第15話 【パルス】人でなしの圭は生贄を希う
港に希望という名の船は無かった。
無論、初めは誰にも頼らず、一人きりで海原を渡る気でいたのだ。
それで藻屑と消えようと構わない、そう、思っていたのだ。
だけれど、爺ちゃんの葬式で私の戦意は吹き消された。
蝋燭の火のように消えてしまった。
後にはパラフィンワックスの嫌な臭いだけが宙を漂い残った。
怖気付いた私はこの海原を渡るのに、道ずれを願わずにいられなかった。
葬式の途中で私に「逃げよう。」と言った聡。
葬式の途中で私を逃がしてくれた聡。
私の腕を掴んで前を歩く後頭部を見ながら私は思った。
二月の寒い雪の中、上着も着ずに歩く後頭部を見ながら私は思ったのだ。
どうして私に「逃げよう。」なんて言ったのだ。
どうして私を逃がしてくれたのだ。
どうして私はこの手を振りほどけないのか。
どうして私は黙って歩いているのか。
いけない、頼っては駄目だ。
いけない、巻き込んでは駄目だ。
あんなに硬く、一人きりで誰にも頼らず海原を渡る気でいたのに。
私にささやく声がする、
私なりに愛されたい。
わかってくれなくていい。ただ誰かに私がここに居ても良いのだと、認めてもらいたい。
私は私の中で溺れてしまいそうなのだ。
息が出来ない。
このままでは、いつか私は破裂してしまうだろう。
葬式の後、私は新居から逃げ出して元の家に戻って来た。
キャリーバックに入るだけの荷物を詰めて家出して来た。
二時間半かけて歩いて来た。
雪の残る道を重いキャリーバックを引いて歩くのは骨が折れたが、断固とした意思表示を示す必要がある。
1村上さんと離婚する事
2宗教をやめる事
3この家に戻る事
4私を諦めてもらう事
元々、私の事が諦めき切れずに、藁にも縋る思いで入った宗教だ。曖昧にしていたのが悪かった。向き合わなかった私も悪いのだ。
母ばかりのせいでは無い。何もしなかった結果がこれだ。
キャリーバックから卒業文集を取り出すと聡のページを開いた。
三代目の目標 六年二組 中村聡
僕の家は農家です。田んぼと畑があります。田んぼがメインですが、去年ビニールハウスを新しくしました。僕は海外の野菜に興味があって将来はビニールハウスで珍しい野菜を作れたらいいなと思っています。
人手が足りない時は手伝いをします。作業中に祖父はふざけて僕の事を「三代目」と呼びます。僕はそう呼ばれると少しプレッシャーを感じますが、気合も入ります。
爺ちゃんの口ぐせは「たわけもの」です。たわけものの語源は子供の数で田畑を分けると受け継がれていく内に収穫量が落ち、すい退していくので、おろかな行為をバカにして呼ぶようになったそうです。
僕はたわけ者にはなりません。将来田んぼをつぎます。農家に勉強は関係ないと思っていましたが、今どきの農家は勉強も出来ないと取り残されるそうです。だから中学になったら勉強もがんばりたいと思います。
文集から顔を上げると、大きなため息が出た。
巻き込むという事は、この土地に根を生やし縛られている彼の根を切り、引っこ抜くという事だ。
抜かれた花はすぐに萎れてしまうだろう。
私は故郷を捨てる。
中学を卒業したら二度とここへは帰って来ない。
高校は寮付きの学校へ進学すればいい。出来れば陸上の強い学校がいい。
私は聡をここへ置いて行くのだ。さんざん世話になっておいて、迷惑をかけて、巻き込んでおいて、私はここを捨てて、さっさと居なくなるのだ。
将来の夢 六年二組 今泉圭
三年生の時の将来の夢は、お菓子工場の社員でした。工場見学に行った時、機械がすごい速さで動いていて、それを動かしている社員さんはもっとすごいと思ったからです。
それから四年生の時にパティシエのドラマを見て、機械で作るより自分で作った方が楽しそうだし、形や材料を考えて工夫するのは大変だけどやりがいがあって、カッコイイと思い、将来の夢をパティシエに変えました。
東京に専門学校があるので、そこに入って勉強したいです。有名なケーキ屋さんも東京にはたくさんあるので色々食べ歩きをして参考にして自分の味のオリジナルケーキを作れるようになりたいと思います。
今は走るのが楽しいので、中学生になったら陸上部に入りたいと思います。特に一00メートルのタイムを早くしたいです。そのためにクラウチングスタートをマスターしたいと思います。
小学校での六年間は色々あったけど、中学生になったらがんばりたいと思います。
自分のページを黙読して文集を閉じた。
嘘だ。
文集に書いた事は全部が出鱈目だ。
何の意味も無い。何の将来も描けない。
東京の有名ケーキ屋で白い制服を着てキビキビと無駄なく動く自分を想像してみた。
そんな未来はきっと来ない。先輩に怒られながら粉まみれで修行している自分。
そんな未来は来ない。
なぜならば、ケーキなんてどうでもいいからだ。将来なんて考えられない。
母親を説得する為に考えたシナリオだ。上手く行くと思えないがやるしかない。
仰向けに寝転がると、蛍光灯からジーという音がする。
春はまだ遠い、後何回か雪が降るだろう。
恭しくカバーのかけられたセーラー服を取り出して撫でた。網目の詰まった、しっかりとした生地だ。
これを燃やす。
燃やしたと知れば本気度も伝わるだろう。口で言っても通じない。母さんは泣くかもしれない。だけど、泣きだしたら言ってやる。泣きたいのはこっちの方だ。
泣きはらした母親の顔を思い出して、膝を抱える。迷うな。迷っちゃ負けだ。
聡は引くだろうか。引いて逃げ出してくれればいい。離れて行く船に乗らずに、岸壁から見送ってくれればいい。
それだけでいい、私は声の限りに聡に叫ぼう。「ありがとう。」と、聡なら、私が手を振ったら、振り返してくれるだろう。聡に伝えたい。私は本当に感謝しているのだ。
ハサミを握るとスカートの真ん中から誠意を持って切っていく。綺麗にプレスされたプリーツも襟の白いラインも関係なく、セーラー服をただの布に貶める。
私は我儘なのだろうか?
