第16話 【パルス】パブロフの犬と最悪の扉

家に帰ろうと昇降口で靴を履き替えていると山門が現れた。


 挨拶代わりに、僕のケツに蹴りを入れてくる。僕は危うく前のめりに倒れそうになるが、文句は言わない。言ったところでむかつくだけだし、こういう時に周りに誰もいない事も分かっている。


 振り向くと、うすら笑いの山門と目があった。




「聡。お前、圭ちゃんの病院行ってんの?」


 唐突にそう聞かれて、僕はなんだか嫌な予感がした。


 山門の目が僕を捕える。逃げるように目をそらした後、否定すればよかったと後悔する。


 これでは答えているようなものだ。




「聡。お前。オッパイ撮って来い。」


「・・・え?」


 僕は今、何を言われたのだろう?


「圭ちゃんのオッパイ写真撮って来い。個室なんだろ?」


 無理やり肩を組まれて腹が立つが振りほどけない。




「これで最後だ。」


 山門は声を潜めて言った。


 最後?何が?何を言っているんだ?




「いや、山門。圭は死にかけてるんだぞ?」


「知ってるよ。もったいだろ?お前だって見たいだろ?女のオッパイ?なんだったらアソコの写真も撮って来い。」


 アソコの写真???


 何を言っているのだろう?


 アソコの写真???




 圭のベッドの横に吊るされた尿袋を思い出す。


「これで最後だ。」


 何を言っているのだろう?




 無理やり空気を送られて上下する圭の胸を思い出す。


「そろそろばれんだろ?親の金盗んだの?お互いに良くない事が起きる前に手を打とうって話だよ。」


 がっしりと組んだ肩をゆすられる。 


 僕の脳は肥大して、何も考えられない。




「お前が、やり遂げたなら、俺は二度とお前に話しかけない。一切関わらない。」


 僕の肩を労うように二度叩く。うすら笑いの山門はいつだって目が笑っていない。


「ちょっと待てよ?山門。本気か?」


 僕の声は空気の抜けたゴム製のボールの様に足元に落ちた。


 山門は僕にかまわず靴に履き替えると、先に置いてあった僕の靴を力いっぱい蹴り飛ばした。


 飛んできた靴にビックリした女子が僕等に抗議の声をあげているが、山門は見向きもしない。


「お前を解放してやる!って言ってんだよ!」


 山門は僕を指さして怒鳴った。


 抗議していた女子は困惑顔で絶句した後、付き合いきれないとばかりに帰って行く。




「いいか、一週間やる。わかったな?」


 山門は呆然と立ち尽くす僕を睨み付けると、ポケットに両手を突っ込んで帰って行った。


 山門に蹴り飛ばされた自分の靴を拾う手が震える。


 アソコの写真???




 脳がしびれる。山門の頭はどうかしている。


 圭のおっぱいの写真を撮って来い?


 圭の?


 おっぱい?


 写真?


 何を、馬鹿な。


 解放って何だよ。


 解放ってなんだ!




 それから一分もしない内にスマートフォンが震えた。


山門「一週間な。一週間後にメールしろよ。」




 添付画像をスクロールして僕は息を呑んだ。


 それはいつか僕が無理やりパンツを脱がされて、下半身が露出している写真だった。


 三枚も添付されている。




 目に見えて手がぶるぶる震えだして、ますます気が動転する。僕の意思と関係なく手が震える。落ち着け!


 最後だなんて嘘だ。一生たかられる。足もぶるぶる震えて来た。


 震える手で画像を削除するのにひどく手間どる。


 脳が正常に機能していないせいで何度も操作を間違ってしまう。スマートフォンの画面には無情にも、画像をシェアするかと問う表示が出て来て、僕は叫び出しそうになった。


 違う!違う!


 シェアしてどうする!


 削除!削除!


 あっ!


 こっちから削除出来ないんだ・・・・・・・・・。


 削除できない・・・。




「中村、邪魔だよ。」


 突然名前を呼ばれて、顔を上げると、クラスメイトの石田さんが立っていた。


 目が合うと石田さんは不可解な顔した。


「なに?顔色きもいんだけど?大丈夫?」


 見られた!




