2.

6月4日 午前11時23分



 市のほぼ中央に位置する商店街は東西約一キロに渡って全蓋式のアーケードが続いていて、綺麗な半円を描くアーチガラスから柔らかな太陽の光が差し込んでいる。アーケード内は横断歩道以外、終日歩行者専用の道路となっていて、御影石の舗装が陽射しを受けてキラキラと輝いていた。道の両側にはアパレルショップやゲームセンター、ファストフードや免税店などが軒を連ね、日曜ということもあって、ベービーカーを押す親子連れや部活帰りの若者、奇声を上げる外国人観光客でごった返している。

 もっとも、混んでいるのは地下鉄へのアクセスが便利な東側に限られていて、西へ行くほど人がまばらになり、頭上を覆うアーケードも今にも崩れ落ちてきそうな旧式のものが取り残されていた。

 アリアは制服のベレー帽を深くかぶり直し、目的の店の前までやってきた。


――喫茶・ブックエンド


 シャッターが降りた店も目立つ中、開店前のパブと改装中の中古レコード店の間にその店はあった。

 色褪せたモスグリーンのビニールシートでできたひさしの下には人ひとりがすれ違えないほど幅の狭いガラス戸があり、表に出ているキーコーヒーの電飾看板はやや黄ばんでいる。

 平成ももう終わるというのに、まるでここだけ昭和に取り残されているかのような店構えだ。

 待ち合わせの時間よりもだいぶ早く来てしまったアリアは店の前を行ったり来たりしながら、入るタイミングを窺っていた。


〈扉を開けて、髭面のマスターと常連客しか居なかったらどーしよっ?〉

 自分に突き刺さる冷たい視線を想像してアリアは足がすくんだ。


〈……やっ、や、今日は大丈夫! 相手が九野さんとはいえ、ホントに待ち合わせしてるわけだしっ? さりげなく時計を見ながら『とりあえずブレンドで……』って、スマートに注文すればいいんだよ!〉


 アリアは大きく深呼吸すると、店からバックパックを背負った外国人の男性が出てきたのと入れ替わるように店内に足を踏み入れた。

 泥炭でアーモンドを燻したような、甘苦い煙草と珈琲が混ざった匂いが鼻を刺激する。店内はそれほど広くはなく、入口から奥へ向かって背の高い革張りのカウンターチェアが並んでいた。その向こう、L字型の店の奥にはゆったりとした一人がけのソファを向かい合わせにしたテーブル席が四つ配置されていた。

 白熱電球の落ち着いた色の明かりがウォールナットの一枚板から作られたカウンターを照らし、独特の風合いを醸し出している。


「いらっしゃい」

 店内のインテリアに負けないほど日に焼け、目尻に深い年輪が刻まれたいかつい中年のマスターと目が合った途端、反射的に事前に用意していたセリフが口から飛び出した。

「えっと、人と待ち合わせしてて! あのっ、そのっ、ブレンド……」

 すると、マスターは細い目をしばたたかせたかと思うと、ニッコリと笑い、「かしこまりました。どうぞ奥のお席へお座りください」と、バリトンボイス告げた。


〈し、しまったぁ……! チェーン店じゃないんだから、フツーに席に着いてから注文でいいんだよ!〉


 うなだれるように席につくと、年代物だが質の良い天鵞絨のソファがアリアの小さな体を受け止めてくれる。

 白いシャツに丈の短いエプロンをした若い女性の店員がすぐに水とおしぼりを持ってやってきた。


「ども……」

 緊張でヘンな汗をかいたせいか、アリアは水の入ったコップを一気にあおる。

「ふふ、今日は暑いですよねー。おかわり、おつぎします」

「あ、ハイ……」


 アリアが空のコップを差し出すと、店員はガラスの水差しを傾けた。中の氷がガラスにぶつかって涼し気な音を立てる。氷と一緒に浮いているのは輪切りにしたレモンのようで、注ぎ口に張り付いたレモンの爽やかな香りと共に水が出てくる。

