第3話 【境界】僕と黒い鳥の詩 その2

 ブルッと体が震えて目が覚めた時、頭が動いて身体の下のアスファルトが全霊をかけて僕を拒絶しているのが分かった。僕は倒れたままのそのままの状態だった。眠るにはアスファルトは硬すぎる。




 ゆっくりと体を起こすと砂が落ちる。


 節々は痛いが先ほどよりは身体が楽になった様だ。


 日が傾いた様子はない。


 それほど時間は経っていないのだろうか?喉が痛い。立ち上がろうと膝に手をついて、僕はおののいた。 


体に砂が一センチほど積もっている。まるでビーチで埋められた後の様だが、顔も髪も同じ状態なので、たぶんゾンビの様相を呈しているのではないだろうか。




 ブルッと体が震える。


「ははは。」


 可笑しい。可笑しいじゃないか、死んでしまってなお、風邪を引きそうだなんて・・・。僕は死んだのだろうか?いいや、そんなはずはない。


 無性に誰かに会いたくなったが、誰の顔も思い浮かばない。


 僕はゆっくりと立ち上がって、頭を振った。




 僕は誰だ?




「母さん」と、呟いてビクリとする。


 母さん?そりゃ僕にも母さんは居ただろう。




 涙があふれる。とめどなく溢れて来る。僕は声を出して泣いた。


 何だか急に堪らない気持になった。こんなに泣いたのはたぶん久々だろうと思う。しゃくりあげて上手く息が吸えない。ただ、僕は僕が何故泣いているのか、よくわからなかった。何も無い僕は、泣く理由もわからない。悲しいのか、寂しいのか。たぶんどちら共だろう。では何故悲しいのか?何故寂しいのか?


 ただただ泣いて、ひとしきり泣いて、あたりを見渡し、空を見上げて、足元を見て、人気のない村を見て、涙を拭いて歩く事にした。


 地団駄を踏んで喚き散らす程には、僕は子供じゃなかった。


 だけど百繰は止まらないし、僕は迷子だ。誰かの助けを必要としている。


 乾いた足音が僕の存在を僕に教えてくれる。僕はここに居る。行こう。


 何かを探しに。






 十分ほど歩いてわかった事は、この村は白い砂に飲み込まれつつあるようだ。


 それも砂漠の砂を無理やりに運んで来てばらまいた様な違和感で、僕の足取りは進むにつれて重くなった。




 砂を除けば、村は典型的な日本の田舎だ。山に囲まれた平野に田んぼが広がっている。 


 三十分ほど歩くと広い田んぼの向こうに数件の民家が固まって点在しているのが見えて来た。


しかし、民家が見えても僕の不安は少しも拭えなかった。猛烈な静寂に包まれているのだ。


 誰も居ない。


 人間どころか蛙一匹、鳥一羽、生物の気配は何もない。


 風だけが吹いている。




 田んぼに引かれた水が風に吹かれてキラキラと輝き、青々とした稲が波を打つのに、カエルも小魚もタニシもザリガニも何も、何も居ない。


 枝を拾って草むらを叩いてみてもバッタ一匹出てこない。蟻も歩いていないし、蝉も鳴いていない。ノアの箱舟にただ一人置いて行かれたような気分だ。


 たぶん、ここはこの世じゃない。


 不安で心臓が収縮する。


 立ち止まると、また泣いてしまいそうだ。


 三途の川を渡ったら死んだ爺ちゃんが迎えに来てくれると思っていた。




 ん?死んだ爺ちゃん?僕には死んだ爺ちゃんが居たか?




 照り付ける太陽の元、僕は本当に文字通り彷徨った。


 行った道を引き返したり、分かれ道で悩んだり、通った道をまた通ったりしながら当てずっぽうに、途方に暮れて農道を進んだ。そして何気なく電信柱の番地プレートを見た時、僕は息を呑んで立ちすくんだ。全身の毛穴が開き、毛が逆立つ。ぶるぶると手が震え出す。




 僕はこの村を知っているのではないか?