 僕は今どんな顔をしているのだろう?


 駄目だ。逃げよう。


 僕は靴を下駄箱にしまうとやみくもに校舎を走った。逃げなきゃ。もう駄目だ。


 廊下に生徒がまだ大勢居る。


 ここじゃ駄目だ。


 ここじゃないどこか遠くへ、僕の事を誰も知らないどこか遠くへ。


 誰も居ないどこか遠くへ。


 誰か!誰か!


 ハハハ・・・誰も居ない最果ての地に行きたいと思った矢先に、誰に助けを求めるというのだろう?


 涙がツーっと落ちて来た。


「・・・もう、嫌だ・・・。」


 気がつけばいつも自殺の練習をさせられている旧校舎との渡り廊下まで来ていた。


 驚いてビクリと立ち止まる。


 涙が頬を使い、顎に流れて行く。


 息が切れる。


 僕は今、何を考えているのだろう?


 僕は僕の考えにゾッとする。


 今まで全力で気がつかないふりをしていた考えがゆっくりと頭をもたげる。


 遠くで壊れたクラクションが鳴っている。幻聴だ。


 嫌な感じがする。


 駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ。考えちゃだめだ。考えるな。考えちゃだめだ。何も考えるな!




いつかの餓鬼が黒い声で僕に言う。


「死ねば不安な未来も悲しい過去も何も無い。何も無い世界が待っている。」


・・・知っている。そんな事は知っている。そんな事はわかっている。


遠くで壊れたクラクションが鳴っている。


遠くで陸上部のランニングの掛け声が聞こえる。


遠くで壊れたクラクションが鳴っている。


遠くで女子の笑い声が聞こえる。


遠くで壊れたクラクションが鳴っている。


遠くで吹奏楽部のパート練習が聞こえる。


遠くで壊れたクラクションが鳴っている。


遠くで壊れたクラクションが鳴っている。


遠くで壊れたクラクションが鳴っている。


遠くで壊れたクラクションが鳴っている。


遠くで壊れたクラクションが鳴っている。






「パブロフの犬だよ。」山門はそう言った。




 初めてここに連れて来られた時、山門はそう言った。


「この渡り廊下を見たら、自殺したくなるようになるか実験だ。これから毎日実験な。」


 僕はパブロフの犬なのだろうか?




 僕が死んだら、山門達は実験の成功を喜ぶのだろうか?


 肩を抱き合い、腹を抱えて、いつもの様に笑うのだろうか?


 それともあわてるだろうか?


 僕の事を思い、反省し後悔するだろうか?


 僕にはとてもそうは思えない。たぶん初めは実験の事がばれないかどうか気をもむだろうけれど、死んだ人間の事を第一に考える奴なんていない。


 死んだら負けだ。




 山門達は全力で保身に走るだろう。平気で嘘をつき、新しい真実が出来るだろう。


 僕と山門が友達となって、何もかもが遊びの延長になってしまうだろう。生きている人間は皆、保身で精一杯だ。


 そして新しい真実は皆に歓迎されるだろう。いじめなんて無かった事にされるだろう。厄介事は少ないに越したことはない。


 新しい真実・・・。歓迎される新しい真実・・・。


・・・だとしたら僕のこの日々は何だったのだろう。




 簡単に無かった事になる、この地獄の日々に意味なんてあるのだろうか?


 僕が死んでも山門達はそのまま高校へ行き、大学へ行くかも知れない。就職して、結婚して、子供が出来て、それなりに幸せに暮らすのだろう。


 僕の事なんて、すぐに忘れてしまうのだろう。




 パブロフの犬は幸せだ。


 僕よりずっと幸せだ。死んでも尚、皆の記憶に残っているのだから。


 日本では年間何万人もの自殺者が居るとニュースで見た事がある。たぶん、僕の死は、何の意味も持たないだろう。


 母さんと姉ちゃん、爺ちゃん、もしかしたら父さんも泣くかも知れない。


・・・だけど泣いて何になるのだろう?何の意味も無い。死んだ人間を思って泣く行為なんて、そんな事は何の意味も無い。ただの自己満足だ。


 僕の死は何の意味も無い。


 テレビでよく見る葬式の様に、クラスの女子は僕の葬式でメソメソ泣くのだろうか?