 アリアがその様子を興味深そうに見ていたせいか、女性店員は秘密を打ち明けるようにやや声のトーンを落とした。


「ウチのマスター、コーヒーを淹れる水からこだわってて、海外のミネラルウォーターを取り寄せて使ってるんだけど、硬水ってそのままだと飲みにくいでしょ? でも、こうやってレモンの果汁を入れると不思議と飲みやすくなるのよね」

「はぁ、ナルホド……」

 心情的には一つ席を挟んで隣に座っているカップルの男の方みたく氷をバリボリと噛み砕きたいところだったが、これはこれでほんのりレモンの風味がして美味しい。

「あ、ゴメンなさい。お水無くなっちゃいましたね。今、新しいの作ってくるんで……」

 アリアのコップに三杯目のおかわりを注ぎ終えたところでお姉さんは申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「や、もう十分です」

 確かに暑いとはいえ、待ち合わせの相手が来る前にお腹いっぱいになるのもどうかと思う。

 その時、男性客が女性店員を呼んだ。


「みさきちゃーん、お冷ちょーだーい!」

「はーい、ただいま!」


 店員がいなくなったところでアリアはソファに深く座り直し、改めて店内を見回した。

 『ブックエンド』というだけあって、店内の壁に沿って大きな樫材の本棚が置かれており、分厚い専門書や洋書がギッシリと詰まっている。それでも収まりきらない本が空いているテーブルや床に積み重なっていた。

 アリアの他に客は三人だけで、カウンター席には常連とおぼしき年配の男性がカウンターに杖を立てかけ、椅子に浅く腰掛けたままエスプレッソを片手に優雅に読書をしている。

 二つ隣の席に座っているのは二十代くらいの男女のカップルで、女の方はレモンケーキを食べながらしきりに話をしているものの、男の方は気もそぞろといった感じで、唐辛子たっぷりのタコサンドを摘みつつ熱心にスマホをいじっていた。

 先程までカウンターの中に居たマスターはナポリタンを作りに厨房に入ったのか、ここからでは姿が見えない。代わりに先程の女性店員が水差しに新しい水と氷を入れているのが見えた。

 しかしそれよりもアリアの目を引いたのは、カウンターの上に置かれたガラス製の器具で、アルコールランプの火で熱せられ、シュ、シュ、シュと静かに蒸気を吐き出している。

〈確か、サイフォンだっけ? あれのせいでこんなに蒸し暑いのか……〉

 もっとも、そう感じてるのはアリアだけのようで、カップルの男の方は先ほどからしきりにくしゃみをしていた。


 腕時計に視線を落とすと、約束の時間までまだ二十分以上あった。


〈ヤバっ……! なんかこれって、待ち切れずに早く来ちゃったように見えないかな……?〉


 実際、昨晩はロクに寝れなかったのは事実だ。

 誰かと待ち合わせをすること自体、アリアにとってはほとんど初めてに近い経験で、何を着ていけばいいのかクローゼットの前で頭を悩ませていた。そもそも普段からあまり学校の外へ出ないアリアは服を持っていなかった。

 唯一、マトモそうなのが以前、通販で一目惚れしてライヘンバッハの滝から飛び降りる覚悟で買ったヴィヴィアン・ウエストウッドのワンピースだったのだが、少し気合入れ過ぎだろうか?

 逆光で白く光るガラス戸を隔てた商店街の喧騒はどこか遠く、まるで影絵のように人が店の前を横切るたび、アリアの鼓動は脈打ち、手がじっとりと汗ばんだ。


〈い、いや……! 時間前行動は社会のジョーシキだし! 目上の人間と会う時にちゃんとしたものを着るのもマナー! 決して、楽しみにしているわけではない!! ……お茶会、クソくらえ!〉

 

 必死に自分に言い聞かせながらも、気持ちがどこか浮足立っている。喫茶店で男と待ち合わせをするなんて、先週までは考えられもしなかったのだから当然かもしれない。

 実に青臭く、穏やかで何でも無い日常の一コマだ。

 しかしこんな時でさえ、アリアはこう考えずにはいられない……。


――〉


 〝名探偵ジブン〟が偶然居合わせた喫茶店で、事件が起きないハズが無い!

 待ち合わせの時間が近づくにつれ、被害妄想にも近いその予感はアリアの中で次第に大きくなっていた。

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