 活性化された脳細胞がざわざわと電気信号を送ってくる。瞬く電気信号が目視できるのではないかと思うほど、細胞が僕に走れと言う。




 僕はよたよたと走り出し、直ぐに全速力で走った。


 いつの間にか身体が軽い。急に村が親し気に僕を迎え入れてくれている様に感じる。さっきまでの村と同じ村だろうかと、逆に不安になるくらいだ。




 一歩大地を蹴る毎に僕を呼んでいる声がする。それは実際に聞こえたわけではないけれど、親しい者の声だ。僕は呼ばれてここへ来たのだ。


 高鳴る心臓が確かに脈打ち、生きろと血液を細部に送り出してくる。高揚感と浮遊感。息が切れる。まっすぐ伸びる農道を風に押されて僕は走った。


 小気味いい息使いで、肺いっぱいに新鮮な空気を吸って、濁った空気を吐き出した。




 僕を呼んでいる声がする。


 ずいぶん前から僕の名を呼んでいる。角を曲がって向うに見える家が視界に入った時、魂が震える思いがした。目を瞑ってでもたどり着ける気がする。




 僕の家。


 あれに見えるは僕の家。どうしてわからなかったのだろう?こんなにも村に愛されている。


 こんなにも村を愛している。僕の村。




 手前の家を通り過ぎた時、門の表札部分が壊されているのが目に入った。


 五メートルほど通り過ぎて、気になって戻ってみると白い石の表札が塀と一緒に叩き壊されて破片が飛び散っている。




 急速に気持ちが沈んでいく。表札の他に壊されているところは見当たらない。斜向かいの家の表札も確認すると、今度は銀のプレートが抜き取られている。表札泥棒でも横行しているのだろうか?


 事態が飲み込めなくて戸惑ってしまう。




 沈んだ気持ちのまま僕は、僕の家の門扉を確認した、やはりそこには四角い凹みがあるだけで、表札は無い。


 門を開けて中に入ると、飛び石の庭を抜けて玄関の引き戸の上を確認したが、ここにも表札はない。ガラスの引き戸に鍵は掛かっておらずカラカラと音を立てて開いた。後ろ手に閉めると、閉め切った家の匂いがする。




 僕の家の匂いだ。胸いっぱいに吸い込むと全身が歓喜に震える。


 板張りの床は白い砂が埃のように積もっていて、僕が動くたびにガラス戸の光を受けてキラキラと舞った。家の中にも砂が入り込んでいるのだ。




 傘立ての傘にも、長靴にも、下駄箱の上の花瓶にも一応に白く砂が薄っすらと積もっている。


「ただいま。」と言ったら涙で視界がぼやけた。




 身体に馴染んだ階段を、知っている歩幅で上がって行く。右手にある僕の部屋まで一気に駆け上がった。


 帰って来たのだ!


 自分の家に!自分の家がこんなにも大切だと思わなかった。




 勢いよく自室の扉を開けると、なんと部屋には何も無かった。


「あれっ?」


 空っぽの空間に僕の間向けな声が響いた。


 いくら瞬きしても、日に焼けたカーテンの他何も無い。


 なぜだ?どうして何も無い?


 唖然として部屋を見渡すと、部屋の真ん中にノートが一冊置かれている。


 不自然極まりない。




 ノートを拾い上げて、もう一度ぐるりと部屋を見渡した。


 掛け時計やポスターの跡がくっきり付いた壁や、床に付いた傷やシミなどを注意深く見た。それ等は馴染みのあるものの様な気がするが、はっきりしない。




 僕は大きく落胆して部屋の真ん中に座り込んだ。


 やはり僕は死んでしまったのではないか?


 両親が死んだ僕の荷物を処分してしまったのだ。


 そう思うと急に具合が悪くなって吐き気がした。外の空気が吸いたくなって、カーテンを開けて、開け放った窓から見える風景を見て息を整えると、やはり僕はこの景色を知っていると思った。ここが僕の部屋であり、ここが僕の家だろう。




 水色のノートの表紙に大きく油性ペンで1と書かれている。


 ページをめくると、縦棒が四本に対して横棒が一本引かれている。それがページにびっしり記入されている。


 何だろう?ムカデの大行進?


 そういえば昔見た外国の映画で、牢屋に入れられた人物が日付を数えるのに、こんな記号を書いていた。何かを数えた記録ノートなのだろうか?記録したとしたら、きっと僕自身なのだろうが、まるで身に覚えがない。




 あれ?