私はいわゆる性同一性障害というやつで、身体は女だが中身は男という厄介な問題を抱えて生きている。今でこそ性同一性障害のタレントが数多くテレビに出てきてその存在が世間に周知されたが、正しくそれを理解している人がどれくらいいるかと言えば、きっと少ないだろう。
私もちゃんと調べた訳じゃない。調べるのが怖いのだ。
システマチックにカテゴリー化されてしまう事への苛立ちと、所在の無さからの解放が相まって先延ばしにしている。
男として生まれて中身が女だった人の例は多くメディアに取り上げられるけれど、その反対の私の様な例も多い訳で、そうなると何故かタブー感が強く、中身が女のそれよりも中身が男のそれの方が世間に受け入れてもらえない気がする。
だから私は人よりも多くの問題を抱えているのを充分過ぎるほど解っていたし、小学生にしては充分過ぎるほど悩んでいた。
だから知識が無い分ただひたすらに自分との対話に時間を割く事になった。
しかしそれは途方も無く孤独な出口の無い作業で、漠然とした規模のわからない不安が音もなく広がっただけだった。
勿論、友達はおろか母親にも相談出来ないし、むしろどうすれば誰にも悟られずに安泰に一日を消化出来るかを、一番に考えなければならなかった。そしてこれが一番困難だったのだが、どうすれば人を好きにならずに済むかを考えた。
私も人並みに恋や憧れを抱いたが、その度に、なぜ私は女なのだろうと、途方もない荒野に一人置いて行かれた様な気になって、人を好きになる度に目の前が暗くなった。
もし私が男として生まれ男として生活したら、きっと同級生の男友達とも上手くやっていけただろうと、意味の無いシミュレーションをしたりもした。
しかしそれは、ますます自分の人生から色を奪い、私はどうしても私自身の人生を今まさに歩んでいるのだという実感が持てなくなってしまった。
だけど確かに手元にあったのだ。
いびつで不安定で触り心地が悪いけれど、愛着の持てる私の核が確かに手元にあったのだ。いつの間にか透明になって背景に溶け込んでしまった。私はそれを、何処へやってしまったのか。
自分の核を見失った私は、自然と他人と距離を置く様になり、人との関わりを最小限に抑え、人の助けを受けなくても済む様に先を見越して努力するようになった。
その結果、私は成績も良く運動も得意だったが、目標があるわけでもなく、好きだから頑張っている訳でも無いので、将来の夢や天望の無い人間になってしまった。
だけど、制服の採寸をしてもらっている時に、私は不意に気が付いたのだ。
いつの間にか私の核は両手では抱えきれないほどに膨れ上がり。私を見下ろしていた。すぐそばにあったのに大きすぎて気が付かなかった。
そして、ちょうど母の結婚が決まり、苗字が今泉から村上に変わり、爺ちゃんが死んで、過積載で私の船は沈んだ。
私の小舟にはそんな大きな荷物は積めない。だから、私は捨てていくのだ。
何もかもを捨てて行こう。三年後、私はこの空と大地の監獄を出る。
暗い海底でじっと身を潜め、明るい海面を眺めて過ごすのは嫌だ。
眩しすぎて目が焼けようと、太陽の下で過ごしたい。
私は我儘なのだろうか?
ただ生きているだけじゃ、誰も誉めてくれない
ただ生きる事がこんなにも辛い事なのに
小さな耳に、大きな口をした怪物に、私の声は聞こえない
聞こえないのならば、語るのは止めよう
小さな目に、大きな口をした怪物に、私の姿は見えない
見えないのならば、ここを出よう
怪物に私を捕えることは出来ない
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