・・・友達でもないのに?偽善者どもが・・・。


・・・泣いて欲しくないな。偽善者どもに泣いて見送られたくない。


 友達でも何でもなかったのに急に友達面で、僕の遺影を見てさめざめ泣いて欲しく無い。




 僕は生れた時幸せだった。


 祝福されてこの世に生を受けた。だから勘違いしてしまったのだ。


 小さな頃、僕が笑えばみんな笑うし、僕が泣けばみんな困ったから、僕が世界を動かしていると思っていた。特別な子供だと思っていたのだ。でもそれは間違いだった。僕は特別な子供ではなかったし、世界は僕なんて気にも留めていなかった。




 僕は誰かが助けてくれるのを、誰かが気が付いてくれるのを行儀よく待っていたのだ。特別な子供だと思っていたから、僕が困れば世界が困り、僕が思えば世界に通じる、馬鹿らしいけれど心のどこかでそう思っていたのだ。


僕はいい子で待っていた。




 待っているだけじゃダメだって本当は知っていたのに。それは自分本位な希望だって分かっていたのに。


 僕はいい子で待っていた。


 小さな頃、夢中になって見ていた正義のヒーローは、僕の将来の夢だった。悪から地球を守り、誰からも愛される、ヒーローになりたかった。


 皆ヒーローに憧れ、悪を憎むものだと思っていた。


 誰が好き好んで悪役をやりたがる?


 誰も望んで怪人になりたがらないだろうと、そう思っていた。


 一度しかない人生。一度しかない今を、悪役に身を呈して何が面白い?