 映画を見た?何の映画だった?いつ、どこで、だれと見た?・・・思い出せない。




 ノートの裏表紙には 『手紙は僕の机の上に移動させた。必ずそっちを見てくれ』と書かれている。


 僕の机と言われても・・・。何も無い部屋を見渡す。


 そもそも僕はこのメッセージを誰宛てに書いたのだろうか?手紙?誰宛ての?・・・表に1とあるから、このノートが1冊目なのかもしれない。


 他に何か見落としがないか一ページづつめくってみたが、それ以上の情報は得られなかった。


 どうして手紙を移動させたのだろう?


 部屋の真ん中で横になって天井を眺めた。疲れてしまった。落胆が大きすぎたのだ。家を発見した時に、自分が何者かすぐに思い出せそうな気がしたのだ。




 何の変哲もない照明を眺めていると、この照明を幾度となく眺めて過ごした様な気がして来た。小さい頃からずっと目が覚める度にこの照明を一番に目にした気がする。


 しかし何だろう?何かが引っかかる。


 何か分からないけれど、違和感があるのだ。身体を起こして床を叩いてみるが、違和感の正体は分からない。だけど虫一匹いないこの世界で、違和感が無い方が可笑しいと、思い直した。家の中を見て回ればハッキリと思い出すかもしれない。




 二階には僕の部屋を含め三つ部屋ある。一番奥の部屋は隅に電気ストーブが一台置いてあるだけで、僕の部屋と同じ状況だった。


 もしや家の中は、もぬけの殻なのではと不安になって階段左の部屋を覗くと、こちらは家具がそのまま残されていて、思わず安堵の息を吐いた。何がどうなっているのか、分からないからずっと気を張っていたのだ。




 年季の入った桐ダンスや本棚、ペン立てにはボールペンなんかと一緒にツボ押しや爪切りなんかも一緒くたに入っていて、文机には付箋が挟まった新書が置いてある。広告の裏を切って束にしたメモ帳には(少量多品目栽培)と鉛筆で書かれている。汗染みの酷いキャップと紺色のウインドブレーカーが座椅子に放り投げられていて、埃が積もって無ければ今にも人がひょっこり部屋に入って来そうだ。




 ここは爺ちゃんの部屋ではないだろうか?


 なぜこの部屋には家具がそのままで、僕の部屋と隣の部屋には何もないのだろう?座布団に正座して部屋を眺めた。足がしびれて限界を迎えた頃、諦めて階段を下りた。何も思い出せない。




 重い足取りで一階に降りて台所に入ったところで、間近で鳥がバタバタと羽ばたく大きな音がして、驚いた僕は素っ頓狂な奇声を上げて、おもいきり壁に頭をぶつけた。




 心臓が口から飛び出るほどに驚いた。鼓動がこれ以上無い程に大きく胸を打って痛いほどだ。いつの間にか、この異常な静寂に慣れてしまっていたのだ。


「・・・びっくりした。」


 薄暗い食卓に大きな鳥籠が置いてある。なぜこんな所に鳥籠が?


 二十センチほどの大きさの黒い鳥が鳥籠の中を埃を舞いあげながら、飛びまわっている。


「こんにちは!こんにちは!」


 ぎょっとして声の主をよく見ると、交互に首をかしげ、小さな丸い目でこちらを見ている。可愛らしいが、死ぬ程驚かされた後なので、なんとも憎らしい。鳥の種類に詳しくないけれど、話すところから九官鳥だろうか?


「びっくりさせんなよ・・・。こんにちは。」


 僕はぎこちなく鳥に挨拶してから、自分の行為がひどく滑稽に思えた。まだ心臓は大きく鼓動していて落ち着かない。


 籠の中には餌も水も用意されていない。誰かが、この鳥を世話しているという事だ。


 僕の家に誰か居る?


「お前待ってた。待ちくたびれた。良かった。待ってて良かった。嬉しい。ずっと待ってた。ずっとずっと待ってた。良かった。良かった。嬉しい。あそこに居ると良く無い。お前帰る。嬉しい。嬉しい。疲れた。ちょっと待って。疲れた。嗚呼、疲れた。」


