れるほど、〝死の状況〟は迷彩の霧に包まれて警察の捜査は難航するに違いない。

 動機の面から年配の男性が捜査線上にのぼる頃には凶器や証拠はとっくに消されてしまっているという寸法だ。


〈そういえば私がこの店に入ろうとした時、すれ違いざま、男の人がよろけるように出てきたっけ……〉

 

 ふと、そんな事を思い出したアリアが一つ目の推理を組み立てていると隣で大きな音がした。


「ちょっと! いい加減にしなさいよ!」

「だから、仕事の大事な連絡だってさっきから言ってるだろ?」


 どうやら二つ隣の席のカップルが痴話喧嘩を始めたらしい。

 デート中にもかかわらず彼氏の方がずっとスマホに夢中になっているものだから、彼女の堪忍袋の緒が切れてしまったようだ。

 勢い余って倒れたコップの水がテーブルの端から滴り落ちている。

 他の客も店員もどうしていいか分からず、ヒートアップしていく二人を遠巻きに見ていた。


「どうだか? あたし聞いちゃったんだよね、アンタの同僚に……随分、可愛い新人が入ったらしいじゃん? 休みの日まで熱心に指導してあげてるわけ?」

「はぁ? 別にそんなんじゃないし……」


〈じゃあ、どんなんだ……?〉


 男の方は見るからに動揺していた。

「だったらそのスマホ、見せてみなさいよ!?」

 その隙をついて、派手なネイルをした女の手がテーブルの上のスマホを掴んだ。

「ちょっと! コレ、パスワードがかかってるじゃない! ますます怪しい!」

「ったり前だろ!? 俺にもプライバシーってものがあるんだよ!」

 男が慌ててスマホを奪い返し、水滴やタコソースで汚れた画面を拭っている。

 急に店内が静かになり、ようやく当人たちも周囲の冷ややかな視線に気付いたのか、女の方が両手をテーブルについてゆっくりと立ち上がった。


「……はぁ、もういい! アタシ、お化粧直してくる」


 吐き捨てるように告げると、ハイヒールの硬質な音がアリアの背後を通り過ぎ、トイレのドアが勢いよく閉まると同時にキツめの香水の匂いが漂ってきてアリアは顔をしかめる。

 店員や客から安堵のため息が出る中、アリアは男がボソリと呟いた言葉を偶然にも聞いてしまった。


「……アイツ、ゼッタイ殺してやる」


 男は真っ赤に血走った目で女の席に残されたスマートフォンをじっと見つめていた。

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