 僕には理解できない。




 小学校の道徳の時間に先生は言った。


「人類皆平等」って。だけど、僕等は皆知っている。


 この世で唯一平等な事は、どんな人間であれ、いつか皆死ぬって事だけ。


 皆いつか死ぬ。


 金持ちも貧乏人も、幸福な奴も不幸な奴も皆皆、一人残らず。皆死ぬ。


 平等な死が訪れるのをいい子で待つのは止めよう。


 僕の人生に意味を作ろう。意味も無く死ぬのは嫌だ。


 そうだ僕が生きていた意味を作ろう。


『意味を作ろう?』




 止まると死んでしまう魚みたいに、僕はゆっくりと歩く。


 この世に恐れる事は何も無い。人は皆死ぬのだから。


 意味を作るのは簡単だ。


 人を呪わば穴二つ。


 山門を殺せばいい。


 山門を殺せば、誠の真実が、揺るぎない誠の真実が、皆の目の前に、海の様に拓けるだろう。僕は 佐々木山門を殺した人間となり、佐々木山門は中村聡に殺された人間となる。


 万人の為の正義はない。




 ならば僕は自分の宗教を信じよう。僕は僕を信じよう。僕の正義を信じよう。


 渡り廊下から空を仰ぎ見る。


 さびた手すりをギュッと握る。灰色の曇が低く垂れこめている。空が近い。


 僕は僕を信じよう。


 世界が僕等に背を向けるなら、世界を振り向かせて見せればいい。


 僕は十分悩んだ。


 家に帰ろう。雨が降る。




                        ◇◇◇




赤目のハエが忙しなく飛んで僕をわずらわせている。


彼女は昨日から何も食べていない。僕の部屋にはそれらしい物がないからだ。


彼女は何を思っているのだろう。


窓ガラスに気が狂った様に体を打ち付け、同じところをぐるぐる歩き、時々思い出した様に身づくろいを始める。




彼女は悩んでいるのだ。


彼女は腹を空かせているのだ。




僕はふと思いついて彼女を捕らえる事にした。何故だかはわからない。


誤って潰してしまわぬ様に、台所から空気穴の付いているタッパを拝借し、身づくろいをしているところを狙って素早く捕らえた。




すると彼女は前にも増して、タッパの中を気がふれた様に飛び回り、体を何度も打ち付け、同じところをぐるぐる歩いた。


彼女は恐怖に打ち震えているのだろう。それとも何も思うことはないのだろうか。




僕は冷蔵庫から、一口サイズのゼリーを取り出すと、彼女に与えた。


蓋を開けた瞬間に逃げてしまわない様に、タッパを思い切り振って、大人しくなった所にゼリーを滑り込ませた。


彼女はゼリーに満足した様で、ゼリーの上で身じろぎもしなかった。体の何倍もあるゼリーがあれば、何日暮らしていけるのだろうか?




しばらくして、僕は彼女が腹に卵を抱えている事に気が付いた。というのも、彼女がゼリーの上に卵を生み始めたからだ。紫色のゼリーの上に黄色い卵を産んで行く。




卵はゼリーの飾りの様に、はなから其処にあった様に、こんもりと産みつけられた。




彼女の目に僕はどう映っているのだろうか?ジッと見つめる僕の存在にこうも無関心でいられるだろうか?




彼女にとって僕は其処ら辺りに落ちている糞と何ら代わりはないのだろう。




やがて、彼女は卵を生み終わると、また気が触れた様に飛び回り、同じ所をぐるぐる歩いた。




そして、しばらくして卵が返りウジ虫が這い回った。


僕はタッパを持って川に行き、橋の上からそれを落とした。




ウジ虫共は生まれた時から、囚われの身で何処にも行けない。外の世界はクリアに見えているのに何処へも行けない。彼らは何処にも行けないけれど、彼らを乗せた船はゆっくり川を下って行く。




彼らを乗せた船は自由だ。・・・自由?


自由なんて何処にもないじゃないか。




船は何処まで行くだろう?河口までたどり着くだろうか?


大海原をウジ虫共は・・・たぶんウジ虫共はすぐに死ぬだろう。タッパだって何キロも進まず、中州に流れ着くだろう。




僕等は何処へだって行けやしない。僕等は何処へだって行けやしないよ。




赤い蓋がスキップしなから流れて行く。行き先はすぐ其処の中州だってのに。


ここから海は見えない。見えるのは田んぼばかりだ。


「GOODLUCK」


ははは、なにがGOODLUCKなのだろう?


ははは、・・・僕は何をしているのだろう?






                      ◇◇◇






 僕は同じ事をぐるぐる考えた。


 針が飛んで先に進まないレコードのワンフレーズの様に、終わらないリフレインの様に。




 何を見ている時も、何をしている時も、眠っている時も、眠っていない時も、どんな時も、教会で行われる結婚の誓いみたいに、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、僕は考えた。


 僕が自殺したら両親は悲しむだろう。


 そして息子は山門に殺されたと思うだろう。


 校長は「いじめは無かった。」と言って、後でいじめはあったと訂正するかもしれないし、訂正しないかもしれない。


 教育長は記者会見で「いじめがあったとは断定できない。」と言うかもしれないし、「いじめが自殺に繋がったとは断定できない。」と言うかもしれない。 


 父ちゃんは警察に被害届を出そうとしても受理されないかもしれないし、度胸試しの延長として裁判にならないかもしれない。仮に賠償金を貰ったって、息子の値段はこの金額かと思うだろう。その金でトラクターを新調したりはしないだろう、もしかしたら、文字通りにドブに捨ててしまうかもしれない。




 今まで伝え聞いてきたニュースはいつだって、そうだった。今回だってそうだろう。次回も、その次も、悪しき習慣は引き継がれ恭しく奉られる。


 父さんと母さんは、(僕がそうだった様に)ニュースで中学生が自殺する度に、死んだ僕の事を思い出すだろう。きっとこれからも定期的にどこかの中学校でいじめが起こり、誰かが自殺するのだ。