 鳥は叫びながら、興奮して鳥籠の中を飛び回ったが、本当に疲れたのか、ぐったりと動かなくなった。


「えっ?ええ?大丈夫か?」


 声をかけて軽く籠を叩いてやるが動かない。何日も絶食して死んだのかもしれない。


 水道の蛇口をひねると水が出たので、コップに水を汲んで入れてやったが、鳥は動かない。


何の愛着もない鳥だが、動かない鳥を見てなんとも寂しい気持ちになった。思えばここに来て動く生き物に初めて会ったのだ。出来れば死んでほしくない。




 それに飼い主が居ない間に死んだとなれば、僕が誤って殺してしまったと思われるかもしれない。水に浸した箸で一滴、鳥の口に垂らしてやるが、反応は無く、灰色の瞼は硬く閉じられたままだ。


「おおーい。」


 僕の呼びかけが薄暗い台所に小さく留まって行き場の無いまま漂った。


 鳥籠を隣の仏間のテーブルに移動させて、苦労して雨戸をあけた。昼間なのに雨戸が閉まっているから薄暗いのだ。




 しばらく鳥を見ていたが、あきらめて、仏壇の見知らぬ遺影を眺めた。死んだ爺ちゃんが居たような気がするが全く思い出せない。 


 遺影は三枚あって二つが白黒で夫婦だろうと思う。後の一枚はカラーでピンボケの婆さんが違和感のあるブルーバックで難しい顔をしている。たぶん小さな写真を無理やり大きく引き伸ばしたのだろう。


 座布団に正座して、おりんを二回鳴らして手を合わせるが、まるで他人の仏壇を拝んでいるようで何の言葉も出てこない。ふと位牌が無い事に気が付いた。真ん中にはお釈迦様か、阿弥陀様か分からないが鎮座していて、両脇には小さな掛け軸の様なものしか無い。


位牌はどこに有るのだろう?




 家の中を所在なくウロウロ見て回ったが、やはり何も思い出せなかった。違和感も大きくなるばかりで、自分の家に居るのに落ち着かない。まるで自分が小さくなって精巧に作られたドールハウスの中に居るような感覚なのだ。でも分かった事もある。何も無い部屋は僕の部屋とその隣の部屋だけで、他の部屋に変わった点は無い。カレンダーには予定が記入してあるし、菓子籠には食べかけの袋の開いた、かりんとうや煎餅が入っている。しかし何故だか冷蔵庫には何も入っていない。




 これからどうすべきか考えたが、今夜はここで過ごして明日の事は明日考える事にした。もしかしたら、鳥の飼い主が帰って来るかもしれないし、下手にここを動くべきじゃない気がする。水も出るし、電気も点く。




 ともかく風呂に入る事にした。風呂に入って落ち着きたい。


 何か着替える服を探そうと、立ち上がって部屋の隅のキャリーバックが目に入った。中には着替えが一式入っていたが、下着が女物だ。


 ふと脇を見るとキャリーバックの陰のコンセントから、充電コードにつながれたスマートフォンが転がっているのに気が付いた。飛びついてホームボタンを押すも、暗証番号がわからない。日付は十一月二十四日、金曜日となっている。




十一月?




 こんなに暑いのに?


 どう考えても真夏の気候だ。しかも時計は十七時二十三分。


 さっき見たカレンダーを見直すと一月になっている。十一カ月もめくるのを忘れているはずが無い。


 壁の時計は八時六分。コチコチと音を立てている。


 わからない。どちらの時間にも違和感がある。




 携帯の暗証番号を適当に入れてみようかと思ったが、確か三回間違えるとロックがかかってしまうはずだ。やめておいたほうがいいだろう。ここに電話会社があるとは思えない。


 待ち受け画面には犬が腹を上にして寝ている写真が使われている。何処かで見た犬だ。背景にも見覚えがある。でもこの家ではない様な気がする。




 情報の宝庫が手元に有るのに中を見る事が出来ないなんて、それこそお預けを食らった犬みたいだ。


 犬を飼っているのだろうか?


 玄関に首輪やリードは無かった。餌を入れる皿も無い。縁側から外へ出てぐるりと外を見て回ったが、犬小屋は見つからなかった。でも確かにリードをぐいぐい引っ張っられる感覚を知っているのだ。


 じっと手の平を見つめたが、風呂に入ろうと思い直した。




 誰に会う訳でもないしタオルでも巻いて、下着が乾くのを待てばいい。二時間もすれば乾くだろう。色々な事がありすぎて疲れた。


 脱衣場に入って鏡に映る自分の姿を見た時、あまりの姿に自分と分からず、僕はまた素っ頓狂な声を上げて驚いてしまった。でもすぐに鏡の中のゾンビもこちらを見て驚いていたので腹を抱えて笑ってしまった。


 何という恰好だろう!ハリウッドの特殊メイクも真っ青だ。


 予想をはるかに超えた姿をまじまじと観察した。ここがアメリカなら間違いなくショットガンで頭を打ち抜かれてしまう。さっきの携帯で記念に写真を撮っておこうかと思ったが、自撮りする姿を思い浮かべて止めておいた。




 手早く制服を脱いで風呂場の扉を開けて一歩足を踏み入れると、何の前触れも無く突然に僕は立っていられなくなった。




 激しい吐き気とめまいがして、トイレまでよたよたと歩き吐いた。


 涙と鼻水と黒緑の苦い吐しゃ物が一度に吹き出し、気が付けば僕は獣のように唸っていた。何が起こったのか、まるで心当たりがない。手がじんじんとしびれている。




 吐き気は何度も込み上げてきて、僕は今度こそ、このまま死ぬのではないかと思った。冷汗が出て寒気がする。何も入っていないのに搾り上げられる胃は、捕えられた別の生き物の様に動く。




 永遠に続きそうな吐き気が納まると、壁に体を打ち付けながら廊下に倒れこんだ。


 めまいがする。


 世界が左回りに渦を巻いている。動悸が納まらない。その間も僕は獣のように唸っていた。




 めまいの中、硬く目を閉じて世界が静かになるのを祈る様な気持ちで待った。耳鳴りもする。ゲロ臭い生唾を何度も飲み込みこんで、なるべくゆっくりと深く呼吸した。洗濯機の中みたいに世界が回る。気持ちが悪い。




 どうすれば良いのかわからないし、どうすることも出来ずに、僕はただただ規則正しく呼吸をする事だけに心血を注いだ。


 どれくらいじっとしていたかわからないけれど、徐々に吐き気とめまいは治まり、世界は沈黙を取り戻していった。そっと目を開けて涙を拭いた。


 もう世界は回っていない。振り出しに戻った様に体が重い。指先に十分血が巡ってから制服を抱えて台所に戻ると、口をゆすいで顔を洗った。




 枕代わりに座布団を持って縁側へ出て足を抱えて横になった。


 涙が出る。


 何だったのだろう?


 怖い。心底内臓が震える。


 しばらく庭に咲くバラを見ていたが、いつの間にか眠っていたようだ。






 目が覚めて壁の時計を見て、おやっと思った。一分も進んでいない。じっと耳を澄ますと、確かにコチコチと秒針の音がする。




「夜は来ないよ。」




 唐突に声がして、はじかれるように振り向くと鳥がまっすぐにこちらを見ている。




 一瞬鳥がしゃべっているような気がしたが、挨拶してくれた時の声とまるで違う。子供が大勢で話している様な声だ。


 しかも、およそ鳥とは思えぬ流ちょうな発音だった。僕は何か武器になるものは無いかと見渡したが孫の手しかない。それをひっつかむと座布団を盾にして、台所を窺った。


 誰も居ない。




 すると背後から先ほどの声がした。


「どうか怖がらずに聞いてほしい。」


 後ろは仏間しかない。


「私の事は“とばり”とでも呼べばいい。」




 悪質ないたずらだ。鳥がこんなに流ちょうに話すわけがない。どこかにマイクが仕込んであって、別室でカメラ越しにモニターを見ているに違いない。


「あの!冗談はやめて、出てきてもらえますか?」


 僕はどこに話すともなく話した。みっともない程に声が震えている。姿見に映った自分の姿を見てめまいがした。


 なんとも情けない格好だ。股間を座布団で隠す。


「あの。あの!僕本当に困ってるんです。記憶喪失になってしまったらしくて。」


 返答を待ったが、応答がない。聞こえなかったという事は無いと思うが、少し声のボリュームを上げて話すことにした。


「出来れば、助けてほしいんですけど。」


 僕の声はすぐに圧倒的な静けさに押しつぶされてしまう。


 籠の中で鳥が激しく羽ばたいた。


「助けるのはやぶさかでないよ。」


 鳥はまっすぐにこちらを見ている。恐ろしい。声は確かに鳥から発せられている。マイクは見当たらない。




 僕は馬鹿馬鹿しいと思いながらも、この状況に乗って話したほうがいいのではないかと思い、鳥に話す事にした。しかし、いざ鳥相手に話すとなると、何を話していいか咄嗟に言葉が出てこない。


「ダム湖から歩いて来たのだろう?ずいぶん深く潜っていたから、時間がかかった。」


 ダム湖?ハッとしてずぶ濡れだった制服を見る。


「早くしたほうがいい、時期に砂嵐がやってくる。少年はもう目覚めない。」


「しょ、少年とは僕のことですか?」


 目覚めないとはどういう事だろう?僕はやはり死んでしまったという事だろうか?