二、三年に一度、保険の更新はがきが届くみたいに不幸の便りは届くのだ。




 そして、遺族は自分の子共の死が生かされず、悲劇が繰り返されていると悲しんで、行き場の無い憤りを抱えて、そっとこぶしを握るのだろう。


 同級生が高校の新しい制服を着ているのを見かけた時、大学で家を出て行く時、成人式を迎える時、就職して、結婚して、子供が出来て帰省して来る時、父さんと母さんはきっと僕の姿を重ねるだろう。そして心のどこかで「どうして、うちの子だけ。」と思うのだ。




 きっと姉ちゃんは結婚して子供を産み、その子が僕の歳になった時、父さんと母さんは、孫が息子の歳を超すのを複雑な心境で迎えるだろう。




 母さんは僕の部屋をそのままにして片づける事はしないだろう。


 もしかしたら、その事で父さんと喧嘩するかもしれないし、僕の部屋で一人泣くかもしれない。


 じゃあ、どうすればいい?そうさ、答えは決まっている。


 この国では、加害者に人権が有っても被害者には人権が無い。


 では加害者になればいいのだ。




 僕が山門を殺すのだ。


 そうすれば、校長は胸を張って、こんな事件が起きる予兆は全く無かったと、気が付かなかったと言えばいいし、教育長も、胸を張って僕を断罪すればいい。


 警察は放っておいても因果関係や背景、真相を捜査するだろうし。


 父さんと母さんはニュースで中学生が自殺しても、僕が起こした事件よりはまだマシだと思うのだ。だから行き場の無い憤りで、そっとこぶしを握らなくて済むだろう。




 同級生が高校の新しい制服を着ているのを見かけた時も、大学で家を出て行く時も、成人式を迎える時も、就職して、結婚して、子供が出来て帰省して来る時も、父さんと母さんはきっと僕の姿を重ねるだろうけれど、山門の事を申し訳なく思うだろう。だから心のどこかで「どうして、うちの子だけ。」とは思わない。




 姉ちゃんが結婚して子供を産み、その子が僕の歳になった時は、父さんと母さんは、孫が息子の歳を超すのを複雑な心境で迎えるだろうけど、いい子に育って欲しいと思うだろうし、僕の部屋は片づけるだろう。だから、その事で父さんと母さんは喧嘩したりしない。


 僕の部屋は無くなるからそこで誰も一人泣く事は無い。




 僕は山門と山門が将来生み出す悪を殺すのだ。


 僕も死ねば、両者の両親は痛み分けだろう。そうだろう?


 そして僕は未来のクソ野郎共に高らかに宣言するのだ。


「殺される覚悟でいじめて来い。」と、布石を打つのだ。










 山門を殺す事にしてから、三日後、僕はノートにこう書いた。


「僕、中村聡は死ぬほどいじめられたので、佐々木山門を殺すことにしました。」




 しばらく眺めてから四つに折って封筒に入れると、セロハンテープの端をハサミで慎重に切り封を閉じた。


 雨の音がする。


 声に出して言ってみる。


「僕、中村聡は死ぬほどいじめられたので、佐々木山門を殺すことにしました。」




 


 僕の名前は婆ちゃんが付けた。聡明な子に育ちますように。


 僕には過ぎた名前だ。




 小さい頃、夏になると好物の桃を買って来てむいてくれた。婆ちゃんは種の周りに余った果実だけ美味しそうに食べていたから、僕はてっきりその部分が美味しくて好きなんだろうと思っていた。


 勿論そんな事実は無くて、美味しい所は全部僕に寄越して、僕の顔を見て笑っていたのだ。


 不意に涙が出る。




 最悪の扉を僕が開く。


 たぶん、最悪の扉は開くだろう。


 扉はいつもすぐそばにある。いつも手の届く、すぐそばにある。




 暗闇の中、隙間から光が漏れていて、くっきりと扉の形が浮かんでいる。すぐ其処に取手がある。振り返って暗闇を見渡すが、他に行くべき場所が無い。




 僕という惑星の夜に浮かび上がるネオンは、息づく扉の形をしているのだ。


 取手に手を掛け、ゆっくりと回す。


 他に行くべき場所が無い。


 僕はこの暗闇から一歩踏み出す。

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