「いいや、先ほどまでいた少年さ。私がここに囚われた時には名を失っていた。君を呼んでいた少年さ。」


 言っている内容が少しも理解できない。しかしそれよりも僕を混乱させたのが、間近で見れば見るほど、鳥が喋っている事を認めずにはいられない事だ。唾を飲みこむとゴクリと大きな音がした。


本当に?本当に鳥が喋っているのか?




「僕を呼んでいた少年が、目覚めないとはどういう事でしょう?」


 知らぬ間に敬語になっている。鳥にむかって敬語で話していると、現実味が薄れていくが、何か話していないと不安になる。


「君を見て安心したのだろう、先ほど眠った。とっくに限界は過ぎていたのだ。」


はぁ?何を言っているのだろう?少年に呼ばれて、ダム湖から歩いて来た?砂嵐?


「私は君の名を知っている。だが不完全だ。こんな事なら少年に聞いておくべきだったな。時間はたっぷりあったのに悔やまれる。君がここまでたどり着かないと踏んでいたのだ。軽率な判断だった。君もここで一緒に消えるのは不本意だろう?」


 消えるとは、死ぬという事だろうか?


「少年は君の名を“ケイ“と呼んでいた。」


「・・・ケイ?」


 ケイ?K?


 突然に自分の名があっけなく発表されたので理解するまでに数秒かかった。


 ケイ?K?


「どうだね?何か思い出したかね?」


 鳥は宿木の上でステップを踏む様に体を動かした。


「ケイですか?そうですね、思い出した気がします。」


 言葉に出すと、なんとなく体の輪郭が定まった様に感じた。しかし同時に体の輪郭が定まっていなかった事に気が付いて驚いた。


「うむ。君は名を捨てた。理由は知らないが、大方何もかもに絶望したのだろう。絶望すると人は名を捨て、太陽も月も恨むようになる。そうだな、君に詩をプレゼントしよう。」と、言うと鳥は幾分姿勢を正した。




 ある所にある男が居た


 彼はある日もうこの世に行くべき所は無いと言って


 両脚を落とした




 彼はもうこの世に聞くべき歌声は何一つ無いと言って


 両耳を削いだ




 彼はもうこの世に見るべき物は何一つ無いと言って


 両目を突いた




 彼はもうこの世に嗅ぐべき香りは何一つ無いと言って


 鼻を削いだ




 彼はもうこの世に触れるべき物は何一つ無いと言って


 両腕を落とした




 それを見た者達が不憫に思い


 馬は脚を分けてやり


 兎が耳を分けてやり


 鷹が目を分けてやり


 狼が鼻を分けてやり


 猿が腕を分けてやった




 彼は大きな愛に抱かれ生きている事に感謝した


 しかし人々は彼の姿に恐れおののき石を投げた




 彼は絶望し馬に脚を返しに行ったが


 馬は脚が無い為死んでいた




 次に兎に耳を返しに行ったが


 耳が無い為死んでいた




 こうして鷹も狼も猿も同様に死んでいる事がわかると




 愚かな彼は絶望し


 また、もうこの世に行くべき所はどこにも無いと言って


 両脚を落とし


 両耳を削いで


 鼻を削いで


 両目を突くと


 最後に両腕を落とした




 それを見た人々は不憫に思い


 石を捨て花を添えた




「以上だ。」と、誇らしげに言った鳥から少し距離を置いて、何か言わなければと口を開いたが、余りにも気味の悪い突然の厨二病ポエムに何を言っていいか分からなかった。


「人に詩を贈るのは初めてだが意外と難しいものだな。さあ、猶予はあまり無い。」


 鳥は二度ほど羽ばたくと、僕の心情などお構いなしにそう言ってから、くるりと回って僕を見た。

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